第12話 かれが遺したもの

「屍体売り――みつかったんだ。おれがあの娘にしてやれることが、たったひとつだけ、みつかった」

 ジブリールは、そういった。店のなかにも風が吹き乱れ、かれの薄汚れた外套は、さみしげに風にはためいていた。

「邪眼かね」親方ダブウは、もの憂げに訊ねた。

 ジブリールは、静かにうなずく。

 醜く爛れた貌に、水晶のように美しい青い瞳がたったひとつ、慄えていた。

 ジブリールは深く息を吸いこみ、歯を喰いしばった。

 そしてみずからの眼窩に、人差し指を深く突き立てた。

 たったひとつ残った、その邪眼に。

 指の隙間から、鮮血が、音を立てて飛び散った。

「おれにはもう、必要のないものだからな」

 苦痛に貌を紅潮させながら、かれは身を慄わせていた。ゆっくりと、血管と視神経を引きちぎる痛ましい音が響く。

 そしてかれは、ついにその眼球をえぐり出した。

「これをあの娘に届けてやってくれないか。おれの名まえは――出さなくていい」

 眼窩から流れ出る血の涙を押さえながら、ジブリールはいった。手のひらの上の眼球が、親方をじっとみつめていた。人の心を惑わすような、美しい青さを湛えた瞳。まるで、冷たい水がみちているかのような――。

「病室でいつもひとり泣いている、あの娘の助けになりたいんだ」

 ジブリールは激痛に息を荒げながら、そういった。

「おれの代わりに――あの娘に幸せになってもらいたいんだ」

 眼窩から流れ出る血が頬をつたい、ぽたぽたと床に滴り落ちた。かれは、必死で息を整えようとしていた。

「あの娘が生まれたとき、奪われた邪眼だ。片方だけで申し訳ないが、取り返してきた、そう伝えてくれ。そして、この画を渡してほしいんだ」

 ジブリールはカンヴァスの掛け布を取った。親方はそれをみて息を呑んだ。

 その画は、ついに完成した少女の肖像だった。深い青の背景、アラベスク模様に囲まれた中心に、血の涙を流す、盲目の少女が描かれていた。それはなんという深く、純度の高い絶望だろうか。しかし、あらゆる希望を拝し、絶望だけを抽出して結晶化させたようなその作品は、一方でなんという圧倒的な完成美だろうか。ジブリールの持って生まれた天賦の才能と、少女の持って生まれた天賦の美、それらがカンヴァスのなかで溶け合い、一枚の奇跡を生み出していた。まるで、結ばれなかった恋人たちの落とし子のように。芸術というよりは、もはや魔術。カンヴァスの上の、錬金術。まぎれもなく、ジブリール最後の――そして最上の作品だった。

「これが、おれがあの娘にしてやれるすべてだ」

 ジブリールは、そういって満足げに嗤った。

「おれのことは、いわないでくれ。あの娘が色と光を取り戻し、目がみえるようになったなら、おれの厭わしい姿をみて、きっとほかの人間たちとおなじように嫌悪するだろう。そのことは、おれにとってもつらいし、あの娘にとってもつらいことに違いない」

 親方は、無言でうなずいた。もはや、ジブリールに親方の表情など、みえる筈もなかった。だけど、たとえみえなくとも、かれは親方の了承を察したようすだった。

「あんたに払う代金は、この右手だ」

 ジブリールはじぶんの右手をさし出した。十五歳という年齢に釣り合わない、子供のようにか細い右手だった。生涯のほとんどを部屋に閉じこめられて育った絶望が、腕に浮き上がる血管の一本一本にまで、深くきざみこまれているようだった。

「いままで何年もの間、画を描きつづけてきた右手だ。これをあんたの店で売れば、多少の金にはなるだろう? それをせめてもの代金に、あんたに頼みたい。その邪眼を、あの娘に届けてやってほしいんだ」

」親方は、かれにそう訊ねた。

 ジブリールは醜く貌を歪めた。それは、もはや笑貌とも泣き貌ともつかない表情だった。

「おれに残された財産は、邪眼とこの右手だけなんだ。これを失ったら、もう二度と画は描けない――それはつまり、もう生きてはいけないってことさ。おれはこれでも、画家のつもりでいるんだから。あんたは、女ひとりのためにここまでするおれを、ばかだと嗤っているのかもしれん。だけど、おれはいま、最高に満足してるんだ、ようやくおれは、だれかを幸せにしてやれるんだ。そして、もうこれ以上――だれをも不幸にさせずにすむだろう。あの娘を幸せにしたことに、誇りを持って死ねるだろう。いろいろ考えた。ほかになにかいい方法があるんじゃないかって。ふたりともが幸福に生きられる手段があるんじゃないかって。でも、どれだけ考えたって、おれにはほかに、あの娘に与えてやれるものが、みつからなかった。おれにはなんにもないんだよ――だけど、おれはあの娘に最後の最後で安らぎを与えてもらった。これは、それへのお返しだ。受けた恩は――どんなことがあろうとも、返さなきゃな」

 沈黙が店を支配していた。ジブリールはただ息を乱し、親方は静寂の重みにごくりと唾を呑み、訊ねた。

「その――少女の名は?」

「ラティーファ」

 ジブリールは、神の御名を口にするように答えた。

 すべてを伝え終え、ジブリールは慄える右手で、回転式拳銃を取り出した。

 そして、ゆっくりと、その銃口をじぶんの貌に向ける。

」ふっふ――と、自嘲的にかれは嗤った。「――……」

 かれの眼窩から溢れだす血は、まるで真紅の涙のようだった。慄えるじぶんの右手を左手で摑み、二度と仕損じぬよう、かれは銃口を口に咥えこんだ。

「頼むぜ……、屍体売り」

 銃声が夜の街に吠えた。残響とともにジブリールは音を立てて仆れこみ、口から白い脳漿を溢した。とめどなく流れ出る血で床を汚しながら、かれは一瞬にして絶命した。そう――、まちがいなく絶命した筈だった。弾丸は頭部を貫通し、脳幹はこなごなに破壊されていた。即死だった。生きている筈がなかった。

 だが、すでに息絶えていたにも拘わらず、かれの右手は這うように動き、拳銃の二発めの撃鉄を起こしていた――

 心を引き裂くような銃声が、またも響いた。ジブリールの頭蓋の後方が爆発し、脳漿が壁に飛び散った。あまりの無惨な光景に、親方はただ立ちすくむのみだった。

 銃声がやむのを待っていたかのように、ジブリールの右手はの指が、ぴくり、ぴくりと、五匹の蛆虫のように蠢いた。いちばん太く大きな蛆が、またゆっくりと撃鉄を起こした。

 なんたる悪夢であろうか――親方は、息を乱してそのようすに見入っていた。

死してなお、ジブリールの右手を突き動かすその執念は、いったいなんだというのだろう。

 親方はその異常な光景から、けっして目を離せなかった。どんなに無惨でも、どんなに悲痛でも、見届けなければならない、そんな気がしたからだ。

 ジブリールの右手は、みたび引き金を引いた。銃声とともにジブリールの屍体はもんどりうって転がった。それでも飽くことなく続けざま、屍体は四発めの撃鉄を起こし――こなごなに砕けたじぶんの頭部に、さらに弾丸を撃ちこんだ。

 それは醜い死に貌を衆目に晒さぬようにという徹底した破壊衝動だったのだろうか。それとも、じぶんの人生への呪い、徹底した自身への憎悪だったのだろうか。思えば、ジブリールはどれだけ迫害されても、世界に絶望などしなかった。かれが絶望していたのは、ただ――かれ自身にだけなのだ。

 止まることなく五発めの銃声が響き渡り、店の窓ガラスを慄わせた。

 屍体が死してなおも自身を殺し続ける。

 それは親方が想像しうるかぎり、この世でもっとも壮絶な光景だった。

 息もできぬほど重く、張り詰めた空気のなか、六発め――最後の銃声が静寂を引き裂いた。

 その余韻が音楽のように残り、ジブリールは自身の流した血と脳漿の海に、溺れるように沈んでいった。辺り一面、火薬の臭いと、血の霧に染まっていた。銃弾はジブリールの頭部の肉を灼き、勝ち誇るように硝煙を立ち昇らせていた。

 弾装の銃弾はすべて尽きた――しかし、ジブリールの、自身への憎悪は、尽きなかった。かれの右手がびくりと引きつった。そしてふたたびゆっくりと、確かめるように拳銃の撃鉄を起こした。からっぽになった拳銃を自身に向け、かれの右手はなおも執拗に引き金を引き続けた。


 ガチャッ。ガチャッ。ガチャッ。ガチャッ。ガチャッ。ガチャッ。ガチャッ。


「もういい。もういいんだ」

 親方はかれの右手を押さえ、やさしくそういいきかせた。

 その声が届いたのか、弾装に弾丸がないことを理解したのか、ジブリールの右手はようやく撃つのをやめた。

 ジブリールは――かれの出生の謎を残したいまとなってはかれをジブリールと呼んでいいのかどうかさえわからないが――ともかくかれは死に、かれを苦しめた醜い貌は、もうそこにはなかった。名もなく、貌もない屍体。もはや、かれがこの世に存在したことを証明するものは、なにひとつない。

 親方は祈りをささげた。神など信じていなかった。だけど、ジブリールのためならば、信念を曲げて祈ってもいい、と思った。

 そして斧を取り出し――約束どおり、ジブリールの痩せ細った右手を譲り受けた。その一部始終を、ジブリールの邪眼だけが、じっと見つめていた。――

 これが悲運の天才画家、ジブリールの人生のすべてだ。


        †


 すべてをきき終えて、ぼくはごくりと咽喉を鳴らした。冷たい汗が、頬を舐めていく。

「つまり、おれたちが追っているマジッド・ムワッファクの右手は、もともとはその、ジブリールの……」

「十中八九」親方は答えた。「ジブリールの右手はその後、屍体の蒐集家に売ったんだ。その右手がさまざまな人間の手を渡り歩き、戦争で右手を失ったマジッド・ムワッファクのもとに行き着いた……」

 ようやく話を呑みこみつつあったぼくは、親方の話を引き取った。

「マジッド・ムワッファクは、ジブリールの右手をじぶんの腕に縫いつけた。ジブリールの右手に残っていた記憶と執念が、マジッドにあの一連の作品群をもう一度描かせ、この世に蘇らせた。そして画壇で成功するというジブリールの悲願を叶えさせ――同時に、ジブリールの右手にきざまれていた拳銃自殺の記憶が蘇って……マジッドも死んだ。ジブリリールの死を、繰り返して」

「そんなところだろうな」

「おれたちが追っている青い片眼の男ってのは、その死んだ筈のジブリールだっていうのか――ジブリールの亡霊が、じぶんの右手を取り返しにきたっていうのか!」

「わからん――だがいずれにせよ、やつをみつけにゃあならん。もう、ジブリールを休ませてやってもいいころだ。ジブリールの右手は、ジブリールの墓に返してやろう。やつが安住できる場所は、世界の何処にもなかった。墓石の下だけだ――やつが安心して眠れる場所は」

 親方は、ぶどう酒を呑み干した。

 ぼくは助手席の親方をみた。親方の双眸は、やさしかった。屍体を売り物としか扱わないかれが、金儲けのこと以外にはけっして動かないかれが、あんなやさしい表情をみせることは、ぼくにとって大きな意外だった。

 おんぼろトラックのエンジンが、怯えるような排気音を立てる。

 どこまでも長く伸びる閑散としたハイウェイに、ついに、果てがみえたのだ。

 灼け崩れた建物が、墓標のようにいくつも並んでいた。沈みつつある夕陽に照らされ、町並みは、影を引きずり出されたように、黒く染めあげられている。

「――スィフルの町だ」

 懐かしさと忌まわしさを同時にこめて、ぼくはぽつりとそう呟いた。

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