第6話 十一歳

 延々と広がる灼熱の荒野に、廃棄された無数の送電鉄塔が突き刺さっている。熱風に吹かれる鉄塔は、ところどころ錆びつき、朽ち果て、いまにも赤茶けた荒野に溶けこもうとしているようだった。ぼくと親方は、嗤っていた。鉄塔の葬列を辿った先に、めざすジナーザの街がある。どこまでも同じ風景が続くこの荒野の果てに、たしかに手ごたえのある目的があった。

 降って湧いたお宝の話に、親方もいつになく機嫌がよかった。助手席に座る親方は、ぶどう酒を浴びるように呑みながら、運転席のぼくに話しかける。

「おれが金を貯めているの、知っているだろう? おれぁよ、もしマジッドの右手を首尾よくさがし出して、こいつを金に換えたらだな、もうこの仕事から、足を洗おうと考えているんだ」

「へえ」ぼくはできるかぎり感情を抑えながら答えた。「いくらぐらい、貯めこんでいるんだい、親方?」

「九六〇万ディーナール」親方はにやりと嗤った。そして鼻歌を歌いはじめた。

「大金だね」

 そういって、ぼくも嗤った。マジッドの右手とともに、と思ったら、しぜんに笑みが溢れて止まらなかったのだ。

 この仕事が終わったら。

 そのときこそ、この手で親方を殺そう――ぼくは心にそう決めた。

 何処か遠くで、定刻を告げる時報のように、迫撃砲の音が響きはじめた。――


 ぼくはもともと、戦争孤児だった。物心つくまえに親をなくし、親族の家を転々として暮らしていた。ぼくの一族は貧しく、どの家も子供をひとり余分に養えるような余裕はなかった。当然ながら、何処に行っても疎んじられ、余計者あつかいを受けて過ごした。

「おまえは憶えていないだろうけど、おまえの死んだ両親も、おまえと同じで一族の厄介者だったよ」

 面と向かって、そう罵られたこともある。怨みごとをいう気なんか、さらさらない、どんなあつかいであろうと、宿と食事の恩は恩だ。だけど、両親のことをいわれたとき、さすがにいたたまれなくなって、ぼくはその日、荷物をまとめて家を出た。そのときの年齢は、十一歳――もっとも、この国では、そう若いともいえない年齢だったけど。

 頬を叩くように吹きつける風は、スィフルの町に冬を告げていた。頸をちぢめ、行くあてもなく途方に暮れながら、もうこれからはだれにも頼らず、ひとりで生きていくしかない、盗みでもなんでもやって、どうにか喰いつないでいくしかない、じぶんのような人間には、それが相応の生き方なのだ、そう思った。もちろん、この国にも孤児院はある。だけどあすこに入るぐらいなら、牢獄に入ったほうがまだましだ、それはよくきく話だった。あえて毛布をかぶって路上で眠ることを選んだ子供たちを、みちすがら何人も見かけるのがなによりの証拠だ。そして眠っている浮浪児たちに混じって、眼を見開いた幼い子供の屍骸が無数に転がっているのも、ぼくの故郷スィフルでは、日常の光景の一部だった。

 広場に出ると、彷徨う死人のように、人びとが群れをなしていた。ランプを売る店、煙草を売る店、ガラス細工を売る店と、露店がいくつも立ち並び、無言の店の主人たちはまるでそれ自体が売り物にひとつであるかのように、座りこんだままぴくりとも動かない。ただ、その土色のターバンだけが、冷たい風にはためいていた。これだけの人間が集まりながら、広場はまるで、無声映画のように静かなのだった。

 ぼくは、人ごみに呑まれて歩き出した。疲れきった足を突き動かしたのは、なんともいえない、いい匂いだった。男たちの体臭や、女たちの香水に紛れそうなその頼りないわずかな匂いを、ぼくの鼻は舐めるように正確に嗅ぎとっていざなった。

しばらく歩くと、広場の片隅に、食べ物を売る露店が並んでいる。

 果物、野菜、魚、羊肉たち。土色の町並みに映えるそれらの極彩色の匂いは、ぼくの空腹をさらに烈しく刺激した。

 雑踏にまぎれ、ぼくは露店のトマトにそっ、と手を伸ばした。それは、ぼくの生まれて初めての盗みだったけど、初めての盗みだからこそより用心深く、狡猾だった。店の主人に追われても、人ごみのなかに逃げこめば、躰が小さいぶんじぶんのほうが有利だ――逃げきれる。そう踏んだのだ。

 だけど、事はそううまく運ばなかった。

盗人アリババ!」

 トマトをかすめ盗って走り出したぼくを、人ごみのなかの大人がその場にねじ伏せた。その人数はみるみる増え、ぼくの周りを取り囲んでいく。懸命にもがいてみたけれど、大人たちの力は強かった。ぼくはたったの十一歳で、しかも空腹で、痩せこけていた。

「離せ、離せよ、ちくしょう」

 ぼくは声の限りに叫び、広場の静寂を破った。だけど、だれひとりぼくの声にふり向かない。だれもがあいかわらず死んだような表情で、地面に突っ伏したぼくのそばを通りすぎるだけだった。

 ぼくは激痛に呻きを上げた。ぼくをねじ伏せる大人たちの腕に、みるみる力がこもっていく。すぐ背後に、跫音がせまってきていた。ふり返るまでもなく、それが露店の主人だとわかった。取り囲む大人のひとりが耳を摑み、投げ捨てるようにぼくを主人に引き渡した。ぼくは貌を伏せていた。怖くて主人の貌なんて、見られやしなかったのだ。法の外の町スィフルでは、市民がみずから盗人に罰を下す。殴られるぐらいなら、まだいいほうだ。眼玉をえぐられた者、腕を切断された者さえ、珍しくもない。警察に突き出してもらえれば、まだ幸運だとさえいえる。

 覚悟したぼくは、眼を閉じて、ぐっと歯を喰いしばった。

 露店の主人はぼくの肩にぽんと手を置いた。面食らったぼくは眼を見開く。主人はその場にしゃがみこみ、ぼくと眼の高さを合わせて口を開いた。

「腹が減っても盗みは、いかん。お金がないなら、分けてもらえませんかとお願いすれば、子供が食べるぶんぐらいの食べものは、だれかがきっと分けてくれるさ。貧しい者に施しを与えるのは当たり前のこと――神さまの教えなんだ。ただ、いまは、みんなが貧しくて、余裕がなくて――それをわすれかけているだけなんだ」

呆気にとられたぼくは、喰いしばっていた歯を解いた。

 露店の主人は、笑っていたのだ。主人は痩せこけていた。ぼくと同じぐらいに。裕福そうな身なりじゃなかった。いや――主人だけじゃない。ましてや、じぶんだけでもない。この国じゃ、だれもがみんな、同じように貧しいのだ。その同胞から盗むなんて、最低の人間のすることだ。

 だけど、じぶん自身をほんとうに恥じなければならなかったのは、つぎの瞬間だった。主人は余分にトマトをみっつとオレンジをふたつ、ぼくにそっと手渡してくれたのだ。主人は、わざわざこれを渡すために、ぼくのあとを追いかけてきたのだ。

 口のなかに唾液がたまるのがわかった。ぼくは礼をいうのもわすれて、むさぼるようにトマトに喰いついた。

「両親は?」露店の主人が、そう訊ねた。

「いない。ずっとまえから。貌も、憶えていない」ぼくは溢れる感情を涙にこめながら、そう答えた。

「これも神の思し召しかね。妻がきょう医者に行ってね、子供の産めない躰だといわれたんだ。どうだい坊主、おれたち夫婦の息子になるというのは。贅沢はさせてやれないが、食事と毛布ぐらいは出してやれる」

 あまりのことに口もきけず、ぼくはそっ、と主人を見上げた。主人はあいかわらず、にこにこと笑っていた。

 かれの表情から、かれが本気なのは、すぐにわかった。ぼくの胸に、なにか温かい光が灯った。それは、きっと――ぼくがこの世で生まれて初めて受ける、他人からの親切だったろう。

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