第5話 墓守ラシード

「マジッドの右手なら知っているよ――」

 意外な言葉を吐いたのは、兵隊墓場の墓守ラシードだった。

 巨大な送電鉄塔が墓標のように並び連なる赤茶けた荒野を都から車で一時間。遺跡のアーチをくぐりぬけた先、有刺鉄線に囲まれた無法の一角。日々、各戦地から大量の屍体が届く、この国のほとんどの人間の終着駅。トラックのドアを開ければ、有刺鉄線の隙間から洩れ出す猛烈な腐臭の風が、嗅覚を奪う。一日でも屍体売りの仕事をすれば、もう一生涯、躰から屍臭がぬけることはない――まるでじぶん自身も、生きながら、死んでいるかのように。

 兵隊墓場の唯一の入り口には、白髪頭に浅黒い肌の墓守が座りこみ、日がな一日、機械のように、煙草の煙を吐いている。腰にはスカーフを巻いた、痩せっぽちの老人。屍体を横流ししてくれる、好々爺、ぼくたちにとっては、神よりも貴い存在だ。そのラシードが、ぼくたちに、またもありがたい託宣を告げた。

「夭折の天才画家、マジッド・ムワッファクの右手だろう? まちがい、ねえさ」

「その行方を知っているだって?」ぼくたちは身を乗り出して問い詰めた。「何処にある? だれが持っているんだ?」

 墓守ラシードは押し黙ったまま、口の右端を吊り上げた。

「しかたねえな」

 親方が皺くちゃの紙幣を一枚差し出し、握らせる。

 墓守ラシードは、紙幣に印刷されたハイヤーム大統領にありたけの皮肉をこめて、うやうやしくこうべを垂れた。紙幣を大事そうに懐にしまい、やっとのことで煙草から口を離す。

「昨夜のことさ――」

 墓守ラシードは口から煙の輪をひとつ、吐き出した。

「世界が終わっちまったかのような、黒洞々たる夜だった。星も月も消えうせて、音をたてるものも、なにもなかった。ふと気がつくと、眼のまえに、ひとりの男が立っていた。夜の闇に溶けて消えそうな、か細い男さ。薄汚れた外套を身にまとい、貌じゅう青黒いターバンを巻いている。貌も、歳もわからない。いや、そこにいるのか、いないのかさえ、あやしく思えるような男さ。

 あんた、いつからそこにいるんだね。わしは、訝りながら、そう訊ねた。ターバンの隙間から片方だけ覗く左眼が、ぎろりと動く。気味の悪いことに、その瞳の色が、青いんだ。まるで、ガラス細工のようだった、凍りついた満月が、そこにあるかのようだった」

「青い……片眼だって……?」

「ああ。不吉きわまるだろう、ダブウ。街をさがしている――やつは押し殺すような声で、そういった。ふとわしは、男がフランスパンを抱えるみたいに、一本の人間の腕を持っていることに気がついた。肘から下を、斧かなにかで切り落としたような腕さ。血がかたまり、黒ずんだ切断面から、屍臭がぷん、と鼻をついた。大きさから察するに、だれか男の右手らしいが、その細く長い指は、重いものなどなにひとつ持ったことがない、ってふうに、繊細で美しかった。骸の右手のあまりの美しさに見惚れるわしに、男は質問をかさねる。ジナーザの街にはどう行けばいい――と。

 こいつは屍体売りか――? わしは、そう訝った。しかしこの界隈じゃあ、見かけない男だな――そうとも思った。街の方角を指さしてやると、男は指さす先を青い瞳でじっと見据えた。ふいに砂嵐が巻き起こり、一瞬、眼を閉じた隙に、男はもう、何処を見渡しても見つからなかった――」

 ふん、とぼくは鼻を鳴らした。

「ずいぶん気味の悪い話だね。でもそれでぼくらを脅しつけたつもりでいるのかい? そんなこけおどしにいちいち怯えてちゃ、屍体売りは商売上がったりってもんだぜ。そうだろ、親方――」

「ジナーザの街、か――」親方は指環まみれの指で、顎ひげをさする。「近いな。車で二時間もあれば行ける」

「あんたたち、やつからマジッドの右手を奪おうってのかね?」

 墓守ラシードの言葉に、親方は口の右端を上げながら答えた。

「屍体売りはもともと法の外の仕事だ。法の外のものを盗むのは、罪でもなんでもねえ、もともと屍は、だれのものでもないんだからな。神様のものだってのなら、そりゃだれのものでもあるってことだ。おれが権利を主張したって、寛大な神は文句なんかいうまいよ――」

「罰当たりなやつだ」墓守ラシードはにがにがしく嗤った。「あの男が持っていた右手は、マジッドのものに違いあるまい。ジナーザは、マジッド・ムワッファクのアトリエがあった街だからな。その街で、右手をさばく気かもしれん――」

 ぼくは眼を輝かせて、親方の表情をうかがった。親方は、少し考えこむように間を置き、ぼくを見下ろして、にやりと嗤った。

「マジッドの右手ともなれば、高値がつくのは眼に見えている。客も一日そこらじゃ、そうそう用意できない大金だ。売れるまえに、墓荒らしをみつけ出して、右手を奪う。間に合う見こみは、じゅうぶんだな、ザイド」

 親方はぼくの肩を思いきり叩き、ぼくは思わずよろめいた。

「行くぞ、ザイド! 車を出せ!」

「承知!」

 声の限りに、ぼくは答えた。呑んだくれの親方だったけど、こと金儲けに関しては、本物なのだ。ぼくは親方を、心底嫌ってはいたけど、かれの商才にだけは、一目置いていた。かれと儲け話で目的が一致したとなれば、ランプの魔神を味方につけるより、ずっと頼もしいだろう。

 ぼくはすぐさまおんぼろトラックに乗りこみ、肉切包丁ジャンビーヤを仕切り板の上に投げ置いた。キーを挿しこみ、右に回す。

 意外にも一発でエンジンがかかり、きき慣れたエンジン音が、歌うように鳴りはじめた。

 進むべき道に、光が射した。アクセルを踏み、意気揚々とぼくたちは荒野を突き進む。

 めざすは、マジッドの故郷――ジナーザの街。

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