第4話 屍体さがし


 店の扉を開けると、そこには黒いアバヤに身を包んだ、小柄な老婆が立っていた。貌を覆うヴェールから覗くそのまなざしは、捕われの小兎のように慄えている。

「なんの用だ? もう店じまいなんだがね」

 親方がぎろりと老婆を睨みつけた。

「お願いがあるのでございます」老婆は俯きながら、言葉を洩らした。「うちの息子の屍体は、こちらにございませんでしょうか。どうか、お教えくださいませ」

「息子の屍体――だって?」ぼくは片眉を上げ、言葉を返した。

「さようでございます。わたしの、たったひとりの息子なのでございます。戦争に行ったきり、戻ってきません。軍からは、行方不明の告知書が届きました。生きているのか死んでいるのかさえ、わからないのです。屍体売りのあなたがたなら、なにかご存知かと思い、こうしてお訪ねしましたしだいで……」

 地下の屍体置き場に若い兵士の屍体があった――それを思い出し、ぼくは暗澹たる気持ちで老婆に訊ねた。

「息子さんの名は?」

「ナズィール、でございます」

 老婆に気づかれないよう、ぼくは安堵の溜息をひとつ洩らす。

「おばさん。そんな名まえの屍体なら、うちにはないよ。兵士ってのは、首から認識票をぶら下げてるだろ? だから、兵隊の屍体なら、名まえはぜんぶ、わかるんだ。ナズィール、なんて名まえの屍体は、この店には置いちゃいない。ここさいきん、仕入れたこともないね。記憶はたしかだぜ。ちからになれなくて、申し訳ないけど」

「この店には、ありませんか――」そう答えはしたが、老婆はまだ帰ろうとしない。ただその場でおろおろと狼狽するだけで。

「いいことじゃないか、婆さん。息子さんは、まだ生きてるってことかもしれない。これから店を閉めて、兵隊墓場に仕入れに行くところだ。ナズィールという名の屍体がないか、ついでにさがしてみてもいい。兵隊墓場に入れるのは、おれたち屍体売りだけだからね」

 親方は無愛想な表情を崩すことなく、早口にそうまくしたてた。

 老婆はそれで納得したのか、何度も頭を下げて、ようやく店をあとにした。

「親方、いいのかい。あんな安請け合いして。あのおばさんに、ぬか喜びさせることになるかもしれないぜ」

 鼻を鳴らして、親方は答える。

「ああでもいわないと、帰ってくれそうになかっただろう。もしも屍体をみつけたら、取れるだけの報酬を請求してやるさ」

 ドン――と店の扉が重々しく鳴った。

 ぼくたちは、そっと貌を見合わせる。

 さらに扉を叩く音は続いた。二度、三度――背すじに響くような音だった。

「やれやれ、しつこい婆さんだ」親方がちらりとぼくをみて、顎で扉を指し示した。

 ぼくは従い、扉をそっと開けた。

 瞬間、いやな臭いが鼻をついた。違う――背すじに冷たい感覚が走りぬけ、ぼくは大きく眼を見開いた。

 威圧的な、大きな影が立ちふさがっていた。見上げれば、陽の光をさえぎる長身に、青い制服――、

 戸をくぐり、やつは悠然と店を見まわした。

 途端に、店の空気が、苦く重苦しいものに変わっていく。

「おはよう、蛆虫ども。おれをだれかとまちがえでもしたか?」

 胸を張り、顎を突き上げ、長身をより高く見せながら、その警官はぼくを見下ろした。色白で端正な貌だちではあったが、その双眸はまるで蛇のように冷たい。うしろには、屈強そうな、ふたりの部下を引き連れている。

 長身の男が連れているふたりの部下は、貌も背かっこうもうりふたつの、双子の兄弟だった。ふたりとも躰の一部を失った戦争帰りの若者で、兄は右脚がなく、弟は片方の耳がない――そのおかげで、どうにかふたりを見分けることができた。

双子の兄弟は、にやにやと嗤っていた。長身の男からの命令を、いまかいまかと待っている、凶暴な猟犬のようだった。

「なんの用だ――ラフマーン」

 ぼくは精一杯、いきがった口調で、長身の男に問うた。

「今月ぶんの上納金は、もう納めた筈だぜ」

「上納金?」ラフマーンの眼がぎろりと下を向いた。「ひとぎきの悪いことをいうなよ、小僧。ありゃあ、善良な市民からの、心尽くしっていうんだ。市民の平和を守る、われわれ警察官へのな」

 ぼくはぐっと言葉を呑んだ。うしろの双子の部下が、さも楽しげに声を出して嗤う。

 片手のラフマーンといえば、ザックーム市場スークじゃ名の知れた悪徳警官だ。毎月十三日に店にやってきては、ぼくたちの売り上げから、かなりの金額を持ち去っていく。そのかわり、違法である屍体売り稼業を、見逃してもらう、という寸法だ。上納金の支払いを断って、その場で射殺された盗品売りも少なくない。慈悲深き者ラフマーンって名は、やつの両親の、悪い冗談にちがいなかった。

 ラフマーンの腰の革ベルトには、何人もの無実の市民の命を奪ってきた回転式拳銃が、鈍い光りを放ちながら、暴れる機会をいまかいまかと待ち受けている。いやな臭いの正体は、こいつだ。血の臭い。焼けつく肉の臭い。屍体の臭い。悲鳴の臭い。命乞いの臭い。怨み。憎しみ。悲しみの臭い。何人ぶんも、何十人ぶんも、この鉄の塊に染みついていやがるのだ。

 ラフマーンはぼくから視線をはずし、売り物である屍体の右手を手に取った。そしてそれを貌に近づけ、まじまじと眺めた。

 やつの眼の下にはくまが走り、どことなく爬虫類のような印象を受ける。そして視線を下ろすと、肘から下が失われた右腕――古傷でありながらその傷口はやけに生々しく、時折と不気味に呼吸をするような音さえきこえる。うしろのふたりの部下同様、戦場で失くしてきたものだ。そして、戦争から帰ってきたラフマーンが失ったものは、右腕だけではなかった。やつは右腕と一緒に、感情や表情までもを失って帰ってきたのだ。

 売り物を乱暴に陳列棚に戻し、ラフマーンは薄い唇を開いた。

「われわれは、画家のマジッド・ムワッファクの怪死事件を追っている」

 ぼくと親方は眼を合わせた。

 マジッド・ムワッファク――成功したのちまもなく謎の自殺を遂げた、夭折の天才画家の名だ。

「やつの死は怪異だった。その上、墓場から、屍体の右手が盗み去られている。おまえたちも、知っているだろう?」

「新聞で読んだからな」

 親方がそういうと、ラフマーンはふふんと笑みを浮かべた。

「屍体売りのしわざ――だというのか?」親方が、ラフマーンを睨みつける。

「それ以外に、考えられまい、ダブウ? 墓を荒らすのが、おまえたち蛆虫どもの仕事なんだからな」ラフマーンは左手でふたりの部下に合図した。「――さがせ」

 双子の警官が店に散り、乱暴な捜索を始めた。せっかく陳列した屍体の手足が、音をたてて床に落ちる。骨が折れちゃ、売り物にならないというのに――ぼくは怒りに貌を歪めた。

 双子の警官が、捜索にかこつけて店を荒らし回ろうとしているのはあきらかだった。親方はあきらめたように溜息をつき、椅子に腰を下ろし、ぶどう酒を呷りはじめている。

「ラフマーン巡査長。それらしいものは、なにも」

 双子の警官が、声をそろえてそう報告する。

 ラフマーンは不愉快そうに舌打ちした。

「おまえたち、ほんとうになにも知らんのだろうな」

 親方もぼくも、なにも答えなかった。ただ、やつの冷やかなまなざしから視線をそらさなかった。

 沈黙。それがぼくたちにできる、ラフマーンへの唯一の反抗だった。

「マジッド・ムワッファクほどの画家の右手なら、かなりの高値で売れるんだろう? そこいらに転がっている兵士の屍体とは、比較にならないお宝だ。おまえたち薄汚い屍体売りどもが、事件に絡んでいないわけはないんだ。マジッドは自殺したというが、それすらも怪しいと、おれは思っている。成功して大金を得た男に、いったいなんの死ぬ理由がある? しかも、売春宿で買った女に手をつけもせず、だ。つまり、――わかるな?」

 ぼくたちはなおも憮然と黙りこんだ。

 ラフマーンはやがて疑いの視線をそらし、深く息をついた。

「まあいい。いずれにせよ、おまえたちふたりはそのうち牢獄にぶちこんでやる。いつまでも、この街で商売していられると思うなよ」

 ラフマーンはそう吐き捨て、踵を返した。双子の部下たちも肩を揺らし、ブーツの靴音を立てながら、店を出る。

 血のように赤い扉が閉まると、張り詰めていた重い空気が、ようやくにして溶けて消えた。

 朝の静けさが戻り、店の外で小鳥たちがさえずりを始める。ぼくたちは、やっとの思いで息をついた。

「……マジッドの右手」

 声に出すと、それはまるで魔法の言葉のようにぼくの心を捉えた。

 ぼくは親方のほうへ向き直る。

「盗み出したのは、ほんとにおれたちの同業者なのかな」

「確証はねえが」親方は、長い顎ひげをさすりながら答えた。「その可能性がいちばん高い。客にいちばん需要があるのは、兵士の屍体だ。健康で丈夫だからな、実用的なんだ。ただ、画家や音楽家の屍体ってのも、場合によっちゃ、高く売れる場合がある。特に利き手はな。兵士の屍体より仕入れに骨が折れるから、割に合わない場合も多いが、うまくすれば大儲けさ。おれも一度、画家の腕を売ったことがあるよ。大金持ちの屍体の蒐集家が買っていった。おまえの腕のようにか細い腕だったが、それでもばか高い値がついたもんさ」

「マジッドの右手をじぶんの腕に縫いつけたら」胸を高鳴らせて、ぼくは訊ねる。「かれのような画才が身につくってことかい?」

 親方は小さくうなずいた。

「心や頭で記憶するように、手や脚にだって生前の記憶はある。となれば、画才の一部を受け継ぐことだって、あるだろう。あくまで一部で、才能をそのまま引き継ぐようなことはできん筈だがね。しかしどうせ右手を縫いつけるなら、路傍の人の右手よりは、名のある才人の右手を縫いつけたがるもんさ――ことに金持ちの客どもはな」

 退屈な日々に、希望の灯りがついた気がした。マジッドの画の売値から考えても、マジッドの右手に破格の値がつくのはまちがいない。

 とんでもないお宝だ。それが手の届きそうなすぐ眼の前に転がっている。

 手に入れればどうなる? 美味いものも食べられるし、いい家にだって住める。本を買いこんで、勉強をすることもできる。

 それに、なによりも――ぼくの悲願を果たすことができる。

 手足に力がみなぎるような昂奮を、ぼくはそのまま声に出した。

「マジッド・ムワッファクの右手、さがし出してぶんどれば大儲けだ。ちまちま兵士の屍体ばかり売ってたってしかたねえ、ここらで大きくひと儲けしようぜ。しがない暮らしからぬけ出すチャンスだ、親方」

 親方はふっふ、と苦嗤いを溢した。

「しかしな、マジッドの右手を盗んだ墓荒らしが、何処に行ったのかわからねえ。手がかりもなしに右手をさがし出すのに一週間かかるか二週間かかるかしれんが――その間に、とっくに何処かの客が買い取って、じぶんの腕に縫いつけているだろうぜ」

 ぼくは言葉に詰まった。たしかに、親方のいうとおりだ。胸に灯った希望の燈火は、一瞬にして吹き消された。憎らしいけど、それでも、親方のいうことはいつだって正しい。

 親方は、溜息をつくぼくの肩を促すように強く叩いた。

「いいか、ザイドよ。宝さがしは、商売とはいわん。めどの立たん儲け話は、博打と同じだ。おれたちゃ商人で、博打うちじゃねえ。一か八かなんていい出したら、そいつはもう金に見放されているんだ。さっさと行くぞ、行き先はいつもどおり、兵隊墓場だ」

 ぼくはしかたなく親方に従った。店の前には、砂埃にまみれたぼくらの車が停まっている。あちこち塗装がはげて、みすぼらしいことこの上ない。ドアを閉じるたびにばらばらに壊れそうな、おんぼろの小型トラックだ。

 金さえあれば、いい車を買って、あの忌々しいラフマーンのパトロール・カーを、颯爽と追い越してやることだってできるのに。なにをするにも金、金、金だ。

溜息でしけたのか、エンジンもなかなかかからなかった。何度もキーを回して、ようやくエンジンが唸りはじめる。

 アクセルを踏みこむと、迷路のような街並みが、ひび割れたバック・ミラーの彼方に、少しずつ押しこまれるように消えていった。

 兵隊墓場まで――約一時間。

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