第2話 ある画家の怪死

 マジッド・ムワッファク――という名の画家を、ご存知だろうか。

 才能ある芸術家というものはおしなべて数奇な人生を辿るものだ。天賦の才ゆえの常軌を逸した言動はときにいわれなき誤解や招かれざる孤独を呼ぶものだし、名誉と富を妬まれてだれかの悪意ある罠に身を滅ぼすこともある。われわれ凡人には到底理解できない形而上学的苦悩に取り憑かれ、結果、謎にみちた非業の自死を遂げることもある。そういった人生は伝説じみた憶測や風評を呼び、かれらが遺した作品たちに、さらなる価値をつけるのだ。

 マジッド・ムワッファクの死も、偉大な先達たちの例に洩れず、謎にみちていた。いや、かれの死は、あらゆる芸術家に類を見ないほど、特にきわだって奇妙だった。

 三十五歳になるまで、かれはこの世に存在していないも同然だった。少年時代のかれは貧しく、頭の血のめぐりも、けっしていいとはいえなかった。かれに芸術的な才能があったというエピソードは皆無だ。むしろ、かれは粗野で、無教養で、暴力的な少年だった。それでも人は、歳を経るごとに成長する。かれは粗野で、無教養で、暴力的な青年になった。

 この国の若者の多くがそうであるように、マジッドは十代、二十代の青春のほとんどを、戦場で過ごした。その間、何百人もの青い眼をした異国の敵兵をその手で殺し、何千人もの無関係の民間人をもその手で殺してきた。略奪や強姦もしたにちがいない、わざわざ確かめるまでもなく、それがこの国の軍人の主な職務だったから。

 マジッドが大きな負傷によって戦場を離れたのは三十四歳、かれが初めて画を描きはじめたのは、驚くべきことにそのころだったという。

 戦場から帰ったかれは、ジナーザという大きな街のアパートに居を構え、そこで日がな一日、画を描き続けた。何作も、何作も、なかば狂ったように。近隣の住民の証言では、夜中にもかれの部屋には明かりが灯り、妖霊ジンに取り憑かれたように制作に没頭していたという。芸術などに関心を抱いたことさえなかったマジッドが、なぜとつぜん不似合いな画など始めたのか。戦場で過ごした凄惨な日々で、頭がどうかしてしまったのではないか。かれをよく知る者は、だれもがそう思っていた――じっさいに、かれの描く画を観るまでは。

 マジッドは、芸術学校を出ていたわけではない。デッサンの基礎さえ、学んだこともなかった。そもそも、小学校さえまともに行っていないのだから、かれの教養や品性については、おおかた想像がつく。

 しかし、かれの描く人物画や風景画は、かれの送ってきた人生や気質からは考えられないほど、繊細で緻密だった。気品があり、優美で、しかし力強く、またどこか憂いを帯びていた。この国で見られる、あらゆる芸術作品の伝統を受け継ぎながら、そのいずれともまったく似ていなかった。まるで、外国人が描いた絵のように、まったく新しい世界だった。かれの絵は、ほとんど、絵画芸術の理想そのものといえた。世界のすべてを、一枚のカンヴァスのなかに、同時に表現し尽くしていた。

 かれが描く風景画や人物画に、特定のモデルはないようだった。かれ自身さえ、それがだれなのか知らない肖像画、かれ自身さえ、そこが何処なのかわからない風景画。それらはかれの心の恋人、かれの無意識の心象風景であったのだろうか。

「右手が勝手に動くんだよ」かれはいつも自慢げに嗤ったという。「カンヴァスに向かうと、自然と右手に神が宿るのさ」と。

 ほどなくして、噂をききつけた画商たちが、足しげくマジッドの自室兼アトリエを訪れた。画風に異国情緒があふれるかれの画は「伝統的でありながらも斬新」と絶賛され、気をよくしたかれは、いちばんいい条件を出した画商にじぶんの画を任せることにした。画商は晩成の天才画家としてマジッドを売り出し、戦場での悲しみこそがかれの芸術の出発点である、とわかったような評論を添えた。

 マジッドの画の一枚はまもなく競売にかけられ、隣国の道楽好きの石油王が高値でそれを落札した。その画についた値段は、かれの惨めな人生を一変させるにじゅうぶんなものだった。野暮な風体の兵隊あがりの田舎者が、ついに画壇の頂点に名を連ねたのだ。

 マジッドのような不遇の人間が一夜で大金を摑んだとなれば、初めの使い道ぐらい想像がつくだろう。かれはその夜、売春宿で七人の娼婦を買った。七人ともみな、息を呑むような絶世の美女だった。一服の煙草銭よりも安いこの国の娼婦たちのなかにあって、一部の上層階級しか抱くことのできない、超高級娼婦たちだ。

 マジッドはまず七人全員の衣服を脱がせ、まるで美術品でも鑑賞するかのように、そのしなやかな裸体を眺めることから始めた。そして上等のぶどう酒にそうするように、七人全員の陰部にそっと貌を近づけ、順に匂いを嗅ぎ、そして最初はおもむろに、しだいに激しく接吻しながら、息を荒げてみずからの衣服を脱ぎはじめた。

 派手な装飾に彩られた小部屋には、淫靡な吐息と喘ぎだけが響いていたが、ふいに喘ぎがとぎれ、つぎに甲高い悲鳴が上がった。それは七人のなかで、いちばん年下の娼婦の声だった。

 彼女のあどけない貌は蒼ざめ、その怯えは一瞬でほかの六人に伝わった。その場にいた娼婦の躰が、凍りつくように動くのをやめた。

 七人の娼婦の視線の先――マジッドの右手には、いつ取り出したのか、小型の回転式拳銃が握られていた。

 護身用に銃を持ち歩くのは、この国では珍しいことじゃない。

 しかしいま、なんの前ぶれもなく、なぜそんなものを摑み出す? 

 娼婦たちは危険を感じ、一歩後ずさりした。だけど、それは杞憂だった。マジッドは七人の娼婦たちの眼のまえで、

 表情を歪ませ、貌をのけぞらせながら、マジッドは声にならない悲鳴を上げた。

自身の悲鳴を追うように、かれの右手は引き金を引く。

 バン!

 銃弾はかれの口から脳を貫き、後方へ飛んで壁に突き刺さった。マジッドはその場にべたりと腰を落とし、白眼を剥いて仆れこむ。血にまみれた脳漿が、大量に頭蓋から溢れ落ち、音をたてて口から溢れ出た。

 一瞬にして絶命……していれば、どれだけ幸運だったろうか。マジッドは絶命しなかった。煮立ったトマトのように血泡を噴きながら、それでもかれは、まだ、生きていた。

 そして、慄える左手で、じぶんの血をインクがわりに、床に一文を書き残したのである。


 右 手 を 切 断 し て く れ


 あまりのことに怯え、騒ぐ娼婦たちに、その言葉の意味はわからない。それが遺言なのか? それとも気が狂っていただけなのか? 当のマジッドの右手は、硝煙を噴く拳銃を握りしめたまま、まるで子供に切られた蜥蜴のしっぽのように、床の上で激しく音をたて痙攣している。

 そのまま苦痛にまみれながら、マジッドはなおも一時間ほど生きながらえた。駆けつけた警官が娼婦たちから長い事情聴取を終えるころ、ようやくマジッドは死ぬことをゆるされた。

 十三枚の絵画作品だけを、この世への置き土産として。――


 身の毛もよだつ話だろう? それはまさに、怪死と呼ぶにあまりある死だ。だけど、話にはまだ続きがある。

 マジッドの遺体は、かれの故郷であるアルヤルというちいさな村の墓地に埋葬された。葬儀にはだれも参列しなかった、価値があったのは、かれの画とそれが生む莫大な金であって、かれ自身ではなかったから。かれはふたたび、だれにも見向きもされなくなった――筈だった。

 葬儀が済んだ次の日、またも奇妙なことが起きた。立てた筈の墓標は仆れ、墓は荒れ、そこにあるべき、マジッドの屍体が忽然と消え失せたのだ。

 死んだ人間が、生き返ったのだろうか? 墓からぬけ出し、死してなお画を描き続けようというのだろうか? 人びとは、口々にそう噂した。妖霊ジンに取り憑かれたようなあの男なら、そうであっても不思議はない――と。

 そのほうが、どれだけよかっただろう? ことの真相はもっと不気味だった。

 マジッドの遺体は、すぐに発見された。埋葬された墓地から、数キロ離れた川の近くに、それはものいわず横たわっていた。

 その遺体からは、マジッドの遺言どおり――

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