第1話 兵隊墓場の恋

 その夏、国は戦争に明け暮れていた。もっとも、前の夏もそうだったし、その前の夏もそうだった。前線の兵士でじぶんたちがなぜ互いに撃ち合っているのか、理解している者はひとりもいなかった。知る必要がなかったからだ。戦争はこの国の日常だった。この国の歴史から諍いを取ったら、なにも残らないだろう。

 ときの大統領はハイヤーム。このまま永遠に続くであろう戦争にようやく不満を抱きはじめていた驢馬のような民衆のために、ハイヤームは戒律にさからってぶどう酒の製造と販売を許可する法律を制定した。国民はこぞってハイヤームを賞賛し、その年から街にはアルコール中毒患者が溢れかえった。

 街には死人しかいなかった。歩いているか、仆れているかの違いだけだった。この国の子供たちはみな、生まれながらに絶望していた。戦争に行った若者たちは、手足を失くして帰ってくるか、命を失くして帰ってくるか、ふたつにひとつだったから。子供たちは生まれたときすでに、じぶんたちにもそのいずれかの運命しか許されていないことを知っていた。

 昼夜を問わず炸裂音が鳴り響き、連日大勢の死者が出た。兵士にも子供にも女にも老人にも、空爆の雨の恵みだけが平等だった。あまりに死者の数が多かったので、礼拝堂マスジドでの葬儀さえやがて省かれるようになった。屍体は「兵隊墓場」と呼ばれる首都郊外の荒地にまとめて投げ捨てられるようになる。

 そして――その屍体を拾い集めて売るのがぼくたちの仕事だった。


「屍体が足りねえ。夜が明けたらまた仕入れに行かなきゃならねえ」

 搾り出すようながらがら声で吐き捨て、親方は咽喉を鳴らしながらぶどう酒を呷った。白いカンドーラ、褐色のジャケットに包んだでっぷり肥った躰から、げっぷをひとつ吐き出す。太く黒い指には、趣味の悪い金ぴかの指環をいくつもはめている。店が営業中だろうがお構いなし、親方が酒瓶を手放すのは、かれが眠るときだけだった。屍体売りダブウ――その名を都で知らない者はひとりもいない。

 カウンター奥、地下へと降りる石階段。その下でぼくは、片ひざを抱えながら階上に座る親方をじっと見上げていた。親方がこちらへちらりと眼を落とす。ぼくは咄嗟に視線をそらした。視線に宿る殺意を、けどられたくなかったから――ぼくは親方に出逢ったその日から、ずっと、この手でやつを殺したいと思っていた。

「戦争が激しくなればなるほど、この商売は儲かるって寸法だ。ザイド、在庫はあとどれだけ残っている」

 仄暗い石階段に、親方の低い声が響き渡る。

「若い男と女が、一体ずつ」

 鼻まで覆ったストールのなかで、ぼくは答えた。背後の鉄の扉の向こうで、ぼくの声に応えるように「ゴトリ」と不気味な音が鳴る。

「くくく」親方はげびた笑みを溢して瓶に残ったぶどう酒を飲み干した。「冷凍庫のなかで屍体同士、よろしくやっているんじゃあねえだろうな」

 冷凍庫のなかの屍体はなにも答えない。ただ耳鳴りのような機械音が、辺りに洩れ続けるだけだ。親方はつまらなさそうに舌打ちし、店内側にからだを戻した。

 カウンターを挟む店内には、防腐剤を塗布した人間の屍体が陳列してある。いつ息を噴きかえしてもおかしくないような真新しい屍体ばかりが三、四体。銃で撃たれた屍体、刃物で刺された屍体、焼かれた屍体、病に仆れた屍体。最期の苦悶をその表情に焼きつけた屍体のなかから、客たちは好みの屍体を選び出す。そのようすはまるで、じぶんの未来の死にかたを選んでいるように見えた。

 屍体売りの店――それは人間の堕落と罪悪の果て、夜の闇と扉ひとつで隔てられたこの世ならぬ骸の森。しかし、売春宿で生者の躰が売り買いされるならば、屍屋で死者の躰が売り物にされて、どこにおかしい道理があろう?

 店にはむせ返るような屍臭が漂っていた。防腐剤を塗布していても、屍体の保存には限りがある。だから必要なぶん以外は、ぼくが番をする地下の屍体置き場で保管するのが常だった。屍体置き場には一台の大きな冷凍庫が置かれ、おおむね十体の屍体を保存できる。この冷凍庫は温度設定も自由自在、万一、街の発電所が戦火に燃えても、自動で予備電源に切り替わる仕掛けだ。新鮮な屍体を摂氏零度で保存すれば、腐敗の進みはほぼ抑えられる。

 その日の在庫は残り二体、うち片方は陽に焼けた屈強な兵士だった。地雷の餌食になったのだろう、右脚だけがちぎれ飛び、その行方はようとして知れない。死してなおその表情は信念にみち、自軍の勝利を疑っていなかった。かれの首には鎖で銀色の小さな金属片がぶら下がっていた。軍から与えられた認識票――それによればかれの名は「神に生贄をよくささげる者ダッバーフ」。

 もう一体は、白衣を纏った看護婦の屍体だった。眼が大きく、手足は長い、なかなかの美人だ。瞳は乾燥により濁り、貌色も黒ずんでいたけれど、それでも彼女の美しさは損なわれていなかった。戦闘に巻きこまれたのか、左胸に弾痕が残っている以外、めだった損傷もない。どちらも高く売れる一級品、兵隊墓場で親方が拾ってきたものだった。

 街の郊外、荒野の向こう、兵隊墓場は有刺鉄線に囲まれた屍体たちの山だ。溢れ出すように蛆が湧き、黒い霧のように蝿が飛ぶ。辺り一面、赤黒い血と黄色い膿に沈み、風の強い日にはこの都にまで屍臭が届く。夜な夜な野良犬たちが集まり息せき切って屍骸を喰い荒らすそのさまは、まさに凄惨の一語に尽きた。

 親方の下で働きはじめたころ、ひとりで兵隊墓場まで、屍体の仕入れに行かされたことがある。屍体売りになるための、試練のようなものだ。これができなければ、屍体売りとしては、到底やっていけない。

 わすれもしない、ひどい砂嵐の夜、初めて兵隊墓場に足を踏み入れたぼくは、あまりの腐臭と凄惨な光景に白い胃液を嘔吐しきってそれでもまだ吐き気が収まらず、その場で悶え苦しみ続けた。涙で視界が霞むなか、死屍累々の山脈を血まみれのサンダルで踏みしめれば、歩を進めるたび生柔らかい屍体たちの肺を圧迫し、まるで呪われたアコーディオンのように骸の口から苦痛と絶望の咆哮が洩れ響くのだった。

「あおおおおおおおぉ」

「えうっえうぅ、えぁ」

「あああああああああ」

 身の毛もよだつその声の、この世ならぬ不気味さよ。それはまさしく、地獄ジャハンナムの光景そのものだっただろう。

 ぼくら屍体売りは、そんな屍体の山から売り物になる屍体をさがす。新鮮で、傷が少ないもの、しかも年齢的には若いほうが望ましい。積み上がった屍体の山から条件に当てはまる上等の屍体を限られた時間でさがし出すには相当の熟練が必要だ。夜の闇では眼もろくに利かない。犬のように鼻を鳴らし、臭いと、肌で感じる勘だけでさがすのだ。そしてその屍体さがしの嗅覚に関して、親方にまさる者は、この界隈にはいなかった。

 限られた時間のうちにみつける、というのには理由がある。屍体は死後まもなく乾燥による皮膚の変色、眼球の混濁が始まり、腹部の内臓から徐々に腐りはじめる。二日もすれば体内で発生する腐敗ガスが体表を押し上げ、眼球は飛び出し貌は巨大な蟲に刺されたように腫れ上がる。腐った血が血管から染み出して網の目のように表皮に浮き、屍体は青紫に変色する――そうなったら、もう売り物にはならない、だから商品の仕入れはせいぜい死後半日以内、できれば数時間以内が望ましい。

 朦朧とする意識のなか、ぼくはストールで鼻を覆い、屍の山の頂で必死に作業を続けていた。新鮮な屍体を頭陀袋に詰め、それを引き摺ってトラックに運ぶ。それを十体分、十往復だ。だけど、袋はしばしば破れた。死後硬直でこわばった屍体の腕が、信じられないような力で内側から袋を突き破るのだ。そのたびにぼくは罪悪感と恐怖にすくみ、頭がどうにかなりそうだった。闇の彼方にちらちら輝く街明かりが、蜃気楼のように見えたり消えたりを繰り返す。ふっふふふ。ぼくは声を上げて嗤った。あっはっはっはっは。涙を流して嗤いながら、ぼくはその夜、深い闇の向こうに、六発の銃声をきいた気がした。――


 ふいに親方が階上からひげ面を覗かせ、ぼくの名を呼んだ。

「ザイド、客だ」

 ぼくは必死に憎悪を隠しながら、かれを見上げて腰を上げる。

「どっちだい?」

 氷のように冷たい石階段に、幻聴のように声が響く。

「女のほうだ。用意しろ」

「承知」

 夜も更けた。店が忙しくなる時間だった。道具箱から血と錆のこびりついた斧を引き摺り出し、ぼくは冷凍庫の扉を開けた。いきおいよく洩れ出した白い冷気が、大蛇の吐息のように貌にかかる。

 冷凍庫のなかで、つがいの蝋人形がうつろな表情でぼくを見つめていた。極寒のなかのあいびきを邪魔されて、ふたりとも、怨みがましい憎悪の表情だった。

ぼくは女の屍体の髪を摑んだ。屍体は重く、硬かった。まるで抵抗するかのように動かない。ぼくはくくく、と鼻まで覆ったストールのなかで、声を殺しながら嗤った。

「兵士の屍体と引き離されたくないんだろうなあ。やっと出会えた婚約者だもんな」

 ぼくは勝手に空想していたでたらめな物語の主人公に、かれらふたりを唄うように据えた。

「国を愛する若きダッバーフは志願兵として戦場に赴き、女を捨てた。女は愛のため男を追い、従軍看護婦となった。だけどなんという運命の悪戯か、ふたりが派遣される戦地は常にすれちがい、ついに戦場でめぐり会うことはできなかった。女は神の意志を呪った。信仰など、戦場ではなんの役にも立たない、そう神を罵った。瞬間、きまぐれな神はついに彼女の願いをきき入れた。ふいに辺りが闇に包まれ、迫撃砲の轟音が鳴り響いた。美しくも禍々しい青い瞳を爛々と輝かせ、異国の敵兵どもの魔手が迫ってきたのだ。怯えた彼女は医療テントから逃げようとした。それを待っていたかのように碧眼の敵兵たちは突撃銃を乱射した。凶弾の群れが彼女の胸に吸いこまれ、そして突きぬけた。

 ダッバーフ――彼女は恋人の名を叫んだ。仆れこむより先に、大地に涙が溢れ落ちた。碧眼の敵兵たちは満足げに嗤った、かれらはじぶんたちが何人殺せるか、互いに競い合っていたのだ。いくつもの青い瞳が死せる彼女に近づいた。そして彼女がすでに死んでいたのが幸運だったと思えるような、ひどい辱めかたをした。用の済んだ彼女の亡骸はトラックで運ばれ、灼熱の荒野にごみのように放り捨てられた。彼女は看護婦として何人もの命を救ってきた、だのに、最後まで、けっしてだれにも救われることはなかったのだ。だけど悲しむことはない! その荒野には、奇しくも別の戦地で時を同じくして死んでいた、彼女の恋人ダッバーフがすでに横たわっていたのだから。ふたりはその日、ようやくめでたく再会できたのだ――世に悪名高き兵隊墓場でね!」

 力任せに女の屍体を引き摺り出す。兵士の屍体と女の屍体は、ついに絡ませていたその手をほどいた。それはかれらにとって、死よりもつらい別離だったに違いない。

 女の死に貌は、悲しみに沈んでいた。だけど、その絶望の表情は美しかった。死してなおこの美しさなら、生前の美しさはどれほどだったろう。彼女の口がだらしなく開き、そこからだらりと体液がたれ落ちた。その愛らしい唇は彼女の生前、どれだけの歌を歌い、どれだけの男と口づけを交わしてきただろうか。

 彼女はふいにバランスを崩し、よろりとぼくにもたれかかる。

「ああああああああああああああああああああああああ」

 彼女はその官能的な口で、悪夢から醒めたように醜く鳴いた。びくんびくんと痙攣するように、肩の上で屍体がこわばる。死後硬直で横隔膜が収縮すれば、死人は死んでなお断末魔の叫びを上げることがある。

「やれやれ」ぼくはそうひとりごちて溜息をついた。「できることなら、あなたが生きているうちにお眼にかかりたかったものですよ。さらにいえば、ぼくが大人になってからね」

 そのときのぼくは十三歳――じぶんよりずっと背の高い女の屍体を肩に抱え、傷つけないよう、床に横たわらせた。冷凍庫の扉を閉め、兵士と看護婦の絆を完全に断ち切る。

 斧を構え、ぼくは屍体に向き直った。

 斧の柄を強く握り、うしろへ大きくふりかぶる。屍体は横たわったまま、そのようすをじっと見つめていた。

 びゅん、と空を切る音とともに、ぼくは屍体に向かって力まかせに斧をふり下ろす。

 瞬間、女の屍体は、ひきつるように、にたりと嗤った。



      †



 この世に楽な商売はない。だけど人はどこまででも堕ちることができる。


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