第80話 書けなくなる正しさ




 ここ一週間くらい書けないでいる。色々と差し迫ったものもあるのに書けない。

 パソコンデスクの前に座り、原稿ファイルを開いても、どうしても書けず時間だけが過ぎていく。

 義務感と焦燥だけはありまるほどあるのに、頭の中は真っ白で、文章が思い浮かんでこない。無理に書いても気に入らず、すぐに消してしまう。三文字書いて五文字消す。

 何を書いても、間違っているような気がする。一向に正しくない。


 いや、プロットの練りこみが足りないに違いない。

 プロットをきちんと詰めないで、見通しが甘いままで書き始めたのがそもそも失敗だった。やり直すべきだ。なのに完全に壊してから、もう一度やり直すのは嫌だ。未練がある。

 言い訳を繰り返しながら手は一向に進まず、いつの間にか日が暮れて、一日が無為に終わる。苦しい。辛い。喉を真綿で絞められるような息苦しさ、誰のせいにもできないゆえに己への膨大な不満に押し潰されそうになる。

 このエッセイが書けているからには、決定的なスランプともいいがたい。とにかく中途半端だ。潰れもせず、解放もされない。


 発作的に「もう書きたくない。二度と、金輪際、書きたくない」と思う一方で、「私から書くことをとったら一体何が残るのか」と思えばあまりに空疎な自分にゾッとするし、やっぱりしがみつきたいし、「登ってもいない山でも乗り越えれば楽になるのだろうか」と根拠のない淡い期待を抱くし、その前に潰れてしまったら……と考えると絶望的な心地になる。

 原因が全くわからない。そのことが何より怖い。

 いつもそうだ。悩みの根本を探ろうとして頓挫して、決まって曖昧にしてしまう。


 いっそ全て暑さのせいにしたいところだけど、最近は連日雨が降ったり降らなかったりで涼しく、毎日いたって過ごしやすい。

 朝起きると二時間ほど散歩し、疲れたら公園や駅前のベンチに腰掛けてボーとしたり、スマホでゲームをしたり。気分転換と称して外食したり、人に会ったり、本を読んだり、行きつけの八百屋で野菜を買って、細々とした買い物もして帰る。食事はきちんと取っているし、呆れるほどによく寝ている。

 私の生活は健康かつ健全そのものである。

 そう、私は、正しい。物心ついてから、私はずっと自分を戒め続ける正しさの奴隷だった。

 色々失敗して、つまらない正義を人に押しつけなくなっただけマシになった方だ。

 健全に生きているけれど、実際健全ほどつまらないものもない。単調な日々。道徳的な言葉たち。もう、いいよ。充分。お腹いっぱい。こうあるべき。~しなくてはいけない。MUSTとMUSTとMUST!

 いっそ何もかもをかなぐり捨てて、課せられた義務も投げ出して、裸足で全力で逃げだして、これまで忌避してきた、酒だとか煙草だとかギャンブルだとかのありとあらゆる破天荒に飛び込んでしまいたい。恥を切り売りしたい。心の底から自嘲してみたい。爛れた乱痴気の果てに、底のない不道徳の沼にずぶずぶ沈んでゆきたい。


 いや、そうできないことはわかっている。できなかったから今の自分がある。

 だからこそ、いつも空想の世界に逃げてきた。現実を健常でことなかれにするために。

 この空想こそが創作の原動力であるのだけど、何が原因なのか今は鬱屈の出口を失って彷徨っている状態である。発散口が詰まっているといってもいい。苦しい。

 闇雲に乱れ書きながら、手を止めて茫然と天井を仰ぎ見る。やっぱり何も浮かばない。文字一つとして生産できない。何も生みだせない。胸に涌くのは凄まじい空虚感。

 悶々とし、溜息をつきながら、原因不明の気持ち悪い嵐が過ぎ去るのをじっと待つしかないのだろうか。


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