第63話 山登りと書くことはどこか似ている③




 ヒイヒイ言いながら登っていても、2時間くらい経つと段々冷静になってくる。

 泣いても喚いても離脱できないのなら、ひたすら前に進むしかないと覚悟を決める。

 上がるにつれて、景色はどんどんと見晴らしがよくなる。

 振り返れば、ビル群や街は豆粒のように小さく、広大な緑野が広がり、深い山脈や遥か遠くに紺碧の海が見える。雲が悠々と流れていく。曇りの日は霧が出たりしている。

 それらを見ると胸が透くような思いがする。


 ここまで登れたのなら大丈夫。

 あとどれくらいで山頂(終わり)だろうか……と考える余裕すら出てくる。

 苦しいことは苦しいが、必ず終わりが来るとわかれば一刻も早く到達したいと思う。

 気力を振り絞って、一歩一歩踏みしめるようにして登っていく。

 できる。私はできる。絶対にできる。

 天気が悪いわけでも、体調が悪いわけでもない。怪我やトラブルもない。

 何か起こるとしても、後日筋肉痛になって悶絶するくらいだ。

 ならば、諦めてはならないと何度も言い聞かせる。自己暗示である。

 自信はない。しかし、諦める理由もない。


 やっとのことで頂上に辿りつくと、そこにはめくるめく解放感と満足感が待ち構えている。すこぶる爽快である。自然と笑顔がこぼれる。登りきった自分を褒めてあげたくなる。

 そこは、今までとは全く違う景色が開けている。

 何度同じ山や岳に登っても、二度と同じ木々、草花、人々、景色を見ることができない。


 また頂上で食べるものの美味しいことといったら。

 何を食べても美味しい。何を飲んでも美味しい。

 疲労した身体の全細胞が、口に入るもの全てを全力で吸収していくのがよくわかる。

 山登りの後の食事ほど美味しいものはないと気づくと、その瞬間(快楽)を味わうためにまた登ろうかなどと思ってみたりもする。要するに懲りない。


 以前日光で山歩きをした時、数日間の滞在の間にフレンチやイタリアンや和食など美味しい店を何店も巡ったけれど、旅を振り返って何が一番美味しかったかと考えたら、山から麓に降りてすぐにドライブスルーの屋台で食べた500円のお汁粉だった。

 何度考えても、これが一番美味しかった。よくよく考えると相当ボッタクリな内容だったけど、温かな甘味に身体が喜んでいるのがわかった。心底幸せだったし、やりきった自分に満足していた。



 そして本題。

 ここまで書いて、やはり山登りの苦しみと喜びのプロセスは、書くことはまるきり同じだと思った。同じだからこそ続けられるのかもしれないと思った。

 書くことも本当に辛いし、苦しいし、なんでこんなことやってるんだろうと何度も思うし、時には眠れないくらい悩むけど、これまでとは違う境地が開けたり、背中を押してくれる人もいて、不安を覚えながら、迷いながら、諦めようとしながらも書いて書いて書いて、いざ書ききった時の多幸感といったら、この瞬間(+その後の飲食)のために生きているのかと思うくらい恍惚の絶頂である。

 内容はどれほど稚拙であろうとも、自分はやりきった。完成させた。その事実が自信となって次へ繋がっていく。

 勿論、登山にも失敗があるように、何もかも上手くいくわけではないけれど……。



 登山家のジョージ・マロリーには「なぜ、山に登るのか?」「そこに山があるから」と答えた有名な逸話があるが、(本当は「なぜ、あなたはエベレストに登りたいのか?」と問われて「そこにエベレストがあるから」と答えた)、書く場合はどうだろうか。

「そこに妄想があるから」だろうか。

 ちょっと格好悪い気もするが、健康で身体が動くうちは、登山も執筆も諦められそうにない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る