第17話 自転車をすべらせていた
私が7歳、小学二年生の時のことだったと思う。
国語の授業で詩を書くことになった。
当時、私は練習の甲斐あって、補助輪なしで自転車に乗れるようになったばかりだった。そのことが嬉しかったので、詩にも「自転車に乗れるようになって嬉しい」「自転車で走ってると気分爽快」みたいなことを書きたかったのだと思う。
詩の始めに「青空の下、自転車をすべらせていた」と書いた。おそらく漢字は使えていなかったし、文章も一字一句合っているか自信はないが、とにかく「すべらせていた」と書いた。
書きあがった詩は教室の後ろに貼り出された。
放課後、他の子の作品を眺めていたら先生がやってきて、私の書いた詩をしきりに褒めてくれた。
先生いわく、「自転車をすべらせていた」という表現がいいということだった。
「自転車に乗っていた」「自転車を走らせていた」ではなく「すべらせていた」という表現が良い、独創性があるみたいなことを言った。
それに対して自分がどう答えたのかは覚えていない。それどころか、詩のタイトルも
続く内容も、女性だった先生の名前すらも思い出せない。覚えているのは始めの一文とそれを褒められたことだけである。
今にして思えば、「自転車をすべらせる」とは一体どういうことなのか。
スライディングか? アクロバットか? なんて思わないでもないけれど、確かにあの頃、私の自転車はアスファルトの道路や土の上を、さながら氷上のスケートのようにスイスイとすべっていた。
補助輪なしで軽やかに進む自転車、歩くよりも走るよりも早く前に進めること、己の行動範囲が、世界が広がっていくことが7歳の目にはたまらなく新鮮だったのだ。
褒められたところだけ覚えているあたり調子が良すぎな気もするが、それほどに嬉しかったのだろう。
これは、書いたものが身内でない他人に褒められた最古の記憶である。
先生のあの何げない一言が、今でも私の心の糧になっている。
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