言葉は本来砕け散っていくもの

「暴力」を受けたくない。嫌いである。ハウエヴァ、たとえば「暴力」という言葉を「力」に対するイメージが悪くなるから使うべきでないとか、そういうことを言うつもりはない。それと同じで「啓蒙」はされたくない。いつまでも無知蒙昧のままでいたい。だが、「啓蒙」という言葉はマナー違反だよ、って言われると、「え?」と思う。

 なんか、「蒙を啓く」というのは、「おまえらは愚かであるので、それを俺が導いてやる」という意味合いになるので、他人に言うのは良くないねという説があるんだって。マナー講師の本質は憑き物落としで、だからなんか解説しないといけない(https://kakuyomu.jp/works/1177354054881038781/episodes/1177354054895113682)というのは分かるところだが、憑いてもないものを勝手に落とさないでほしい。でもまあなんか、こういうことが人口に膾炙してしまうと、そもそも「啓蒙」に対してなんのイメージを持ってない人も(大多数がそうでは?)、「アレ、『啓蒙』という言葉を使っているのですがよろしいのですかァ~?」みたいな感じのツッコミをしたくなるだろうから、無駄な会話をしなければならなくなるし、さりとて明らかにお前らは愚かであって、俺がその蒙を啓く作業であるので、変わらず「啓蒙」という言葉を使わせていただきます、というのも感じ悪いかなと思うしで、結局使いにくくはなる。そういう意味で呪は成立している。仕事は十分に果たしているなと思う。ただその、代理で「啓発」を使おうはどうかなと思うけど。教え導いていることには変わりないわけでねえ。

 爆笑とか失笑とか的を得るとか子供の供はお供の供だから使うべきでないとか障害の害は「有害」の害だから使うべきでないとか、こういうなんというか「めんどくさい語」はたくさんあって、まあなんか強く呪を解除するつもりもないが、一方で唯々諾々と従うのも「なんかなー」と思うので、トータルとしてはちょっとめんどくせえなあと思う。もちろん真の意味で傷ついている人がいる言葉とかがあるとして、そういう風に言わないでほしいよって言葉を避けるのはやぶさかではないんだが。

 

 さて、盛岡のある高校には「差別的な名称である」という理由でストップがかかった踊りがあるという。なんかねえ。多分うるさい奴がいたんだろうなって思いますよねえ。PTAとかに? 子供にこんな言葉を聞かせてはいけませんよみたいなことを言い出す奴がいて? そいつが大騒ぎしたせいで、一つの伝統行事が潰された。これは由々しき事態ですよね。そう思いませんか。



 その踊り、土人踊りっていうらしいです。



 ……まあダメかな!! ちゃんとみんなで議論して決めたらしいです(現在は「猛者踊り」)。じゃあまあ変えて良かったねと俺は思いました。皆さんはどうですか。



 でそのー、そういう話をしている中で、岩手の方には、「道を歩いていたら靴の中に水が入ってしまい、なんか濡れてしまっている様子」を示す言葉があって、「きゃっぽる」とか「きゃっぱりする」とか「きゃっぽした」とか「きゃっぱした」とか言うらしいということを聞いた。この言葉には(ここに書いたように)妙にバリエーションがあって、しかもそれはわりに属人的らしい。つまり、ある人が「靴の中に水が入ってしまって、なんか濡れてしまった」という状態を「あー、きゃっぱったわ」と表現する場合、この人は「きゃっぱった」としか言わない。「きゃっった」とは言わないわけである。

 でじゃあなんでこういう微細な断絶が起こるかというと、これが幼児語だからではないかというわけですね。つまり、大人になって様々な出自の人間としゃべらないといけなくなると、どの出自の人間としゃべっても通じる言葉を選択しなければならない。だから、「なんかあずましくねえな、ほれそこのゴミ投げれ。あー、お前それおささってるべや」みたいなことを言わないようになっていく。「なんだかuncomfortableな状態ですねえ。まずそこのゴミを捨てましょうか。あ、あなた、あなた自身は意図していないでしょうが、あなたの身体が触れるなどの理由によって、ボタンが押されて起動した状態になってしまっていますよ」みたいにちゃんと喋るようになる。でも、子供(文科省の表記に従う)はそもそもしゃべる相手が少ないので、そういう調整が必要ない。だから習ったことを習ったまま言うわけである。そんで、そもそも「きゃっぽる」ことって大人になってからはあんまないでしょ。それで、この言葉にバリエーションがあることにはあんまり気づかないし、レアな事象であるから、多少違ったとしても「違うねえ」で終わってしまい、断絶したまま残っていくことになる。こういうことではないかと。

 そう考えてみると、たとえば「棒キャン」とかね。これは「チューペット」「ポッキンアイス」などと呼ばれる、なんていうのあれ。分かるでしょ。アレの俺の幼少期の呼び名だが、こんなもん、幼少期にしか食わないわけで、長じてからその話をしたときに、「えっ、チューチューアイスでしょ?」とか「ポッキンアイスでしょ?」とかそういう感じで断絶があったことに気づくが、その後の会話ではそんな困らないから是正もされない。一方で、「スパファミ」は駆逐されるのだ……。「スパファミ」というのは「スーパーファミコン」の略称で、俺らはこう呼んでたが、スーパーファミコンの話題はずーっとし続けるので、「スパファミ」というたびに「スーファミだろ?」と言われて、変更を余儀なくされるのである。


 とにかくなるほどねえと思った。だからそのー、東北なんかは山も多いし、雪も降るしで、小さい単位で孤立化する。だからいわゆる津軽弁とか、結構わかんねえなこれっていう言語になるのかなあ、と思った。じゃあ何代か隔離させたら、独自言語を生成しだしたりするんですかねえって話したら、「現にしている」と老人が言う。現代は装飾をするという意味で「盛る」という言葉を使うのだということを力説しだす。確かに老人には難しいかもしれねえな、その意味の「盛る」。でまあ、今はたまたまインターネットやTVがあって、そこで言葉の新用例があったら教えてくれるので、断絶が無いように思うが、実際はそんなことがなくて、言葉というのは本来砕けて散っていく性質を持つものなのだろう。「言葉が通じねえ、ばあばあ言うやつだからバーバリアン」という説があるが、それが正しいとすれば、目の前にいるこいつが仲間か外敵かを区分するのは「同じ言葉を使ってしゃべるか」であり、これを突き詰めると「俺たちにしか通じない合言葉をしっている奴が仲間」になる。つまり、言葉には意思疎通の機能のほかに、仲間であるかどうかを判別する機能があって、これは分けとけばよかったのにねえ。と思ったという話です。まあ、仲間かどうかを判別する機能は後付けなんですよね。バベルの塔建設によって付加された機能。


2021年02月09日 09時17分の測定結果

体重:100.10kg 体脂肪率:32.90% 筋肉量:63.70kg 体内年齢:48歳


 夜オートミール食が効くかと思いきや、昨日の夜は酒とツマミだったのでなんの参考にもなりませんね(月イチの定例会で、また飲食を伴ったのであった)(まあ、老人がやろうって言っているから、俺は悪くないです)。今日からはちゃんとやります。

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