吸血鬼の愛

@karino_zin

吸血鬼の愛

0.


 轟々と雪が吹き荒れる。静かに降れば美しい雪も、嵐のように吹けば災害でしかない。立っているのも辛い中で、私は真っ白に染まった墓を見下ろした。

 普段人が立ち入ることのない山肌に幾つか墓がある。一つは私が心から愛した人の墓。それより少し離れてある他の墓は誰の物かは知らない。

 彼女が屍となって埋められてからまだ一年しか経っていなかった。彼女が死んだその日も、今日のように雪が狂気を孕んだ日だった。彼女の死と荒れ狂う雪の印象だけが鮮明に思い出されて、同じような日にだけ墓参りに来た。そうすると、日常では思い出せない細かい記憶まで呼び起こすことが出来る。

 未練がないと言えば嘘になる。彼女は人ではない私を唯一愛してくれた人の女性だった。永劫とも思えるほど長い人生の中で、彼女のような人にはもう出会えないだろう。そう思えばこそ、彼女を忘れることなど出来なかった。

 次第に雪の流れが緩やかになっていく。雪の嵐が去るのと同時に私は牢屋に等しい城に戻る。

 いつもそうだ。戻ろうとすると冷たい水滴が頬を濡らす。私は墓と共に生きたいのだろうか。そこまで未練があるのだろうか。

 もはや自分でも理解できない感情を抑えて、城に戻ろうと墓に背を向けた。普段なら雪に塗れた木々が見えるだけの視界に、一人の少女が立っていた。

「寒いから、震えているの?」

 少女が私を見上げながら言った。小さな声なのに周りの五月蝿い音に掻き消されない。

 私は自分が震えていることに気づいていなかった。無言で少女と視線をぶつかり合わせたまま、幾らか立っていた。

「泣いているの?」

 少女が心配げに足元に寄ってくる。私は人の子に接したことがなく、何と言い返せばいいか悩みに悩んだ。

「ああ、泣いている」

 冷めた声色に怯えたのだろう、少女は二三歩後ずさりをした。

「これ貸してあげる。暖かいよ」

 華奢な体を震わせながら少女は再び足元に歩み寄り、自分の首に巻いていた真っ赤なマフラーを私に押し付けてきた。

 私は赤が嫌いだ。必要不可欠な色だというのに、赤という血の色が大嫌いだった。少女が手にしているマフラーは目眩がするほどに赤い。

「ありがとう」

 なのになぜ私は赤いマフラーを受け取ったのだろう。不思議に思いながらも自分の首に赤いマフラーを巻きつける。なるほど、少女を暖めた温もりが残っていて確かに暖かかった。

 少女は可愛らしげな笑顔を浮かべて私の横を通って墓の前まで歩いていく。その墓は彼女の墓より少し離れた墓だ。

「本当に借りていいのか?」

 振り返って丸まっている背中に声を投げる。少女は祈りを捧げているようだった。

「うん、いいの。他にも持っているから」

「そうか。なら借りておこう。いつの日か必ず返す」

「別にいい、あげる」

 少女は幼い声で答えた。それ以上会話を交わすことなく、私は彼女と少女に背を向けて歩く。雪の道を踏み鳴らすと、耳障りな音がした。

 なぜ私は大嫌いな赤色のマフラーを借りたのだろう。人に関わるのはよそうと決めたはずだった。私に関わって良い思いをする人など、ありはしない。彼女も、私のせいで命を落としたようなものだ。

 それでも私はマフラーの温もりを確かに感じ、いつか必ず返すと心に誓った。返す日があれば、また少女と出会うこともあるだろう。それを無意識に期待したのかもしれない。

 いつ来るとも知れぬ日を期待しながら、自分を閉じ込めるための城に戻った。




1.


 書斎の窓から見下ろせる町は、雪に吹き付けられて真っ白に染まっている。山の中にあるだけあって町の規模は小さい。行ったことは少ないが、小奇麗で安らげる町だ。

 もう見慣れた景色だが、以前とは違う。町の様子を遮る枝がある。いつの間にか、ここまで伸びてきたらしい。

 私の住む城と町は狭い森を隔てて離れているだけなのに、大陸の端と端かというほど離れているように感じる。意思があれば辿り着くことなど容易なはずなのに、そこに辿り着けない。気持ちの問題が何よりも高い壁となって城と町とを隔てている。

 十六年という月日が流れても、決まって雪の日に飽きるまで町を眺めている。町は十六年経っても寸分違わず存在していた。

 雪が吹き荒れる日、町を眺めてから彼女の墓に行く。一年のうち一回あるかないかの外出する日。

 彼女が死んで一年間は純粋な墓参りだった。墓の前に立ち、楽しかった日々を想う。雪が止むと城に戻る。その繰り返しだった。

 しかし死後一年後からは墓参りに行く他の理由が出来た。少女に借りた赤いマフラーを返す、そのためにも墓参りを欠かすことはなかった。

 返すだけなら町に下りて少女を探せば済むことなのに、そうしなかったのは私が吸血鬼であり、人前に出ることが出来ない存在だったからだ。もう一つ、豪雪の日にしか墓参りをしなかったのは、その日にならないと彼女を思い出せなかったからだ。

 常人とは違う私ならともかく、豪雪の日に山奥にわざわざ墓参りをしにくる人間などいない。あの日とて、今思い返せば少女がいたことが不思議に思われる。幻と思ったことも一度や二度ではない。だが赤いマフラーが現実を教えてくれる

 十五年間、少女に会うことはなかった。これからも会うことはないだろう。当然のことだ。

 窓から見える風景が少し変化を見せた。優しく包み込むように降っていた雪が横殴りに吹いている。一年に一度あるかないかの豪雪になりそうだ。一年振りの外出の日になる。

 しばらく雪が荒れ狂うのを見ていると、樫の木の扉が開く音が聞こえた。この無駄に広い城に住んでいるのは私か、執事のヴェルモンドだ。

「ルーヴェン様、お食事の用意が出来ましたのでお持ちしました」

 ヴェルモンドは私が一人の吸血鬼として自立する前から我が家に仕えている。彼は私の父の血を飲み長寿を得た人間だ。よく飽きもせず執事を続けるな、何度かそう問いかけたことがある。

 その度に彼は独特の渋みを持った静かな声で答える。

「バルサ様には恩義があります。今の私にはその恩を返すことだけが生き甲斐なのですよ」

 恩義が何なのかは知らない。ヴェルモンドに話す気がないのなら訊く必要もなかった。彼の決まり文句を聞く度に、人とは不思議な生き物だと思わされる。

 頼みもしないのにヴェルモンドは決まった時刻に食事を運んでくる。食事といっても人が食す物とは違う。吸血鬼は人のような食事を取る必要はない。趣味や好みで人の食事を取るものもいるが、それはそれだ。

 私たちに必要なのは人が知っている通り『血』だ。言い伝えで、十三日に一度人の生き血を飲まねば干からびて死ぬ、と言われている。多くの吸血鬼――そうはいっても元が少ないので十人程度だ――はそれを信じているが、実際には違う。

 私は人である彼女と知り合ってから人の血を飲むことをやめた。十三日経つと頭が割れるように痛み、体中に鋭い痺れが走った。思考が停止しかけ、狂気に犯されかけた。本能のままに人を襲い、血を喰らうところであった。だがそれだけに留まり、死ぬことはなかった。現に今もこうしてヴェルモンドの灰色の髭面を見ている。

 それから私は彼女が死んだ後も人の血を絶っている。おかげで人の血を喰らっていた頃に比べれば大分体の衰えを感じる。今は人より多少頑丈なくらいだろう。

 ヴェルモンドが運んできた食事は確かに血だが、人の血ではない。動物の血を組み合わせた特別な血だ。人の血とまでは行かないが、それでも私の命を繋げる糧になっている。

 私が血を食さないのにはもう一つ理由がある。赤い色が大嫌いだからだ。彼女が死んだその日から赤い色が嫌いになった。血のように赤い色、虫唾が走る。

 それは動物の血だろうが、マフラーの赤い糸だろうが同じことだった。食さねばいけないと知りながらも、度々食事を拒否していた。

 今日も細長いグラスに注がれた赤色の液体を飲む気にはなれなかった。

 私が見ている間にヴェルモンドは慣れた手つきで車輪付の台から机の上に移している。

「いつもいっているだろう。食事は好きなときに取ると」

「それでは食事を取りませんでしょう、ルーヴェン様。無理にでも食べていただかないと、吸血鬼とはいえ体に堪えます」

「気が乗らぬ。今日は豪雪だ、出かけてくる」

 私のことを気遣ってくれているのだろうが、感謝の気持ちが湧くことはない。何十年も同じことの繰り返しで、それが事実としてあるとしか認識できなかった。

 雪が一際強く吹いて窓を叩いた。そろそろ頃合だ、外に出よう。ヴェルモンドを無視して部屋を出ようと取っ手を掴んだとき、ヴェルモンドが言った。

「最近食事を取られたのはいつでしたかな。今のお体では、今日の豪雪には耐えられないでしょう。体を壊しては、約束を果たせませんぞ」

 一度だけ私は赤いマフラーの少女の話をヴェルモンドにした。ほとんど会話をすることはないが、気まぐれで話すこともあった。たったの一度だけ、短い話だというのに彼は覚えていたようだ。

 話をしたとき、彼は何も言わなかった。だが表情には明らかに『その少女に係わるな』と、説教が浮かんでいたのを覚えている。年に一度、その表情を見る日が今日だ。

 しばらく視線を合わせていると、ヴェルモンドにその表情が浮かんだ。彼が顔で示す通り、やめたほうがいいのだろう。私と関わって良い目に合うことはないのだから。

 それでも私は墓参りをやめるつもりになれなかった。食事を取れば少しは彼も満足だろうと思って、足早に机に近づきグラスを掴むと一気に飲み干した。

 不味い。体中に蛇が絡みつくような不快感がある。赤色という嫌悪感が味を不味くしているのかもしれないが、数種類混ぜた動物の血など美味いはずがない。

「出かけてくる」

 冷たく突き放すとヴェルモンドは何も言わずに頷いた。食事を取ったことで少しは気をよくしたのだろう。

 コートハンガーにかけてある一族伝統の黒いコートを着て、赤いマフラーを首に巻き、雪が支配する白い世界に出て行く。




2.


 十六年前は楽々歩けた雪の道に今では苦戦している。横殴りに吹き付ける雪に体を揺さぶられ、力を込めていないと薙ぎ倒されてしまいそうだ。

 人の血を断って十八年が経つ。彼女と知り合って二年、彼女が死んでから十六年、一度も人の血を口にしていない。人の血を十八年も断って生きていて、時折私は自分が吸血鬼なのか不思議に思う。

 それでも吸血鬼だった。人の歳で言う二十歳くらいの容姿のまま、六十年か七十年か生きている。私と人では時間の流れが違った。

 人は吸血鬼を不老不死と考えているが実際には老いるし、寿命で命を落とす。ただ人より進行の速度が遅いだけだ。この事実こそ私が吸血鬼である証だ。

 毎年変らぬ雪景色を視界に入れてひたすら歩いた。私の城からでも山奥の墓場に着くまで一時間はかかる。町から、それも人の足なら尚のこと時間がかかる。それゆえに人は誰も近づかないのだろう。

 どこを見ても同じような景色だが、確かに墓場に近づいていた。目を凝らして前を見れば、僅かに出っ張っている部分が幾つか見える。

 少女は来ているだろうか。これだけの豪雪だ、来てはいまい。しかしあるいは。

 自分の中で終わらない問答を繰り返す。いつものことだ。結論が出ないと知っているのに、気づけば同じことの繰り返し。

 人の目でも見えるほどに墓場に近づくと、墓の前で人の女が倒れていた。年の頃は二十歳か、それくらいだろう。急ぐでもなく傍に寄ると女はまだ生きているようだった。

「どうした」

 声をかけてみても反応を示さない。体を小刻みに震わせながらただ横たわっている。自殺かと思ったが、ここまで来る理由が見当たらない。

 助ける義理などない。女も私に助けられても嬉しくもないだろう。それでもなぜか、私は女の首に赤いマフラーを巻き、女の体を背負っていた。

 視線を彼女の墓に向ける。今日はお前を思い出せそうにない。

「また来る」

 届くはずのない言葉を残して墓場を後にする。

 来たばかりの道をしばらく歩いていると女が目を覚ました。微かな吐息が首にかかる。

「降ろして、ください」

 生気の欠片も感じない弱弱しい声だ。

「死にたいのか?」

 返事は中々戻ってこなかった。小さく何かを呟いたようだが、吹き付ける雪の音に消えてしまった。その代わりに、彼女が問う。私はそれに答えた。

「この赤いマフラーは……」

「十五年前、あの墓の前で少女に貰った。返すという約束を果たしたいのだが、会う機会がない」

 また女は死んだように返事をしなくなったが、歩いているうちに前よりも明るく、何か懐かしむような声を出した。

「その少女、私です。このマフラー、私のです」

 私は珍しく驚いた。偶然というものなのか。いや、それは違う。なぜなら私はあの墓場で待ち続けていたのだ。ようやく出会えただけに過ぎない。

 それでも驚いたのはあの少女が立派な女に成長していたことだ。人ならば当然のことだと思うだろう。

 しかし、人にしてみれば同じ外見で何十年と生きている私の時間感覚では、十五年でここまで外見が変化することは意外なのだ。

 ともかく約束を果たせることが出来て満足だった。久しぶりに満足を感じ、嬉しいという気持ちになった。

 少女――いや、彼女は元気を多少取り戻した声で言葉を続ける。

「あの時はありがとう。それは返す」

「いいですよ、あげます。私にはもう、必要ないですから」

「なぜ雪の中で倒れていた。死ぬつもりだったのか?」

 質問をしたのも随分と久しぶりに思えた。なぜか約束を果たしたというのに、彼女のことを気にしている。私と接してくれる人だからだろうか。

 彼女の鼓動が背中越しに伝わってくる。生きているのに、やはり返事は中々返ってこなかった。気づけば、城の近くまで来ている。

 山肌に立てられた城は鋭角的で、三角帽子に似た屋根が目立つ。雪の日にしか外に出ないために、私の瞳に映る城はいつも真っ白だ。

「父のところに逝くつもりだったの。あなたに助けられなければ」

「死にたいなら死ねばいい。私が助けたのも気まぐれだ。城に戻り、元気になったらもう一度墓場に行け。二度と邪魔はしない」

「城って、あの城ですか?」

 凍える指を私の城に向けた。

「そうだ」

「じゃぁ、あなたは吸血鬼なんですね」

 彼女の言葉から恐怖を感じ取れなかった。これで私に恐怖を示さなかった人の女は二人目だ。

「恐いか」

「そんなことありません。だってあなたは私を助けたくれたでしょう。優しい吸血鬼です」

 顔は見えないが笑っていると思った。優しい吸血鬼、奇遇なことだ。十六年前に死んだ彼女も、同じことを言った。

「もうすぐ着く。少し寝ていろ」

「そう、します」

 話し疲れたのか、小さくなった言葉を最後に私と彼女の会話は途絶えた。息遣いが聴こえる、鼓動を感じる。死んでしまったことはないようだ。

 外界からの受け入れを拒否するかのように、冷たく立ちはだかる鉄の城門まで来てふと苦笑いを浮かべた。

「ヴェルモンドが怒るな」

 いつになく表情豊かな私は城門を開いて中に入った。




3.


 普段使っていない部屋に彼女を運んでからは彼女を見ているだけであった。長い年月の間に培っていたと思われる知識を総動員して、ヴェルモンドが彼女の容態を見ていた。彼が言うには軽い凍傷と衰弱くらいのもので寝ていれば治る程度らしい。

 改めてみると彼女は綺麗というに相応しい女だ。亜麻色の豊かな髪は腰に届くほど長く、肌の色は透き通るように白い。私が見た人に比べると幼い顔をしている。頬は痩せて肉がなく、尖った顎先と合わせて鋭利な印象を受けた。瞼の下に眠る瞳は何色だろうか。

 亡き彼女とは肌の色くらいしか共通点がないが、それでも似たような雰囲気を持ち合わせている。化け物を受け入れるほど心が広い、きっとお人よしなのだろう。細い身体には生気が満ち溢れ、外見とは裏腹に気弱な感じを与えない。

 墓場の前で見た時よりも彼女には生気があった。温かい布団の中で幾らか取り戻したらしい。こうして十二分に人の顔を見るのは久しぶりだった。

 客室とでも言うべき部屋には綺麗なベッドと洋服タンス、私が座っている椅子が一つあるだけだ。手をつけてないのに埃が見えないのは、ヴェルモンドが気を利かせているからだろう。自分の城とはいえ、この部屋に入るのは今日が初めてだ。

 しばらく彼女の顔を見たり、部屋を見回したり、小さな窓から雪を眺めたりをして時間を潰した。看病をしているわけでも、彼女に用があるわけでもないのにこの場を離れることが出来ない。

 どれだけ時間が過ぎたか分からないが、ようやく彼女が目を覚ました。瞼の下に隠れていた瞳が見える。丸くて小さい赤味がかった茶色の瞳を忙しげに動かしている。

 上半身を起こして何度か頭を振ってから私を見た。

「生きていますね、私」

「当たり前だ。元々死んでいない」

 喜んでいるのか悲しんでいるのか、妙な表情を浮かべながら頭を下げた。

「ありがとうございます」

「礼を言われる筋合いはない。助けて欲しくなかったのだろう」

「それでも、ありがとうございます」

 改まってまた頭を下げた。不思議な女だ。助けて欲しくなかったはずなのに、助けられて礼を言っている。本当は生きたかったのだろうか。それとも人とはこういう生き物なのだろうか、理解できない。

 考えを巡らせているのだろう。彼女は黙って天井を見上げている。話すこともないので私も黙ったままだ。

「そういえば自己紹介をしていませんね。私はレイア・フィリーズです」

 よろしく、と言葉を添えて白い肌をした手を差し出した。握手をする必要がどこにある。自己紹介する必要がどこにある。そう思っているのに手を握り返した。

「バラゴール・ルーヴェン・サロド四世。分かっているだろうが吸血鬼だ」

 何を言っているのだろうか、何をしたいのだろうか。自分でも分からないのに自己紹介をして、握手を交わし、もしかしたら微笑んでいるかもしれない。亡き彼女と付き合っていたころのように、私はレイアに接していた。

 胸の奥で期待していた。友達でもいいから繋がりを持てることを。ヴェルモンドと二人、城で暮らす寂しさを捨てたかった。表に出さないだけで、考えないだけで実際には世界を見て回りたい、人と接したいと思っている。それを吸血鬼という事実が阻んでいるのだ。

 レイアは私の顔を見て驚いているようだ。目を見開き、少し口を開けている。変な顔でもしているのだろうか、私は。

「私の顔がどうかしたか?」

 無視をすればいいものを聞いてしまう。どうして人が目の前にいると饒舌になるのだろう。やはり寂しがっているのか。

「あ、ごめんなさい。ただ、その」

 言葉を濁してまた私の顔を見る。すぐに顔を背けて口元に手をあて、小さくだが笑い声を漏らした。

「吸血鬼も微笑むんだなって。やっぱり怖い印象があって、少し驚いちゃいました。失礼ですよね、ごめんなさい」

 彼女の言い分が正しい。人に微笑む吸血鬼など、人は想像もしないだろう。人にとって私たちは敵なのだ。歯を剥き出しに襲ってくる印象はあっても、不恰好ながら微笑む吸血鬼などいるはずもない、そう思われて当然だ。

 だがそれは少し違う。吸血鬼は血を得るために人を襲う、それは否定しない。しかし全ての吸血鬼が人嫌いなわけでも、食料と思っているわけでもないのだ。人に微笑むことも笑顔を見せることもあるのだ。人が思い違いをしているだけで、我々は襲うだけの対象としてしか人を見ているわけではない。

 現に私は人の女と付き合った過去がある。人と契りを結び、子を儲けた吸血鬼を知っている。家族のように親しい吸血鬼と人を知っている。人の偏見で我々は凶暴な悪魔と思われているのだ。

 そんな吸血鬼の事情を彼女が知るはずもなく、まだ可笑しさに小さく笑っている。私の微笑み顔が不気味なだけかもしれない。

「勘違いをするな。私は、いや吸血鬼は何も人を襲うだけじゃない。人と仲の良い吸血鬼もいるのだ」

 思ったことを口にする。少しむきになっていた。普段なら気にすることもないことが、人の前だと気になる。彼女なら信じてくれそうな気がして、それから色々と吸血鬼の事情を話した。

 吸血鬼が人の血を吸いこそ殺すことは滅多になく、必要な血の量が死に至るほどではないこと。人と子を作った吸血鬼の話。人と親しい吸血鬼の話。人と吸血鬼の誤解から生まれた争いのこと。吸血鬼の力、など様々なことを思うがまま口に出した。彼女は怯えるどころか、瞼をいっぱいに開き小さな瞳を輝かせながら、興味津々といった様子で話を熱心に聞いている。

 色々なことを話し終えて、私は非常に充実していた。長い間溜まった話を聞かせることが出来て、聞いてもらえて心底嬉しかった。亡き彼女と接するように、親しく接することが出来た。

 そこでふと、豪雪の中、逝ってしまった彼女のことを思い出した。彼女は私のせいで命を落とした。人としてはまだまだ長い人生が待っていたというのに、それを私が奪ってしまった。

 その私は今、人の女と楽しく話している。それでいいのだろうか――いや、いいはずがない。彼女の人生を奪っておいて、私だけが楽しい思いをするなど、間違っている。

 それに私に係わったら今度はレイアを不幸にしてしまう。これ以上深く係わるまい。少しの間だけでも幸せを感じた自分が憎かった。

「話は終わりだ。体力も戻ったようだな。町に戻れ」

 きっと私の表情は醜いものになっているだろう。声色を一変させて、突き放すように言った。

 レイアは瞬きをして急変した私を見ている。その顔には話を聞かせていた時の明るい笑顔も、優しい瞳もない。恐怖に青ざめた頬に震える瞳が見える。

「そ、そうですよね、迷惑ですよね。ごめん、なさい」

 声も震えている。私はそんな彼女を見ていたくなかった。椅子から立ち上がり、窓に向かい合って立つ。

 微かな音で彼女が立ち上がったことを知る。靴音が少しだけ遠ざかった。扉の前で立ち止まっているのか。

「あ、あの」

 震えを必死に抑えた声が背中越しに聞こえた。

「なんだ」

「またここに来てもいいですか? もっとお話しがしたいんです」

 意外、とは思わなかった。話を聞いている時の彼女を見て、そういうことを言うだろうと、なんとなく予想できた。随分と好奇心旺盛な性格をしていると、感じ取れたのだ。

 亡き彼女も弱弱しい身体に似合わぬ好奇心を持ち合わせていた。やはりどこか二人は似ている。

「駄目だ。私に係わるとろくなことがない」

「私はあなたが吸血鬼だろうと気にしません。恐くもないです、普通の人と接するようにお話しがしたいだけなんです」

 いつのまにか声から震えがなくなり、覇気が篭っていた。死のうとしていた彼女と同一人物とは思えない。心境に変化があったのか、それを知る由はない。

 だがそんなことは関係ないのだ。私もお前と話したい。出来ることならもっと、もっと。

 自分の気持ちを抑えるのに苦労しながら、私は亡き彼女に助け舟を出した。

「以前、私と係わって命を落とした人の女がいる。お前も私に係わればそうなるかもしれないぞ?」

 出来れば引き合いに出したくなかったが、二度目の犠牲者を出さないためにはしかたがなかった。これでレイアも諦めるだろう、誰だって自分の命は惜しいはずだ。

 しかし一つ、私は勘違いをしていた。私が墓場で見た彼女は、死のうとしていた。

「死ぬのは恐くありません。元々、そのつもりでしたから。少しでも楽しい思いが出来るなら、そっちのほうがいいです」

 逆効果だった。私は自分の愚かな発言を悔いた。これ以上断るための文句がない。血を吸うと脅しても死すら恐れない彼女には意味がないだろう。私の負けだ。

 いや負けというのは正しくない。私も彼女が来てくれたほうが嬉しい。亡き彼女には悪いが、この気持ちを抑えきることが出来ない。

「好きにしろ。ただ命の保障はしない」

 台詞とは裏腹に私は彼女を守ると心に決めた。亡き彼女のような羽目には合わせまい。もし彼女まで犠牲にしたら、亡き彼女に合わせる顔がなくなる。

 恨むなら恨んでくれ。天国にいるだろう亡き彼女に言葉を送り、私はレイアの横を通って部屋を出た。背中に「ありがとうございます」という元気な言葉がぶつけられた。




4.


 書斎に戻って読書をしていると二度ノックの音がした。無視したが樫の木の扉が開き、悪魔の形相をしたヴェルモンドが入ってきた。実際に表情は変ってないのだが、内に秘める気持ちが目に見えない形相を作っている。

 こつこつと気持ちの良い靴音を鳴らして机の前まで歩いてくる。本を閉じ、机の上に置くとヴェルモンドが喋り始めた。

「彼女に係わりあうのはおやめください、ルーヴェン様」

「執事が口を出すことでもあるまい」

 私とレイアのことを思って言っているのだろうが、突っ撥ねる。今更後には退けない。私も彼女と話がしたいのだ。

「エミトナ様の二の舞になりますぞ。よろしいのですか」

「彼女の名は口にするなと言ったはずだ」

 反射的に椅子を騒々しく倒しながら立ち上がり、いつになく張った声で言った。瞳に殺意を込めてヴェルモンドを睨む。

 亡き彼女の名前を耳にしたのは十六年振りだろうか。エミトナが死んでから、その名を口にすることを自分にも彼にも禁じていた。

「私なら殺されても構いません。しかし、ルーヴェン様が酷くお悲しみになる様子はもう、見たくないのです」

 殺意に負けることなくヴェルモンドが言い返す。彼の声もいつになく強気であった。

「彼女が、レイアがエミトナと同じ運命を辿ると決まったわけではあるまい」

 彼女の名前を口にするのは苦しかったが、思い出された今、黙っていても仕方があるまい。

「町に狩人が集まってきています。いつものことですが、今度は数が違います。ルーヴェン様、このままではレイア様も、エミトナ様と同じように……」

「黙れ!」

 一言だけ渾身の力で叫ぶ。

 それ以上は聞きたくなかった。狩人、忌々しい名だ。吸血鬼の血を欲し、吸血鬼を狩る人。吸血鬼の血を飲めば不老不死になれると勘違いし、狩人を雇って吸血鬼を探させ、襲わせる貴族なり王族が後を絶たない。

 私たちの血を飲んでも老衰が遅くなり、寿命が延びるだけだというのに、人はなぜ我々の血を欲す。我々が欲するのは生理的現象といえるが、人が欲する理由は違う。長く生きることが辛いことでもあると知らずに、人は欲だけで吸血鬼の血を求めるのだ。

 私は吸血鬼の中では有名な方なのだろう。いつまでも一所に留まり、町の人にもその存在が知られている。見つけやすさでは群を抜いているのだ。だから狩人が町に集まるのも日常のことだ。

 見つけられているが今まで狩人と対峙したことは片手で数えるほどしかない。多くは途中の森で死ぬ。あそこには毒蛇や毒蜘蛛と毒を持った生物が多く、予備知識なしで入れば生きて出られない。町の人だけが森の抜け道を知っている。それが分からない限り、城に辿り着くことなど滅多にない。

 町の人は優しい人たちだ。他の人を知らないが、きっとどの町の人よりも優しいに違いない。私のことを思って、森の抜け道を狩人に決して教えないのだ。教えたら報復される、そう思われているのかもしれないが、ありがたいことだ。

 おかげで運よく森を抜けた狩人と数回、そして町で一回だけ狩人と対峙しただけで今まで生きている。

 ただ、町での一回が大きかった。エミトナを失い、心に深い傷を負った。エミトナは狩人に殺されたのだ。私と係わり合いがあることが知られ、そのせいでエミトナは巻き込まれ、死んだ。城に着く抜け道を聞かれても頑として答えなかったために、エミトナは辱められ、殺された。

 エミトナを死に追いやった狩人たちを生かして帰すつもりはなかった。血を飲まず、弱っていたとはいえ吸血鬼だ。数人の狩人相手に苦戦することもなく、一人を除いて殺してやった。たった一人、頭と思われる男を逃したのが悔やまれる。

 ヴェルモンドとの会話で、封じ込めていた忌まわしい思い出が溢れかえった。一つ一つ鮮明に思い出せる。死体に成り果てたエミトナ、彼女の家の前に散らばる狩人の血と肉。誰にとっても悪夢としか思えない光景が脳裏に浮かぶ。

「もう二度と、エミトナのような目には合わせまい。何人の、何十の狩人がいようが私がレイアを守ってみせる」

「出来ますかな、本当に。今こうして会話をしている間にも、レイア様の身は危険に晒されています。いつ、どこで、ルーヴェン様とレイア様が知り合ったと気づかれるか分かりませんぞ。レイア様が口を滑らせるかもしれない。違和感に気づいた人が零すかもしれない。四六時中レイア様を見てやれないあなたが、どうして守ってみせると言えるでしょうか」

 ヴェルモンドの言っていることは正しい。至極正しいのに身体が動いた。

 机を飛び越し、彼の首を掴んで走り扉に背を叩きつける。弱っている身体でこの動作を一瞬にしてやれた。正しいことを理解しているはずなのに、相当怒っているようだ。

「お前に何が分かる。城でお前と二人で暮らす日々がどれだけ辛いか。黙々と読書だけをする日常がどれほど退屈か。彼女と知り合えた幸福が、お前に分かるというのか!」

 首を握る手に力が入る。今まで骨身を削って尽くしてくれた執事にする態度ではない。私とレイアのことを思ってくれている彼に対する仕打ちではない。それなのに、手に力が入る。

「分かりますとも。私のような爺と一緒にいても面白くありますまい。退屈な日々を壊してくれる人に出会って幸せなのもよく分かります。しかし、外の世界に出ないのはエミトナ様に未練があるからでしょう。豪雪の日に墓参りに行くために、外に出ないのでしょう。未練を打ち切って外の世界に出るなら構いません。ですが、この城に住んだままレイア様と会うのはおやめください。エミトナ様の二の舞になります。あなたはもう、有名なのですよ。ここで人と接することは、その人を不幸に、そして自分を不幸にすることです――」

 ヴェルモンドは見慣れる涙を流しながらよく喋った。人なら死ぬほどに力を入れているから泣いているのか。

 彼の言うことは一々当たっていた。エミトナに未練があり、墓参りをするためにこの城を離れることが出来ない。いつ、雪が荒れるかなど分かりようがないのだ。この城にいて、尚且つ退屈な日々を脱するには町の人と係わりあうしかない。

 だからこそ、赤いマフラーを返す約束をしたのだ。返す日が来れば、退屈な日から脱げ出せると考えて。そうしてそれが実現したのだ。手放したくはない。分かっているが、手放したくはなかった。

 怒りに身を任せたまま彼の首を折るところだったが、私はどうにか自分の感情を押さえ込んだ。ヴェルモンドは間違ったことをいっていない。間違っているのは私の方なのだから。それに彼の涙が、妙に引っ掛かった。

 手の力を抜き、ヴェルモンドの首を開放する。床に落とされて息を整えている。不規則な呼吸の音が聴こえた。

「お前の言う通りだ。だが、私はレイアと会う。レイアを守る。情けない話しだが、レイアと繋がらねばエミトナへの未練を断つことが出来そうにない。レイアなら、私にエミトナを忘れさせてくれるだろう」

 自分勝手なことは重々承知していた。それでも私はレイアに会いたい、レイアと話しをしたい。エミトナが許してくれるとは思わない、それでも私は彼女と繋がりを持ちたいのだ。

 まだ息を整えているヴェルモンドを見下ろして一言言い残し、書斎を出る。

「悲劇は二度と繰り返すまい」




5.


 彼女のことを強く意識したからだろうか、あの日の夢を見た。彼女が死んでから一年、毎日のように見た夢だ。今になって見るのは彼女が怒っているからなのかもしれない。

 荒れ狂う雪の中、町の外れにある小さな家に向かう私が見える。その先を知っているからこそ目を背けたくなるのだが、夢はそれを許さない。


 小さな家の扉を開けると見慣れた部屋に見慣れぬ姿の彼女が横たわっていた。テーブルがあった場所に、服を剥かれた彼女の裸体が見える。

 何が起きたか理解できず、そっと彼女を抱き寄せると、肌の冷たさが胸を凍らせた。

 死んでいる。分かっているのに事実を受け入れず、彼女の名前をしきりに呼んだ。何十回呼ぼうと反応があるはずもない。死んでいるのは、分かっているのだから。

 気づいた時には大粒の涙を流し、声の限り泣き叫んだ。何が起きた、どうして彼女は死んだ。思いを巡らせながらただ泣き続けた。

 そのうちに汚い声が聞こえた。扉の方に顔を向けると、卑猥な笑みを浮かべた男が立っている。その後ろにも何人かいるようだ。

「何だ、お前たちは」

「俺たちかい? その女をヤッた狩人さ、吸血鬼」

 笑いが起きた。そうかお前らが彼女を殺したのか。私の思考が一瞬で決断を下し、殺意を込めて一言言い放つ。

「外に出ろ。彼女の家を汚したくない」

「ああ、いいぜ。そのほうが俺たちにとっても分が良いんでな」

 耳障りな笑い声が怒りを増幅させる。外に出てみると遠巻きに様子を見る町の人が幾人かいるのが分かった。だが気にしている余裕はない。

 狩人たちは全員で二十人はいるようだ。数など問題ない。各々が武器を手にしているがこれも気になることではなかった。

「全く、いい恋人を見つけたなあ、吸血鬼さんよぉ。あの女、幾らヤッても城への抜け道を吐かなかったぜ。まあそれも、あんたが来ちまったから意味ねえけど」

 さっきから喋っているのは一人の男だ。狩人たちの頭のように見える。

 血で穢れた赤茶色の髪に、濁った黒い瞳を含んだ切れ長の目。端が釣りあがった口から彼女を陵辱したときの様子が語られる。どの部分を見ても卑しい人にしか見えない。

 こんな男にエミトナは……。

「お前をヤッて大金をもらえるわ、いい女とヤれるは最高だ」

 もう、聞きたくも見たくもない。

「生きて帰れると思うな」

「おお恐い、恐い」

 一瞥をしても狩人たちは笑うばかりだ。怒りに我を忘れて私は走った。人の血を断っているとはいえ、まだまだ人に劣る私ではない。

 狩人たちが気づく前に、奥にいた一人の首を爪で掻っ切った。狩人たちが振り返り、目を見開いた時にはさらに二人、首を握りつぶしている。

「おいっ、早く仕留めろ!」

 赤茶色の髪の男が叫んだときには四人か、胸を貫くなり腕を千切るなりして殺していた。それからはどうやって殺したか覚えてない。

 気づいた時には赤茶色の髪の男と傷だらけになった私だけが立っていた。その周りには元は人であった血と肉、骨が散らばっている。

 中にはまだ僅かに生きている人もいたようだが、じきに死ぬだろう。

 さすがに本来の力を失ってこの大人数を相手するのは辛かった。吸血鬼が持つ驚異的な回復力も、本来の力なくしては傷を癒しきれなかった。

 幾つもの深い傷が黒いコートを破り、身体に刻まれている。骨も所々折れているようだ。

 しかし私は決して倒れなかった。目の前の男を殺すまでは、倒れるわけにはいかない。

 最後まで傍観していた狩人は背負っていた剣を引き抜き、卑猥な表情を既に改めていた。戦闘の経験が豊富とはいえないが、今までの狩人よりは腕がありそうだ。

「楽な仕事だと思っていたが、間違いだったようだな。城に引き篭っている吸血鬼という情報じゃぁ、いかにも弱そうな感じだったが、さすがに化け物だけあって素人でも強いな」

 気持ちを改めたからか、口調から下品さが消えている。剣を構えている姿に隙がない。無闇に突っ込んでも返り討ちだろう。何十人も殺して少し冷静さを取り戻して考えたが、やることは同じだった。

 馬鹿正直に真っ直ぐ敵に向かって走る。刺し違えても構わなかった。相手が振り下ろした剣を避けることもなく、左肩で受ける。半ばまで刃が食い込み、もう少し行動が遅ければ左肩から腕を失っていただろう。

 私は残りうる限りの力を右手に篭め、敵の左腕を引き千切った。赤黒い血が噴水のように肩口から噴出し、敵は声の限り悲鳴をあげながらも剣から手を離し、後ろに跳んで距離を置いた。

 追いかけて首を胴体から引き離してやりたかったが、私の左肩からも血が溢れ出て、さすがに眩暈がした。走りたいのに右足、左足とゆっくり交互にしか前に進めない。

「まさか負けるとはな。俺は死にたくないんでね、逃げさせてもらうぜ」

 おぼろげに映る敵は左肩を手で押さえ、不気味な笑みを浮かべながら弱弱しい声で言った。

 遠ざかっていく姿が微かに見える。追いかけて殺してやりたいのに、真っ赤に血塗られた雪の上に倒れこんだ。

「ジェイ・エリクレイ、俺の名前だ。俺はてめえを殺しにまた来るぜ。それまでせいぜい、俺の名前を覚えておくんだな。てめえの女をヤッた男の名前をよ」

 薄れいく意識の中、ジェイの台詞がやけに鮮明に聞こえた。忘れまい。いつか私を殺しに来るのなら、その時私がお前を殺してやる。そう心に誓いながら、私は意識を失った。


 夢はいつもここで終わりを迎える。一年間悩まされ続けた悪夢に、再び悩まされる時が来た。




6.


 私の一日は悪夢で始まり、レイアとの楽しい雑談で終わる。それが幾日も続いた。最悪な気分も彼女と話せば全て吹き飛んでしまう。

 話すときは彼女を休ませた客室で話している。私は椅子に座り、彼女はベッドに端に座る。それが自然と決まりごとになっていた。

 何十日もそんな日が続いたある日、彼女が右目の下に大きな痣を作ってきた。狩人の仕業か、と嫌な予感がした。レイアは顔の痣を気にしないように振る舞い、それでも私に見られまいと必死に隠そうとしている。

 避けたいという気持ちも分かるが、聞かずにはいられなかった。

「その顔の痣はどうした?」

 楽しげに続いていた会話を打ち切ってまで切り出すと表情に暗い翳が差し、座っているベッドのシーツを力強く握り締めた。二人の間を沈黙が流れる。久しぶりの沈黙だった。

 話したくないことのようだが、原因を解明しないわけにはいかない。もし狩人の仕業なら町に降り、狩人を葬るほかない。

 もしかしたら、ジェイ・エリクレイが再び町に来ているかもしれないのだ。最近の悪夢はエミトナが警告しているのかもしれない、そう思えてくるほど不安が募る。

「何かあったのか?」

 沈黙に耐え切れずもう一度聞いてみる。彼女は俯いて黙っていたが、次第に涙を流し始めた。泣き声は必死に抑えているようだが、涙は無慈悲に頬を流れ落ちる。

「母に、やられたんです」

 母とは親のことだ。当たり前のことだが不思議に思えた。親が子を痣が出来るまで殴るのか。人とはやはり不思議な生き物だと、狩人でなかった安心感から変なことを考え始めていた。

 私たち吸血鬼は絶対数が少ない。まさに子は宝であり、種の存続を保つために親は子を大事に育てるものだ。長寿とはいえ私たちもいつかは死ぬ。

 人は吸血鬼と違い溢れるほどいるようだが、それでも子は大事に育てるものだろう。それを痣が出来るほど強く殴るなど、どういうことなのか。

「人は子を痣が出来るまで殴るのか。信じられないな」

 軽薄だったかもしれない。彼女の気持ちを考えずに思うがままを口にした。

 しかし彼女は思ったよりも威勢よく言い返してきた。

「違います。人間全てがそうじゃないんです。私の母が、そういう人なだけなんです」

 そういえば人は個性が強い。まるで別の生き物かと思うほど違うことがある。あの狩人たちとエミトナ、レイアが全く違うように。

 もちろん私たちも個性はあるが、人ほどではない。私たちはよほどのことがなければ吸血鬼同士で殺し合いをしないし、私欲に走ることも少ない。

 やはり人とは不思議な生き物だ。そう思っている間に彼女は声をあげて泣き出した。ここまで物悲しい彼女を見たのは初めてだ。

 慰めるにはどうしたら良いか分からず、頭を撫でた。

「良ければ話してくれ」

 そういうと彼女は頷き、話し始めた。やはり私には分からない話だった。

 幼い頃、彼女の父と母は四六時中喧嘩をしていたらしい。それが子供にまで影響を与えた。父は娘を可愛がり、それに反発するように母は娘を嫌った。ある日、酷く激しい喧嘩をして母が父を刺し殺し、人知れずあの墓場に埋めたという。それで十五年前のあの日、彼女は母の目を盗んで父のお墓参りをしていたらしい。

 父が死んでから母は自分勝手に娘を扱った。雑用を全てやらせ、機嫌が悪ければ気晴らしに殴る。そんな日が続き、どうしても辛い時だけ母の目を盗んで父の墓参りに行く、ということを繰り返した。

 歳が経つたび扱いは酷くなり、等々嫌気がさして自殺をしようと父の墓に行き、そこで私に助けられた、という話しだ。

 そして痣の話しだが、最近楽しそうにしている彼女に腹を立てて殴ったという。それも痣が出来るほど強く、何度も繰り返し殴ったと涙ながらに話した。

 話し終えた時、長年の苦痛が蘇ったのか、大声をあげて泣き、滝のように涙を流して私に抱きついた。もしかしたら彼女の身体にはたくさんの痣があるのかもしれない。普段明るいだけに、彼女の暗い部分が見えたのが辛かった。

 彼女が意を決して暗い過去を打ち明けてくれたことに、少し喜びも感じた。また彼女との距離が縮んだ。それならば、私の過去も話すべきだろう。

 エミトナの話しをするのは地獄の業火に焼かれるよりも辛いことだが、彼女が明かしてくれたように私も明かさねば、彼女と親しくなることは叶わない。日々悪夢を見ているのも、彼女に話しをすれば少しは気が楽になるかもしれない。

 彼女がどうにか泣き止んだのを見計らって、彼女をベッドの上に座りなおさせた。

「ありがとう、辛い話しをしてくれて。お前が打ち明けてくれたように、私も過去を打ち明けよう」

 いつになく私は明るい気持ちだった。話すことは何よりも苦痛なことだが、話せる相手がいるということが、気分を明るくしてくれる。

 泣きやんだ彼女は顔を上げて、腫れた目を向けた。痛々しい姿だ。エミトナはこんな姿を見せたことはない。彼女は完璧すぎる人だった。

 少し間を置いてから私は過去の話を始めた。

 エミトナと出会った時の話。それからの楽しい日々の日。エミトナの詳しい話。昔の私の話。そして、エミトナが死んだ日の話。

 一通りエミトナとの話しを終えたとき、レイアが涙を流しているのが分かった。声もなく、自分の時とは違って悲壮な感じがしない。

 エミトナのために泣いてくれている。そうだと思った。

「そんなの酷すぎます。ルーヴェンさんも、エミトナさんも悪くないのに」

「いや、それは違う。私が悪いのだ。吸血鬼だというのに、人である彼女を愛してしまったことが、彼女を死に追いやった。お前にも常に危険が――」

「おかしいです、そんなの! 二人は仲良く暮らしていただけじゃないですか。吸血鬼だからって、ルーヴェンさんは何も悪いことをしていないのに。そのジェイっていう人が悪いんです、絶対にそうです。それに……」

 一気に喋りたてると言葉を切り、頬をやや赤くして続けた。

「私がそういうことになっても、エミトナさんと同じようにします。私、ルーヴェンさんのことが、その、好きだから、絶対に言いません。それに危険なのは承知のうえです。それでも私はルーヴェンさんと話したいんです」

 嬉しかった。吸血鬼である私の肩を持ち、慕ってくれていることが。彼女の行為を立派と捉え、自分もそうすると言ってくれたことが。嬉しさの余り、涙が浮かんだ。流すのがなぜか恥ずかしく思えて指で拭うと、立ち上がって彼女に背を向ける。

「ありがとう。だが、エミトナのような目には合わせない。何があっても守ってみせる。何か不審な人がいたら教えて欲しい。特に、赤茶色の髪の男には気をつけろ」

 見たわけではないがきっと彼女は頷いているだろう。

「本当は城に居てもらうのが一番なんだが、ここには人の食べるものが全くない。ヴェルモンドも血を飲むのでな。買うにも金がない。すまないな、少しでも財産があればすぐにでも一緒に住みたいのだが」

「私も一緒に住みたいです。けど、私がいないと母は暴れて、近所の人に迷惑をかけるんです。だから、帰らなくちゃ」

 明るい声が返ってきた。普段の彼女が戻ってきたようだ。振り返ると優しい笑顔が見えた。

「いつか住めるように、何か策を考えよう。今日はもう日も暮れる、帰ったほうがいい」

「はい。また明日来ますね」

 彼女は一度頭を下げて部屋を出て行った。

 また楽しい日々が来るといい。いつまでも楽しい日々が続くと良い。少し贅沢なのかもしれないが、どうしてもそう思ってしまう。

 ふと小さな窓から外を見ると、真っ赤な夕日が私を睨んでいて寒気を感じた。




7.


 翌日のこと、彼女はいつにも増して笑顔だった。痣を隠す様子もなく、昨日感じた悲しい感じが全くない。それはそれで恐い気がした。

 いつもの部屋で、いつものように向かい合って座っている。何も変らないはずなのに、彼女はやけに嬉しそうだ。

「今日は機嫌がいいな」

「ええ。母のことを話したらなんだかすっきりしちゃって。今までは殻の中に引き篭って泣いていただけでしたけど、話を聞いてくれる人がいると思ったら気が楽になったんです」

「そうか、それは良かった。私でいいならいつでも話しを聞こう。それと私は人じゃない、吸血鬼だ」

 他愛のないことをいって笑い合う。それだけで幸せな気分になれてしまう。

 今日も私の読んだ本の話や、町の話を話した。毎日似たようなのに飽きることがない。

 いつもどおりの話しが終わると、彼女が嬉々とした顔で自分の夢を話し始めた。

「私は旅をして世界を見て周りたいんです。町から出たことがないから、外の世界を見てみたい。他にどんな町があるのか、どんな場所があるのかを知りたい。今はお金がなくて出来ないけど、いつか必ず、旅に出ようと思ってます。その時は」

 言葉を止めて私の顔を見つめる。頬が熱くなった。

「一緒に行ってください。あなたと一緒に旅がしたいんです」

 どう受け取って良いのか分からなく恥ずかしくなった。友達としてか、それとも恋人としてなのか。どちらにせよ私は嬉しく、そして残念だった。

「誘ってくれて嬉しい。だがそれは出来ない」

 表情が落胆に変った。怒っているのだろう、頬を少し膨らませた仕草がまた愛らしい。

 彼女は「どうしてですか」と問い詰めた。

「一つは吸血鬼である私が付き添うと危険が増えることだ。これは今もそうだが、外に出ればより多くの狩人に狙われるだろう。吸血鬼を吸血鬼と一見して見分ける方法はないが、狩人は臭いで人と吸血鬼を判別する。人とは違う、独特の臭いでな」

 そういうと彼女は鼻をちょっとだけ動かし、臭いを嗅いでみたようだが分かるはずもない。実際に出ている臭いではなく、言うならば雰囲気というようなものだ。

 彼女は表現を変えただけということに気づかず、そんなことないですよと言う。

「まあそれはいい。お前を守る自信はあるからな。だが……」

 言い難い。エミトナことを引き摺っていると言うのに恥じらいを感じた。私が自分のせいだと思っていると言えば、彼女はまた声を荒げることだろう。

 言い逃れできるようでもない。続きの台詞をじっと待っている彼女がいた。

「エミトナの墓参りがある。豪雪の日に墓参りに行かねばならない」

「豪雪の日以外じゃ駄目なんですか?」

「ああ。あの日を引き摺っているせいだろうが、あの日にならないと彼女を思い出せないのだ。お前と出会ったからは少し変ったが、それでも豪雪にならないと彼女の姿がぼやけてしまう。そんな状態では、墓参りをしても意味がない。それに、私だけが楽しく生きるのは、許されまい」

「あなたがそうやってエミトナさんの死に縛られることを、彼女は喜ぶのでしょうか」

 痛いところを突かれた。考えないようにしてきたことを、考えさせられる台詞だ。

 彼女は喜ぶのか。それは分からない。死んだ彼女が喋ることはないのだから。毎日墓参りに行かない私を恨んでいるかもしれない。いつまでも縛られている私に怒っているかもしれない。それはもう、分かりようのないことだ。

 だが短い間とはいえエミトナと付き合っていたのだから、少しは彼女の考えが分かる。きっと、怒っているだろう。いつまでも惨めに彼女に縛られている私を。何者にも縛られずに生きていた私を慕ってくれた彼女なら、許さないだろう。

 言葉を失い俯いた。分かっていても、ここから離れることが出来ない。どうしようもないことだった。

「私じゃエミトナさんの代わりにはなりませんか?」

 顔を上げてみると、真っ赤な両頬が見えた。いつになく強気な口調だ。

「代わりというわけではない。エミトナとお前は別の人だからな。すまない、駄目な吸血鬼だ」

 自嘲の笑みを浮かべたのは何十年振りか。呆れるほど自分が情けない。

 私の表情を見て彼女が申し訳なさそうな顔をして、ごめんなさいと謝った。何を謝ることがあるのだろうか。

「私、ルーヴェンさんの気持ち考えてないですよね。それだけエミトナさんのことを大切に思っているのに、それを引き離そうとして、嫌な女ですね」

 今度は彼女が自嘲の笑みを浮かべた。レイナには到底似合わぬ。

「いや、いい女だ。お前も、エミトナも。私も少し考え直してみよう。明日でも墓場に行ってみる。豪雪以外の日に行くのは初めてだが、彼女と話しをしてみる」

 馬鹿なことを言っている。死んだ彼女とどう話そうというのか。確かに吸血鬼は人とは違う能力を持っているが、死人と話す力などはない。

 それでも彼女は納得してくれたのか、微笑みを取り戻してくれた。彼女にはやはり明るい笑顔が似合っている。

「分かりました。でも、明日は寒いですよ。今日だってそうです。ルーヴェンさんは外に出ないから分からないでしょうけど。だからこれ、はい」

 意地悪なこと言いながら手持ちの籠から取り出したのはあの赤いマフラーだった。表情に出ないようにするが、赤い色が嫌味なほど強い。

 私は礼をいって受け取った。良く見ると前のとは違った。

「前のは買ったものだったんですけど、今度は自分で編みました。どうせなら、こっちを使って欲しくて。どうですか?」

 正直な話を言えば、マフラーの違いなどわからない。これも彼女の気持ちが篭っていると思えばこそ受け取るのだ。赤い色が嫌いなことは話していない。ただ忘れていただけの私が悪かった。

「いい出来だ。どちらも大切に使おう」

 彼女の笑顔が明るく輝く。赤い色が嫌なことくらい、我慢する価値があった。

 気づけばいつものように日が暮れていた。窓から夕暮れの明かりが差し込む。

「もう時間だな。暗くなる前に帰るといい」

「はい。明日は少し遅く来ますね」

 気遣いをしているのだろう。そこまで言われては、行かねばなるまい。彼女が来たとき、行けなかったと話したくはない。

 ベッドの端から立ち上がり、扉の前で振り返って頭を下げた。

「さようなら、また明日」

「ああ、また明日」

 毎日の繰り返しをして、彼女は部屋を出て行った。




8.


 書斎の扉が二度叩かれた。どうやら昼の時間が来たようだ。レイアと会うようになってから、執事の機嫌取りで昼食を欠かさず取るようになった。一食取るだけでヴェルモンドの気は幾らかよくなった。

 返事をしないで待っていると扉が開き、見慣れた台を押してヴェルモンドが入ってくる。食事はいつもどおり動物の血を混ぜたものだ。吐き気がするほど赤く、咽返るほど不味いが仕方あるまい。

 彼がグラスを机に移している間、背を向けて窓の外を眺める。首を絞めてから以来、まともに向き合えないでいた。

「墓参りに行ってくる」

 唐突に言った。余計な言葉を交わす必要などない。行くということが伝われば事足りるのだ。今までもそうしてきた。それ以上、話すことなどなかったはずだ。

「今日は快晴ですよ」

 窓の外を見ている私に分かりきったことを言う。彼の中でやはりやりきれない思いがあるのだろう。頷くだけのいつもとは違った。

「見れば分かる。それでも行くのだ」

「レイア様のためですか」

 ヴェルモンドの喋り方には棘があった。まるで責めるような口調だ――いや、事実責めているのだろう。

「私のためだ。いつまでもこのままでいる気は、ない」

「城を出るのですね。それもいいでしょう。しかし、独りでなさることです」

 見抜かれて良い気分がするはずもない。彼は私の心などお見通しなのだ。長すぎるくらいの付き合いの中で、知り尽くしているのだ。

 それなのに私は彼の心が全く見えない。恩義を返すというのなら、私の好きにさせて欲しい。

「私の勝手だ」

「もう何十年、この城に仕えてきたでしょうか。ルーヴェン様が幼い頃から私はこの城を、あなた様を知っています」

「それが何だ」

「まるで自分の子のように思えてきたのです。幼い頃から今まで、あなた様に仕えて、親の感情が生まれたのです。人として出来なかったことが、出来たような気がして嬉しかった」

 意外な話しだった。ヴェルモンドが私のことを自分の子のように思っていたとは、気づきもしない。ただ同じことを繰り返しているだけの日々の中で、彼は親としての喜びを感じていたのだろうか。

「あなた様が悲しむ姿をもう二度と見たくはないのです。あなた様を悲しませるようなことは防がねばなりません。また同じことを繰り返させては、バルサ様に申し訳が立ちません」

「父は関係ない。それに、私とて二度とあのような目には遭いたくない。命を賭けても、彼女を守ってみせる」

「無理ですよ、ルーヴェン様。前にも言いましたが、こうしている間にも襲われているかもしれないのですよ。どう、防ぐといいうのですか」

 その通りだ。今襲われているのなら、それを知りようがないし防ぐことが出来ない。だからといって町に降りれば、町の人に迷惑がかかる。あの日以来、私は町の人にとって化け物でしかなくなった。昔のような優しさはもうありはしない。

 彼女にも迷惑をかけることになる。吸血鬼と関係があると知れ渡れば、それこそ狩人の標的になり、白い目で見られるだろう。彼女が私のことを喋らなければ知れることもないはずだ。ここに来ているのも墓参りに行っていると言えば、そう不思議に思われないはずだ。

 一緒に旅に出るとなれば、四六時中一緒にいられる。私が軽率な行動を取らない限り、吸血鬼であると一見では分からない。狩人に知れたとしても、常に一緒に居れば守りきる自信があった。そう思えばこそ、エミトナと決別しようと決めたのだ。

 窓に背を向け、ヴェルモンドの深い闇色の瞳を見た。歳の重みが瞳に現れていた。見つめ合っていると、それこそ心を見透かされているような気になる。

 視線をグラス越しに見える真っ赤な液体に移した。いずれ来るであろう狩人との戦いのためにも、血を欲している自分がいた。

 人の血を欲しないだけまだいい、そう胸の内で呟き血を飲み干す。

「出てくる」

 それだけ言い残し、ヴェルモンドの横を通り過ぎて扉を開けた。振り返って見た彼の背中には寂しさが浮かんでいた。

 久しぶりに太陽の光の下を歩いている。白く塗られていない森は瑞々しく輝いていた。耳障りな音がしない道はでこぼこで茶色く、所々に小さい草が緑色を加えている。

 初めて見る景色ではないはずなのに、別の世界のように見えてしまう。

 ある意味では正しいのかもしれない。私にとっては別の世界なのだ。雪に覆われた世界は悲しい色に染まっていた。今はそうではない。喜びを表すかのように、どこもかしこも日光に当てられて笑顔を見せている。

 空を見上げれば果てしなく広がる一面の蒼。一点の曇りもなく、地を見下ろしている。空とはこんなにも蒼いものだったのかと感動さえ覚えてしまう。

 こんなにも快晴で明るく輝いている世界にいるのに、心の中は雪の日と変わりない。去り際に見たヴェルモンドの寂しい背中が目に焼きついている。当たり前過ぎて感謝の気持ちを述べたことがない。何十年も仕えてきてくれた彼に対する仕打ちとしてはあまりにも酷いのかもしれない。

 今後のことを思い浮かべると必ずしも良いことばかりではない。良いことがあれば悪いこともある。神がいるとするなら、巧い具合に世界を作ったものだ。

 はっと我に返ってみるとエミトナの墓の前に立っていた。考えごとをしても、何十回と来た道を足は着実に歩いてきたようだ。

「今日は話があって来た。雪の日以外に来たのは初めてだな」

 黙って見下ろしていただけの今までとは違い、声に出して話しかけた。本当に彼女と会話をする気で来たのだ。もちろん頭では既に死体でしかないことは理解している。それでも声に出さないと気が済まない。

「お前が死んでからもう十六年になるのか。豪雪の日にしか墓参りに来ないことを恨んでいるか? お前なら、自由に生きて欲しいとでも言うのだろうな。今の私を見て、お前が怒る姿が眼に浮かぶよ。あの頃は自由に生きていたものだ。

 気が向いた時に町に降り、人に混じって食事をし、血が飲みたくなったら人を襲っていた。お前との出会いも、そんなことだったな。襲おうとしたとき、何と言ったか覚えているか?

『あなたが噂の吸血鬼ね。血なら好きなだけ飲んでいいわ。ただ、もう他の人を襲うのはやめて』

 驚いたよ。自分を犠牲にしてでも他人を守ろうとするのだからな。そんなお前に一目で惚れてしまった自分にも驚いたものだ。

 確かにお前は美しかったがそれだけではない。吸血鬼では見たことのない性格に惹かれた。おかげで私は中々体験できないことを色々体験させてもらった。会話の一つ一つでさえ貴重で、何も換えがたいものだった。

 命より大事な人、そう思える女だったよ、お前は」

 雪の日よりも様々なことが脳裏に蘇る。出会ったとき、会話をしたとき、買い物をしたとき、山へ行ったとき。こんなにも楽しい思い出が浮かぶなら、初めから雪の日以外に墓参りするべきだった。どこまでも愚かな吸血鬼だ。

 いつの間にか、涙が頬を濡らしている。

「そんなお前を失って、私は死んだのも同然だった。豪雪の日だけ墓参りに外に出て、後は書斎に閉じこもる日々。お前がその時の私を見たら嫌いになっていただろうな。何よりも自由を大切にしていたお前なら。

 今の私は自由ではない。自分の犯した罪を背負って、償っているつもりでいる。自己満足なのだろうが、それに縛られている。

 だがな、少し変ってきたのだ。お前のような、大事な人を見つけられたのだ。名前をレイアという。彼女となら、自由に生きていける気がするのだ。

 どうだろう。私は自由に生きるべきなのか? お前のことを忘れるつもりはない。だからといって独り生き延びた私だけが、自由に生きていいのだろうか。それが分からない」

 問いかけても答えが帰ってくるはずもない。彼女は死んでいるのだから。

 しばらく黙って墓を見下ろしていた。もしかしたら返事があるかもしれないと馬鹿げたことを考えていた。いつまで経っても時が過ぎ行くだけで、返事などありはしないのに。

 どれくらいの時を立って過ごしたか分からないが、そろそろ戻らねば。レイアが来ているかもしれない。ヴェルモンドと二人では気まずいだろう。

 そう思って涙を拭い、振り返るとそのヴェルモンドが立っていた。いつの間にそこにいたのか、どれくらい前からいたのか全く分からない。それほど私は返事を期待していのか。

 もう一つ、なぜ彼がここに来ているか分からなかった。場所を教えたはずもないし、来るような用事など――まさか、レイアが――。

「これを」

 私の不安げな表情を読み取ってヴェルモンドが前に出て一枚の紙切れを手渡した。

『お前の女は預かった。町の広場で待つ。十六年前の悲劇を繰り返したくなかったら来ることだ――ジェイ・エリクレイ』

 悪夢のような出来事が、恐れていた事態が起きてしまった。

 考える間もなく紙切れを握りつぶし、町へと駆ける。




9.


――すまない、エミトナ。悲劇を繰り返してしまった。

――すまない、レイア。やはり巻き込んでしまった。

 心の中で嘆き続け私は走った。山を飛び降り、毒の森を突きぬけ、街中を疾駆する。広場につくと、縄で縛られたレイアが見えた。その周りに三十人以上の男たちが立っている。

 一番前に腕組みをして立っている男が私を見て厭らしく笑った。ジェイ・エリクレイ、忘れられない名前が口からこぼれた。

「久しぶりだなあ、吸血鬼さん」

 妙に親しげに言う。十六年の歳月が確実にジェイを老いさせていたが、それでも十分若々しく見えた。地獄の業火を思わせる赤茶色の逆立った髪、深い闇が見える瞳、卑しく笑う釣りあがった口、全てに狂気が満ちている。

「ルーヴェンさん!」

 縄で縛られたレイアが声を張り上げると、うるせえと隣の男が頬を叩く。

「レイアに手を出すな。用件はなんだ」

 大方予想はついている。私の命を差し出せ、とでも言うだろう。

「あんたの血を貰う。四肢を切り落とし、胴と首だけにして持ち帰れっていうんでな。そうさせてもらうぜ。大人しく従うことだな」

 勝ち誇った笑みが気に障る。だが従わねば彼女を守れない。頬を叩かれた以外、まだ酷いことはされていないようだ。今ならまだ、エミトナのようにはさせないで済む。

 私が頷くとジェイが首を私の方に傾け、それに従って反り返った大刀を持った男が寄ってきた。

「へへへ、大人しくしてろよ」

 汚い声だ。耳を塞ぎたくなったが、どうにか堪える。下手に動いてレイアに手を出されては困る。

 男が大刀を振り上げた時、ジェイと一人の男が小声で話しているのが聞こえた。人ならば聞こえないのだろうが、私の聴力は人のそれを越えていた。

「ジェイさん、本当にこの女を無事に帰すんですか? もったいないでしょう」

「馬鹿言え。あいつをダルマにしたら目の前でたっぷり楽しんでやるんだよ。あいつの顔が歪むのが見たくてなあ。ダルマにするくらいで俺の気が晴れるわけがないだろ?」

「そうですよね、へへへ、楽しみだ」

 そうだ、私はなんと愚か者なのだろう。全てに狂気が満ちている男が約束を守るはずなどない。そのような気持ちがあるのなら、女を人質にするような姑息な手は使うまい。彼女を守ろうという気持ちで、思考が鈍っていたようだ。

 彼女も小声の会話を聞いたのだろう。必死に叫んで伝えようとしているが口を押さえられていて声が届かない。

 ふふふふふ、自然と笑みが浮かび、声が出る。大刀を振り上げた男が擦り切れた声をあげる。

「観念したようだな。じゃぁ、とっとと終わらせるぜ」

 男は大刀を力いっぱい振り下ろす――が、私を斬ることは出来なかった。刃が右腕を切り落とす前に、手刀の形で男の心臓を貫く。

 一撃だった。手を引き抜くと最後の言葉を残す暇もなく、大刀を握ったまま仰向けに倒れた。

 ジェイを初め狩人たちの目の色が変る。各々武器を構え、殺気を研ぎ澄ます。

「どういうつもりだ? 女を見捨てるのか?」

 呆れたような口調でジェイが言い、私は返答の代わりに鼻で笑った。

「お前らが約束を守るはずがない。すぐに気づかなかった私は愚か者だ。彼女を守るためには、お前らを皆殺しにする他あるまい?」

 一同に緊張が走ったように見える。表情を強張らせ、中には汗を噴出し今にも倒れそうな奴もいる。私の殺気に気圧されているのかもしれない。

 ジェイだけは平然としていて命令を下した。女を殺せ、と。隣にいた男が手にしていた槍の先端を彼女に向ける。

 私は一瞬で距離を詰め、槍使いの男の首を突く。声にならない声をあげて男は倒れた。

 十六年前とは違う。私はレイアと出会ってから、動物のものとはいえ血を飲んでいる。それだけで人を超える力を取り戻すには十分だった。奴らに気づかれる前に接近し、殺すことなど造作もない。

 呆然としているレイアを抱き上げ、私は狩人の群れから離れた。家の陰に隠れて様子を窺っている町の人が見えたので、そこへ走る。突如として吸血鬼が目の前に迫り、町の人は驚いていたようだが、彼女を差し出すと抱きかかえてくれた。

「彼女を頼む。今から起きることは見ない方がいい。家の中にいろ」

 町の人は震えながらも頷き、家の中へ入っていた。これで安心して奴らを殺せる。

 広場の方に顔を向けると、狩人たちが迫ってきていた。数が十六年前より多いとも、私も強くなっている。いや、本来の力を取り戻しつつあるといえよう。

 向かってくる狩人の並に私は突っ込んだ。誰かが気づく前に一人殺し、一人が気づいた時にはまた一人殺している。このまま一気に殺せるかと思ったが甘かった。

 私の動きは狩人から言わせれば素人だろう。単純な動きしかしていないせいか、次第に狩人たちは私の動きに慣れ、攻撃を避けたり防いだり、反撃を繰り出す余裕が出来ていた。単純な強さでは埋まらない差だった。

 傷だらけになりながらも吸血鬼の回復力を強さに戦い、三十人以上いた狩人が四人までに減っていた。さすがに体力が追いつかず、息が乱れる。

 残った四人のうち一人は言うまでもなくジェイだ。この男は自ら戦おうとせず、命令するばかりで今も残った三人に命令を下した。

 三人は巧みな連携攻撃で仕掛けてきた。一人に狙いを定めると、その一人は防御に徹し、私の攻撃を命がけで受け止め、他の二人に攻撃を任せる。三人を殺し終えた時、私の身体は満身創痍だった。

 息を整え、最も殺したい男に意識を集中していると風を切る音が耳に届く。矢だった。疲れきった体では反応が間に合わず、四本の矢が背に刺さる。

 矢が飛来した方に目を向けると、建物の屋根の上に潜んでいたらしい二人組みが弓を構えているのが見えた。

 すぐに二回目の攻撃が飛んできた。矢には毒が塗ってあったようで、体が痺れて動きが鈍る。飛来した二本のうち一本が右腕に刺さった。

 私は弓矢使いを睨み、痛みを無視して渾身の力で跳んだ。屋根の上に飛び乗ると逃げようとする二人の首を掴み、そのまま絞め殺した。

 だが、ここまでだった。普段なら効くことのない毒も、弱った体にはよく回る。全身の感覚がなくなり、屋根から転げ落ちる。石畳に体を打ち付けて嗚咽を漏らす。

 ジェイを殺したいという思いが体を奮い立たせるが、立ち上がるのが限界で一歩も前に進むことが出来ない。

 視界も靄がかかったように曖昧になり、近づいてくるジェイの赤茶色の髪だけが色濃く見える。

「さすがだな、吸血鬼。あれだけいた狩人を全部殺しちまうんだから。でも、これでお前も終わりだ」

 言いながら鳩尾を蹴り上げる。私の体は紙屑のように軽く吹き飛ばされ、石畳の上を転がる。立ち上がろうとすると、また蹴り上げられて転がった。

「この腕の礼をたっぷりしてやる。それが終わるまで四肢は残しておいてやる」

 失った左腕を惜しむように左肩を叩いた。薄っすらと見えるジェイの瞳が復讐の炎に染まって真っ赤に燃えている。

 抵抗する力もなく、私は蹴られ、殴られ続けた。石畳を跳ね、転がり、体中が壊れていくのが分かる。ただの腕力や武器で吸血鬼は殺されない。故に、いつまでも痛みを味わうのだ。こんな辛い不死を、なぜ人は求めるのだろう。

 ひたすら怒りのままの攻撃を受け、思考まで止まりそうだ。このまま私が捕まれば、レイアは無事で済まないだろう。だが、今の私にジェイを殺すことは出来ない。

――人の血を飲めば、本来の力を取り戻せば――

 一瞬、そんな考えが浮かんだが振り切った。エミトナと約束したのだ。彼女以外の血は飲まないと。それを私は人の血を飲まない約束として覚えている。彼女の血であろうと、飲むことはない。

 しかしこのままではレイアが。どうしようもない状況をどう打開するか考えていると、力の限りの蹴りを受けて大きく吹き飛ばされた。石畳の上を跳ね、転がり、止まった時、レイアの顔が視界に浮かんだ。

「ルーヴェンさん、ルーヴェンさん!」

 確かに彼女の声だ。なぜ出てきた。いや、そんなことはいい。

「逃げろ」

 精一杯の声で言う。彼女は頭を振って拒み、涙を流しながら私の体にしがみつく。頼む、連れて行ってくれ。家から慌てて出てきた町の人に視線で合図を送るが、伝わらず、町の人は家の中に逃げ込んだ。

 理由は簡単、狂気に満ちた男が近づいてきていたからだ。彼女には手を出すな、そう言って立ちはだかりたいのに体が動かない。

「丁度良い、こいつの前でお前を犯してやる。愛した女を二度も犯され、殺され、最悪の気分を味わえ。それで腕のことは忘れてやろう」

 最悪の笑みを浮かべて、彼女に手を伸ばす。もう声も出ず、やめろとさえ言えなかった。

 彼女は泣き腫らした眼に怒りを込め、ジェイを鋭い眼差しで睨んだ。差し出された手に思いっきり噛み付き、ジェイが悲鳴を上げる。

「この悪魔! ルーヴェンさんが何をしたっていうのよ。腕がなくなったのはあなたのせいでしょ!」

「悪魔はそいつだろうが。吸血鬼なんだぜ? よくそんな化け物と付き合えるな」

「吸血鬼だから何よ! 心優しい吸血鬼より、心の汚い人間の方がよっぽど悪魔だわ!」

 泣きながら彼女が叫んでいる。もういい、逃げてくれ。私のことは放って逃げてくれ。幾ら胸の中で叫んでも声にならない。

「胸糞悪い女だ。もういい、てめえはさっさと殺す」

 背にある大剣を抜き、振り上げた。

 彼女の悲鳴が響く。

「ルーヴェンさん!」

 動かないと思った体が反射的に彼女の前に躍り出て、大剣から彼女を守れた。背中を深く斬られたが、もう痛みも感じない。耳も、遠くなった。彼女が何かを言っている。

「私の血を飲んで、そうすれば大丈夫なんですよね!?」

 それは出来ない。気持ちの問題だけでなく、体が動かないのだ。噛み付き、吸う力などどこを探しても見つからないのだ。

 そうはさせねえ、ジェイの言葉が僅かに聞こえた。また大剣を振り上げ、振り下ろすのだろう。体は反射的にも動きそうにない。すまない、せめて最後に謝りたかった――。

 気を失うはずなのに私の意識はなぜか冴え渡った。体中の痛みも引き、力が漲っていく。閉じた瞳を開けると、彼女の顔が間近にあった。

 彼女の唇と私の唇は重なり、彼女の舌が口の中に入っていた。舌の先から血が垂れていることに気づく。

――すまない、エミトナ。約束を破ってしまった。だが、レイアを守るためだ、許して欲しい。

「いちゃついてんじゃねえ、死ねよ!」

 汚らしい声がはっきりと聞こえる。振り上げられた大剣を身に受けることはなかった。

 私は彼女を胸に抱き、ジェイの眼では追えぬ速さで横に跳んだ。唖然としているジェイを他所に、私はレイアの泣き顔を見下ろした。

「ありがとう、レイア。お前のおかげで私はお前を助けることが、あいつを殺すことが出来る」

「良かった、良かった……」

 泣き顔が明るくなる。でも、もうこの顔を見ることはあるまい。理由はどうあれエミトナとの約束を破り、彼女を守るという約束も果たせそうになかった。

 結局、ヴェルモンドの言うことが正しかったのだ。私は人と係わるべきではない。

「少し、眠っていてくれ」

 そう言って手加減をして首筋を打った。これで彼女に醜い私を見せずに済む。彼女を家の外壁に沿うように置く。

「さあ、復讐の戦いを始めよう」

 振り返って今だに唖然としているジェイに向かっていった。彼女の血の味は素晴らしい。全身にこれまでに感じたことのない力が巡り、意識はどんな時よりも冴え渡っている。

 今の私は、正真正銘の吸血鬼だ。

 やっと我に返ったジェイが奇声を上げながら走ってくる。人の中では優れた動きなのだろうが、真の吸血鬼となった私には意味がない。

 間近に来るまで大人しく待っている。片手一本で大剣を扱うのだから、狩人としては優れた技術の持ち主なのだろう。目の前まで接近すると体を捻って、大剣を横に振るった。風が音をたて、凶器となって私を襲う。

 軽々と跳び上がって大剣を避け、ジェイの後ろにつくと同時に再び大剣が迫る。今度は屈んでやり過ごし、腕を上に突き出してジェイの首を捕らえる。

 ゆっくり、ゆっくり首を絞める。ジェイがもがき苦しんでいるのを見て、私は満面の笑みを浮かべた。

 エミトナを殺した罪、レイアを人質に取り、殺そうとした罪をその身に償わせてやる。

 ジェイは顔面蒼白になり泡を吹き出した。もうすぐ死ぬ、そう思ったところで楽々と体を宙に投げる。簡単には殺さない。

 石畳に叩きつけられ小さく悲鳴を漏らしたが、すぐに立ち上がって大剣を構えるあたり、腕が立つことを証明している。

 とはいえ、赤子を捻るようなことだった。私がやられたように死なない程度に加減して殴り、蹴り、投げ飛ばす。人のくせに中々頑丈で、しぶとく立ち上がった。

「苦しいか、痛いか。エミトナが、レイアが、私が味わった恐怖をお前にも与えてやろう」

 右手でジェイの首を掴んで持ち上げ、左手で大剣を握っている右腕を掴む。

 私は悪魔のように醜悪な笑顔を浮かべた。

 次の瞬間、右腕を引き千切った。声の限り聞き苦しい叫び声をあげる。肩から勢いよく血が噴出し、血溜まりを作っていく。

 このまま放置すれば死ぬだろう、そう思うと興味が失せてジェイの体を投げ捨てた。相変わらず汚い声を上げ続けている。いい様だ。

「痛みを味わいながら死ぬといい」

 台詞を吐き棄て、私はレイアの元に行き、気絶している彼女の体を抱き上げた。

 ふと周りに視線を巡らすと町の人が何事かと集まっていた。どの人の顔にも恐怖が浮かんでいる。もう、十六年前には戻れない。分かっていたが、辛い事実だ。

 彼女を抱いたまま、私は自分の城へと帰った。




10.


 レイアを彼女と毎日話していた部屋に連れて行き、ベッドの上に寝かせた。すぐにヴェルモンドが現れた。手には新しいコートと着替えを持っている。

「用意周到だな」

 傷だらけのコートを脱ぎ、手早く着替え、黒のコートを着た。彼は私の決意を見抜いているだろう。

「行くのですね」

 やはり見抜いていた。哀愁を感じさせる声だ。彼が私を息子のように想っていることを思い出す。

「ああ。今まで世話になった、ありがとう」

 柄にもなく礼の言葉を告げて、頭を下げた。当たり前のこと過ぎて気づかなかったが、私は彼がいなければ巧く生きていけなかっただろう。こうして生き延び、エミトナやレイアと出会えたのも彼がいてくれたからだ。

 礼を聞くとヴェルモンドは大粒の涙を浮かべた。声もなく、音もなく、瞳から涙が流れていく。

「私のことはいいのです。お言葉をいただけただけで、満足ですから」

 彼の声色は明るかった。聞き覚えがないほど、明るく弾んでいる。

 ヴェルモンドは私に並んでレイアを見下ろした。安らかな顔で眠って、いや気絶している。叩かれた頬も痣にならず、外傷は一つもない。

 彼は止めどなく流れる涙を拭いながら話した。

「レイア様、怒られますよ」

「仕方がない。私はこれ以上この城には住めない。エミトナとの約束を破り、お前を殺しかけたのにレイアを守りきれなかった。レイアが私に血を飲ませなければ、彼女も私も死んでいたのだからな」

 ですが、と話しを続けようとするヴェルモンドの前に手のひらを出す。続きの言葉を飲んで、彼は私を見上げた。

「お前が正しかったのだ。私はもう、誰も愛さない。これ以上、悲劇を繰り返すわけにはいかない。二度と、自分の力を過信しない。そう誓う」

 ヴェルモンドはまだ言い足りないようだが、「少し待っていてください」と言って出て行った。

 私はレイアの安らかな顔を見続けられなかった。見つめていると、離れるのが嫌になる。

 窓際に寄って外を見ると、悔しいばかりの快晴だった。この快晴を忘れまい、そう想って瞳に焼き付けた。豪雪の日と快晴の日、この二つを戒めの日としよう。

 しばらく窓の外を見ていると、レイアがルーヴェンさんと呟く。起きてしまったか、と振り返ると寝返りを打っているだけで起きていない。寝言のようだ。

 彼女が起きる前に旅立つ、そう決めていたので早く城を出たかった。いつ起きるか分からない。

 仕方ない、そろそろ出ようと扉の前に行ったとき、扉が開いた。ヴェルモンドは彼女の手作りの赤いマフラーを手にしていた。

 あれだけ嫌っていた赤色も今では平気になっている。大嫌いだった血も、平然と飲めるはずだ。彼女の血は何よりも甘美で私を酔わせた。嫌いと思い込んでいただけで、やはり私は吸血鬼なのだ。このまま彼女を見ていたら、血が欲しくなりかねない。

 ヴェルモンドは赤いマフラーを私に差し出した。

「外は寒いはずです、これを」

 気の効く男だ。彼女の代わりに持って行けということだろう。素直に受け取り、首に巻いた。彼女の想いが温かい。

「では行ってくる。レイアを頼んだぞ」

 無責任な頼みだったが彼は受け止め、頷いてくれた。振り返ってレイアの顔を見る。

――もう会うこともないだろう。今まで楽しかった、ありがとう。そして……すまない。

 部屋を出て、私はエミトナの元へ向かった。

 歩き慣れた道をいつものように歩いて墓場の前に立つ。彼女にも別れを告げる必要があった。

 つい先ほどのことを話して聞かせる。レイアを守りきれなかったことと、約束を破ってしまったことを。エミトナは許してくれるだろうか。

 全てを話し終えた時、心に穴が空いたような気分になった。大事な物を守りきれなかった代償だ。

 少しの間太陽の光を背に浴びて、涙を墓に落とした。もう流すこともないと思い、あるだけの涙を流してやった。

 気が済むまで涙を流すと、頭の中に声が届く。

『自由に生きて、縛られないで』

 天国から彼女が励ましてくれたのだろうか――いや、気のせいだ。自分の中で都合よく言ったに違いない。

 私は顔をあげ、空を見た。雲一つない青い空は、私の心と正反対だ。

「さようなら、エミトナ。行ってくる」

 墓に言葉を添えて別れを告げた。

 彼女に背を向けて、青空の下を一歩、また一歩進んでいく。

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吸血鬼の愛 @karino_zin

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