人喰い鬼の娘

高久

人喰い鬼の娘

 天具山には人喰い鬼が住み着いていた。鬼と呼ばれても元は人間であった。どういう経緯で彼が人を喰うようになったのかは諸説あるがいずれも要領を得ない。とにかく、人喰い鬼が住み着いていて、たびたび降りてくると人を連れ去って喰らった。

 人喰い鬼には娘がいた。


 廊下のほうからひたひたと足音が聞こえた。娘はぱっと顔を上げ、満面に笑みを浮かべて走っていく。ちょうど障子を開けて入ってきた男の肩に飛びついて、明るい声がおかえりなさい、と言った。

 男は少女の細い首に手を当てて、赤い紐で下げた鈴を手のひらに転がす。ただいまの代わりであった。首にかけた鈴をたいそう少女は気に入っていたので、男は彼女を「すず」と呼んだ。


 男の顔は造形が歪で、醜悪であった。右の頬は不自然に盛り上がって目の形をゆがめ、鼻は左にどことなく曲がっていて、口を開けば尖った歯がぎらぎらと光った。男の背は小さく、ともすれば一緒に暮らし始めて十年になろうかというすずにも追い越されそうなほど。そして全体は丸く、頭はそりあげていた。

 すずがそれを不思議に思わないのは、そもそも彼以外の人間を知らないからであった。家から出ることはないし、山奥なので周囲の土地には誰もいない。男はそんな中を半日出かけて帰ってこない。

「おとなしくしていたか?」

 低い地響きのような声が少女の頭上をなでる。彼女がうなずくと、そうか、とこころなしか柔らかな響きで言う。

 太い指が、絹糸のような髪を梳く。まっすぐな黒髪を彼はたいそう好いていた。すずがその感触に目を細めていると、不意にその手が離れた。あ、と小さな声を上げて、家の奥へ歩いていく男の後をいそいそと追いかける。

 男は台所まで行くと、背負っていた大きなかごをおろした。彼女の前に、中のものを順に出して見せ、尖った歯を見せて笑った。

「ちょいと少ないかな」

 首を傾げた少女の頭に手を乗せ、男は一つずつ指さして、これは? と聞いた。人参であったり、芋であったり、魚であったりした。すべて少女が正しく答えると、頭をなでて、逆の手で包丁を取り出す。

 すずは、彼が料理するところを見るのが好きなようであった。

 特に、魚を捌くときの手つき。太い指が腹を探り、鰓の下からごそごそと赤黒い中身を取り出していく様子を、彼女は目を丸くして眺めていた。魚の中から出てきたものに驚いているのか、腹の中を見ずに内蔵を掻きだしているのに驚いているのか、男には判じかねた。

 出したものを桶に捨てて向こうへ押しやると、小さな手が中をつついているのが見える。

 男は一切説明や何やらをしない。それでも彼女が楽しそうにしているのは、おもしろいからだ、という。なにをおもしろいと感じるのかを説明するには、すずには語彙が足りなかった。

 放っておいて、切り分けた魚の一部を塩漬けし終わると一度小さくため息する。野菜を切って、魚と一緒に大きめの鍋に放り込んでしまうと、振り返ってすずを呼んだ。

 顔を上げる少女に醤油の壷を示すと、律儀に両手で抱えて持ってくる。背の低い男が使うため、やはり竈も低い位置にある。少女はそこで味付けの様子を一部始終見ることができた。

 思い出したように男は手を打ち合わせてすずの方を向く。

「水を汲んでこれるか。たくさんじゃなくていいんだが」

 彼女は目を輝かせてうなずいた。


 煮付けを箸の先で転がす。少女は、そっと男の様子を盗み見た。自分の器に山のようにとりわけた魚も野菜もかまわず口の中に放り込んで、次の瞬間には飲み下している。

 すずもまねをしてみようとするが、彼女の口ではせいぜい人参を一切れほおばるのが精一杯であった。唇を尖らせて魚の白身をつつき始めると、はたと顔を上げた男と目が合った。

「どうした。まずいか」

 少女はとんでもないとばかりに頭を振る。彼のおかげで、すずには好き嫌いというものが一切なかった。

「じゃ、なにを怒ってる」

 さらに首をひねってのぞき込む男。少女はまた小さく頭を振って、魚の身を箸でつつく。色づいた白身の間から骨が出てくると、それを指先で摘んで身から離した。

「これ、食べれないの」

 男はそれでようやく彼女の不満の原因に気がついたらしく。膝を打って、笑う。彼はあまり大声で笑うたちではないが、声が出る代わりに体が揺れる。ことに今日はよほどおもしろかったようで、少女のほうまで床が揺れていた。

「わしはほれ、歯が頑丈なんじゃ」

「がんじょう?」

 彼女が聞き返すと、男は笑い疲れて小さくうなずいた。

「気にすることではないぞ」

 うなだれる少女、不承不承うなずいて男を見上げる。またすぐに食事に戻ってしまったらしい彼は、これまた山のようによそっていた麦飯を茶碗から口に流し込むようにして食べていた。


 少女の部屋には、札が無造作に散らばっていた。畳の上をうめつくすそれには、あるいは五十音がひらがなで一文字ずつ書いてあったり、動物や食べ物、道具の絵が描いてあったりした。

 男がある日気まぐれに持ってきて彼女に与えたものであったが、その使い方や、描かれているものの名前を、やはり積極的には教えなかった。時折思い出したようにこれが猫、とかこれが鰆、というのを聞くだけで。だからすずには話せる言葉がとても少ない。

 いつぞや持ってきてくれた手鞠を転がしながら、少女は自分もその傍らに転がった。首にかけた鈴が鳴る。指ではじくと、重たげな動きでむこうへ離れていく鞠を見つめる。

 その向こう側。障子を開いても、今日は生憎の雨であった。今日も今日とて男は山を降りていったが、少女には家に閉じこもるばかりですることがない。

 寂しいという感情はたしかにあれど、彼女にはそれを表す言葉を知らなかった。

 ごろりと畳に転がり、細く開いた障子の向こうを見る。仰向けに転がった彼女の目には、水が上に向かっているように映った。

 はやくかえらないかなあ。

 さあさあと葉ずれのような音が遠く近く絶え間なく続く。目を閉じると、どうしてかそれがひどく懐かしく思える。


 雨降りの山を歩く。男は家路を急いでいた。

 ある人間の女を食った折り、その腹からでてきたのが、あの娘であった。

 母親が死んでも、場合によっては赤子は生きているのだと、男はそのとき覚えた感動をまだ忘れていない。降り続く雨は屋根を叩き続けており、このままではこの子は死んでしまう、と彼は思った。

 あわてて湯を沸かし、ちょうど良い温度に整えてから赤子を浸し、丁寧に布で拭きあげて包んだ。そのときはなぜ自分がそんなことをしているのか考えるいとまも無く。

 彼は考えた。育てるより今食べてしまおうか。しかし女の肉もまだ余っている。

 男よりは女のほうが好きだった。自分が男だからかもしれないが、きっと肉が適度に柔らかいからだと考えていた。女よりも、子供のほうが好きだった。十四五の子供は男女を問わず脂肪が多すぎず肉が堅すぎないからだと考えていた。

 それ以上に、無垢なものがいいのかもしれない、と考えた。

 たとえばこの娘を無垢なまま育てれば、およそ今まで味わったことの無いようなすばらしい肉になるのではないか。人喰い鬼には、それ以上の幸福は無いように思われた。

 彼は子供を育てることにした。

 人が食用の馬や牛を育てるように、これ以上無いほどの愛情を注いで、注意深く、要らぬ知識を与えぬように、少女を少女たる現在まで育て上げた。

 雨降りの山を歩く。男は家路を急いでいた。

 低い門をくぐり、引き戸を開けて敷居をまたぐ。同時に、廊下に飛び出してくる裸足の足音。鈴の音。

「おかえりなさい!」

 男は鼻をひくつかせた。家の中に、湿気でも、少女のにおいでもない別のにおいがただよっていることに気がついた。

 それを質すひまもなく、今日は娘の動きがせわしい。男の袖をつかんだままひょこひょことその場で飛び回る。

「どうした」

「ごはん」

 腹が減ったのかと問えば、大きく頭を振った。いよいよ不思議に思いながら彼が草履を脱いで上がると、びくともしない体を引きずってでも行きたいらしく、すずは袖を引いて奥へ行こうとする。

 いつまでも袖を引かれてはたまらないので、男はすずの手を握って、走っていくほうへ大股についていくことにした。

 座敷へ向かった男は目を剥いた。

 夕食はすでに用意されている。少ないながらも、麦飯と、青菜の煮浸しと、焼き魚が二人分。

 誰か来たのかと訊くと、少女はにこにこして頭を振る。あまり彼がせっぱ詰まった顔をしていたから、しまいには少女、不安そうに体を縮こめてしまう。

「すずの」

 上目遣いに何事か訴えたいようだが、生憎男にはなにが言いたいのかわからない。

「すずが」

 据えてある夕食と、自分との間を少女の人差し指が行き来する。

「すずが作ったのか」

「……!」

 男の言葉にぱっと顔を上げて、少女は首がとれるかという勢いで大きくうなずいた。彼は改めて驚き、室内のそれと、娘とを見比べる。

「どこで覚えた」

 少女はもじもじしながら、男を見上げる。そういえば、毎朝毎晩、料理をするところはかならず見ていたように思う。食物も、ある程度は保管してあるからそれを使ったのか。

 男を喜ばせたかったのか、驚かせたかったのか、いずれにしても目的は達せられたとばかりにうれしそうな少女。彼は大きくため息をついて、よく見れば拙い(そのうえ少ない)食卓にどかと腰を下ろした。しばらく目頭を押さえる彼を、向かいに座るすずが心配そうに見上げる。

 背負っていた籠をおろすのも忘れ、男は少女の頭に手のひらを載せた。

「ありがとうな、おれは幸せ者だなぁ」

 幸せ者だ。

 こんなに素直で優しい、聡明な娘を持ったのだ。

 あと四五年待てば、この娘を無垢なまま喰らうことができるのだ。


 すずはおいしくならなければいけない。

 しかし、彼女はどうしたらその目的が達せられるものかを知らなかった。それも、男が言うには自分は特に努力しなくていいという。少女はいつも縁側で空を見上げたり、庭で鳥を追って朝から夕方までを過ごす。時折、男が持ってきてくれた玩具が増えた。

 ところが、鞠が跳ねる様子も、絵の鮮やかな色合いも、いつのまにか目に新しくなくなっている。彼女にはなにも無かった。庭の片隅で飼っている鶏と遊ぶのが好きだったが、その鶏だって一羽でそこにいるわけではない。

 無論、少女にも男がいる。

 しかし、それだけではないような。

 すずの幼い――度を超してものを知らない――頭には、それ以上深いところへの考察ができなかった。

 たっぷりの飼料を与えられて、常に四羽や五羽で群れる、丸い鶏。彼らがなんでも食べるのに気がついたのはつい最近のことだ。今日は団子虫を与えてみよう、と少女は決めていた。

 土間から少し外へ出て、大きめの岩をひっくり返す。

 中でうぞうぞしている黒い色にしばらく見入る。あるものは丸くなり、あるものが逃げだそうとするので、すずは両手いっぱいにそれを捕まえて、また走って庭へ戻った。捕まえたうちの何匹かが腕を上る。

 縁側まで来る。間の抜けた鳴き声と、かくかく揺れる鳥頭。あれはからっぽだから小さいのだと以前男が言っていた。あのひとは出し抜けにそういう話題を彼女に振った。

 しゃがみこんで鶏の前で手を広げると、捕まえた団子虫は半分程度になっていた。丸くなった虫を器用にくちばしがつついて飲み込んでいく。鶏は時折首をひねりながら、ちらちらとすずを見上げた。

 黒い虫がどんどん減っていく。

 痩せた手の平があらわになると、彼女ははたと目を見開いた。鶏と見比べて、彼女は自分に太さが足りない、と思う。これではきっとおいしくないだろう、あの人はあの夜のように「しあわせものだ」とは言ってくれないだろう。

 いまいち、あの日の彼の行動はわからなかったが、「しあわせもの」の顔を見ていると、少女はとてもいい気分だった。

 すずは、試しに自分も丸くなった団子虫をひとつぱくりと口に放り込んだ。あわてた団子虫が防御を解かないうちに、奥歯で噛み砕く。軽快な音と、いやな苦み。細かい足が口の中に散らばると、耐えられなくなってすぐに吐き出した。

 虫の死骸を吐き出してもなお、胸を刺すようなちくちくした感覚が残っている。

 鶏はおいしいのに、こんなに気持ち悪いものを食べているのか、と愕然とした。

 まずい、という形容詞を知らないすずは、まず、そう思った。それから、自分の指や腹を見て、細いことにまたがっかりした。

 ようするに、自分はあの男に「しあわせもの」でいてほしいのかな、と気がついた。


 男の厚い手のひらには、子供の悲鳴をふさぐのもそう難しいことではない。

 手元ですでに絶命している彼は良い家柄の子供らしく、身につけているものも肉付きも上等であった。男は、その首根を掴んで引きずりながら山道を上った。すずに見られるのも心苦しいし、ひとまずどこかへ隠しておかねばなるまい。そこ二三日でなくなる量だから大事に喰わなくはならない。保存がきかないところが目下の悩みであった。

 脱力した手足がずりずりと地面で音を立てる。男はもう一度肩に子供を担ぎ直し、大きく息をついた。折れた首がぐらりと傾いで、顔を男のほうへ向ける。ひきつった表情の中で、目だけがでたらめな方向を向いて、眼孔から飛び出さんばかりに盛り上がっていた。

 少年の頃はこの目が怖くてたまらなかったものだが、不思議なもので、慣れてしまえばなんともない。

 しかし近頃は、あのすずも、いざ喰われるときにはこんな目でおれを睨むだろうかと考えることがある。そのたび、男の総身は真冬のさなかにいるように凍える。豚や牛を育てて喰う農家の人間もこんな気持ちで家畜と過ごすのだろうか。

 彼には、耐えられないことだった。

 育てて喰うのはすずだけで十分だ、という気持ちにさえなる。十分だ――たくさんだ。

 門の近くに来ると、彼は垣根をぐるりと回って、裏から土倉へ行くことにした。すずに見つからないよう、音を立てないように少年の体は肩の上にかつぎ上げて。倉の中に投げ込むと、いかにも重たげな音がした。固まり始めている子供の体を、手足を降り曲げさらに小さく縮こめて、上からむしろを引っかけて戸を閉める。

 改めて門から入ってみると、いつもとは違う場所でちりちりと鈴の音が聞こえた。

 見回すと、庭のほうからいつものようにすずが走ってくる。首もとの鈴を鳴らすと、彼女はにこにこしながらうなずいた。

 今日とて土産の野菜や動物を見せ、土間へ行くと目をきらきらさせながら男の料理する様子をじっと眺めている。

 夕食を作って待っていてくれた日から、より熱心に彼がどうやっているのかを見るようになった。というのも、自分で食べてみて至らないところに気がついたらしく。そんなところも聡明でなによりだと男はうれしくなる。

 夜が更け、娘が眠ってしまったのを確認すると、男はすぐに土倉へ向かった。自分が入った後はまたその戸をぴったりと閉めてしまう。

 再び柔らかくなりかけていた死体の右腕を手探りに鉈で切り落とし、指先からかぶりつく。ほかの動物の肉と違って、火で炙ったり煮たりすることはほとんど無い。というのも、ほかと違って人肉というものは水分で全く歯が立たないほど固くなる。一度試してみたことはあるが、調理すればするだけ味も悪くなるのが不思議であった。

 子供の腕をがっつきながら、男は妙な高揚感を覚えていた。

 すずの腕を。

 男は、細い目をぎらつかせながら足下の子供を見下ろす。

 すずの腕も。

 意味もない言葉が、それでいて明確な衝動を併せ持つたちの悪い言葉がぐるぐると頭の中を回る。

 肉を咽下する、彼は、そこで、ようやく我に返る。あるはずのない光が足下にある。口元を拭いながら振り返ると、月影を背に幼い娘が土倉の入り口に立っている。一瞬の思考停止のあと、あわてて立ち上がった男の隣をわき目もふらず歩いて通り過ぎる、少女は。

 子供の死骸と喰い散らかされた腕の破片を見下ろし、しげしげと自分の腕と比べていた。

「おなかすくの」

 すずの問いかけに、男は黙り込んで答えない。

 すずは、と少女は二の句を継ぐ。

「おいしくないの」

 そうではない、と思う。男はうろたえながらも、彼女が逃げ出しはしないかとはらはらしている。潤んだ目を見つめ、ややあって、ふうっと深いため息をついて少女の頭に手を載せた。

「そんなに小さくては、もったいなくて食えぬ。大きくなるまで待つじゃ」

 どこかほっとしたような娘の顔を見ていると、おまえが可愛くて仕方ないのだとは言い損ない、彼は仕方なくそこに腰を落ち着けて彼女を膝に抱き上げた。

 すずが眠るまでそうしていることにした。


 結局土倉に置いておいた子供を食べ終わってからも、何かが変わることはなかった。相変わらず男は昼間野菜や動物を山の中で探し、それを調理して朝晩の食事をすずと食べ、別に自分用の人間を一人さらって来ては食べる。

 時々、すずが一緒に料理をするようになった。特に芋の皮を剥かせたりするととても器用にやってのける。

 鶏に団子虫を与えては、抱えてみたりなでてみたりする少女の胸の内を男はついに知ることができなかった。

 すずは、三度季節がすぎる間に豊艶な娘になった。一番美味い頃合いだ、と男が判断するのと、自分はそれなりに美味くなったに違いないと少女が確信するようになったのは、ほぼ同時期である。

 自分を食べないか、という少女に、春は「まだ早い」と答えた。

 自分を食べないのか、と迫る少女に、夏は「秋まで待とう」と答えた。いつまでも引き下がらないのでそのとき、横腹の肉を少し削って食べた。これがまた恐ろしく上等な味であった。

 夜長、虫の声を聞きながら縁側にどっかと座った男は、柄にもなく頭を抱えていた。娘は見るだに唾が咥内に充満するほど美味そうだった。人参を顔のまえにぶら下げられて走る馬はこんな気分だろうか。男は、とにかく気が急いて、今一つの感情に食欲が妨げられている事実を自分の中に見つけた。

 あの手や足を食べられるのをどれだけ心待ちにしていたか知れない。一方で、胸に息をするのも苦しいほどの圧迫感。走って山を登ったときの比ではない。

 今度食べないのかと云われたらどうやって逃げようかと、そんなことばかり考えている。

 ぺたり、と裸足の足音。顔を上げると、心配げな少女の顔が月明かりに白く浮かんでいる。首にかけた鈴ばかりがいつまでも変わらない。相変わらず気遣いを示す言葉も知らないので、彼女は隣に座って男を見上げるばかりであった。

 細い黒髪は、まっすぐに腰まで延びていた。

「すずよ」

「……?」

「もったいなくて喰われない。おれにおまえは」

 少女には通じていないようで、やはりきょとと男を見上げるまま。

 その夜は、自分を喰わないのかと迫ってくるようなことはなかった。


 すずは、生まれて初めて見る外の景色に、胸を弾ませながら歩いていた。

 前を行く男がしっかりと自分の手を握っているので、なにが出ても怖くないという心持ちであった。晩秋の風は少し冷たいかと思ったが、慣れてみるとそうでもない。少女が一歩進むたびに、首の鈴がちりちりと鳴った。もとより彼女のための草履や下駄は無かったので、山を歩くにあたって、男は自分の草履を履かせていた。土や枯れ葉が足と履き物の間にはさまってじゃりじゃりする。

 紅葉した葉が時折落ちてくるのをせわしく見回すすずを省みて、男は少し笑ったようだった。

 川の近くになると、それまでと比べて肌寒い。ぱっと手を離されて困惑する少女に大きな岩を指して男は「少し休む」と言う。うなずいた少女に一つ握り飯を放ってやると、危なっかしい動きでどうにか受け止めた。岩を指さしたのを早々と忘れて落ち葉の地面に座った娘を眺め、男は自分も隣に並ぶように腰を下ろす。

 水の音に耳を澄ましていた少女は、肩をたたく男の指のほうを振り返り、それから示されるまま上を見る。

 小さな鳥の卵が落ちてくるところであった。

 手をのばすのも遅く、ぱしゃんと音を立てて卵が割れる。鶏の卵と同じ中身だった。男がどうしてそれを見せたがったのかは、わからなかった。

 さらに手を引かれて山道を歩く間に、右手に赤く灼けた空を見ていた。鳥居をくぐって平らな道に出たのは、もう月が明るくなってからであった。

 冷たい石畳の上を歩く。ずいぶんと扁平で重たい感じのする道であった。まっすぐに行くと、右手に大きな鈴のぶら下がった社がある。左手に、下へ続く長い階段が。男はそこで手を離し、どうだ、とすずの背中をたたいた。どう、といわれても、彼女には何がどうだなのかわからなかった。

 男は、鈴のぶら下がった社を指さす。

「神様の座すところだそうだ。神様ってのは……わからんか」

「これ」

 すずは、首もとの鈴をちりんとならしてみせる。

「おんなじ」

「そうだ、同じだ」

 男は頭をすっぽり覆っていた笠を取って、社に軽く一礼する。おれは別のところに用があるから、ここで待っていてくれと言う。少女がうなずくのを見ると、それまでにない乱暴な手つきでぐしゃりとその髪をなでた。

「おれは幸せ者だなぁ」


 男は帰ってこなかった。

 待てど。

 待てど。

 待てど。

 すずが朝まで待ちぼうけ、日の出に見入っているのを、やがてそこに掃除へ来た女が見つけた。

 たまげたのは女ばかりではない。少女のほうこそ、あの男以外の人間を見るのは初めてであった。母親さえ、生まれた時にはもうこの世にいなかったのである。

 どこから来たのかと女が問えば、すずは男と来た山のほうを指さした。

 名前はと問うても答えられないので、何と呼ばれていたかと言うと、すず、と自分の首にかかっている鈴を持ち上げて見せた。

 女は困り果てて少女の言う山のほうを見る。間違いないのかと言うと、やはり間違いない、と言う。あの山は、人喰い鬼の住む山ではないか。女は考えに考え、それからもう一度すずに向きなおった。

「おとうさんかおかあさんを待っているのかい?」

 少女は頭を振った。

「おとうさん」も「おかあさん」も意味を心得ていなかったのである。

 どんどん青くなっていく空と、女と、いつのまにかわらわら集まってくる村人たちとに気圧され、少女は一度逃げ出そうと試みた。悲しいかな、しっかりと女に腕を捕まれていて、結局逃げ出すこともかなわず、ただ交わされる意味のわからない言葉の渦に頭を抱えてうずくまる。

 大きな目に涙をいっぱいためて頭を打ち振る少女をどうするか、村人たちは皆で顔を見合わせた。

 口減らしに捨てられたのだろうか。それにしては肉付きが良い。貴族の娘にしては着物がみっともない。小一時間そうしていると、本物の貴族が訝って衛士を見に行かせる始末であった。

 誰がこの子を預かるか、という話題が出ると、この衛士が思い出したように顔を上げて皆を見回す。

「周知かもしれないが、私の仕える奥方はちょうど三年前にここで若を鬼にさらわれた。もしやこの子はその代わりに神が与えたもうたのではないか」というのである。

 民衆はほっとして互いに顔を見合わせた。全員が意見を同じくして、この衛士がすずを連れ帰ることになったらしかった。

 青年が手を伸ばすも、すずはじりじりと後ずさりする。

 訝る彼にいやいやと頭を振って、「待つの」としきりに訴えた。衛士は根気強く手を伸ばしていたが、やがて少女が泣き出すと、俄かに自分がとてもひどいことをしているような気持ちになる。

 参ったなとあたりを見回すが、人々は散り散りで、あるいは遠巻きにこちらの成り行きを見守るばかりであった。

「誰かを待っているんだね?」

 少女は、大きくうなずく。彼女が多少言葉に不自由らしいというのはそれまでのやりとりでわかっていた青年、膝を折って、すずの顔をのぞき込む。

「いつから待っているのかな」

「夜」

「そうか。では、私の仕える家で暮らしながら、毎日ここへ来るのはどうだろう」

 顔を上げた少女を促して、階段に座らせる。衛士は、自分も隣に座って、小さく息をついた。

「その人が迎えに来るかもしれないから、毎日ここに来る。迎えにきたときは、仕方ない」

「ずっと待つの。わからなきゃだめなの」

「その鈴はその人からもらったものかい」と唐突に切り出され、少女は一度彼を見上げ、それからうなずいた。

「では、それが君と、その人とのよすがだ。会えるとも、その鈴があれば、その人はきっと君を迎えにきてくれるだろう」

 彼女には、青年の言葉の半分も理解できてはいなかった。ともあれ、気分が落ち着くとまず帰り道がわからないことを思い出して、すずは仕方なく衛士の言うことに従うことにした。

 何より、別れ際の「しあわせものだなあ」が胸に残っていた。

 あの顔を向けてくれたのだから、戻ってこないはずがないのだ。


 衛士が、人喰い鬼を討ったと言って凱旋したのは、それからちょうど三年がすぎた頃である。彼とすっかり懇意になっていたすずが人喰い鬼とは何かと聞くと、衛士は喜々として持って帰ってきた首を掲げた。

 どうだ醜かろう、やはり鬼というからにはろくな姿をしていないなと自慢げに語る青年を見て、少女は青ざめたままじりじりと後ずさる。

 衛士はどうかしたのかと歩み寄ろうとするが、すずはどうにか笑って頭を振り、自室へ早足に戻った。もはや兄のように親しんだあの青年が、笑いながらに人を殺す悪鬼にしか見えなくなっていた。

 首の鈴をさわり、えぐれた横腹をさわり、文台に顔を伏せる。一日中悲痛な声を上げて泣き続けた少女は、それからふらりと姿を消した。


 天具山には人喰い鬼が住み着いていた。鬼と呼ばれても元は人間であった。どういう経緯で彼が人を喰うようになったのかは諸説あるがいずれも要領を得ない。とにかく、人喰い鬼が住み着いていて、たびたび降りてくると人を連れ去って喰らった。

 人喰い鬼には娘がいた。

 彼女が誰の為に声を張り上げて泣いたのか、周囲の人間には知る由もないことであった。

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