⑦鬼吉係長の死
俺は覚悟を決めた。やっと生きられる。その可能性を見つけたように思う。俺はスクリーンの向こう側に行き、故郷に帰る。しかしその道は決して楽な道ではないだろう。これまで経験したこともない激しい道になる。自分を飾るものはここには何もない。それを認める者もない。魚目の少年は俺の以前ではなく、俺の他でもなく、俺の今ではもちろんない。俺と歩んでいたもう一つの存在だったのだ。魚目の少年はもう現れないだろう。なぜならいつも現れているからだ。赤舌はこれからも現れるだろう。
現れなくなったら俺の存在は危険だ。しかしいつも現れる。それは分かっているのだ。俺の覚悟の問題だからだ。
ここからが難しい。なにもなければ、俺は今でも以前の現実に沈み込んで、今から見ればその世界で様々な虚構が沈殿させていた。そこの底で俺自身も沈殿物として蠢いていた。そこで終われれば、それは、あたりまえの世界だった。しかし赤舌が唯一俺に対して選ばれた言葉を使った「希なもの」だった俺は、その言葉のために、その言葉のおかげで、やっと困難に立ち向かう機会を得ることができた。
スクリーンの向こうに行き故郷に帰る。そこに俺を知るものはいるのだろうか。誰もいない。親も兄弟も幼いときに伴に過ごした仲間も誰もいない。それでも俺は故郷に帰る。そこから始めようと思っているからだ。どこから始めてもいい。大学や会社に通った東京から始めてもいい。
砂漠から始まっていると、今、目の前に現れている赤舌が言っている。でも砂漠から始めようとは思わない。ここは始める場所ではない。赤舌は自分の存在が、俺に必要なのだと言いたいのだろうが、そのことは分かっている。故郷でも、東京でも赤舌は現れるのだから砂漠は俺の始まりの場所である必要はない。
赤舌は少し不満そうだった。
おれはスクリーンに向かって歩き始める。当然、スクリーンは俺が近づけないように少し遠ざかる。予想通りなので可笑しくなるが、スクリーンの優しさが伝わって来て涙が出そうになる。
俺は少し喉が渇いてくる。喉の渇きを忘れていた。砂漠を歩いているのに渇きを知らないでいた。俺はこの現実に驚きと焦りを感じる。
時間が何時までもあるわけではない。スクリーンに追いつき、向こうに出なければならない時間が迫っているのだ。
砂に足を捕らえられながらも、足の運びを早める。太陽は、その光と熱を取り戻している。しかし急激に西に傾き始めた。砂漠は黄昏れてくる。美しい。しかし渇きは、体の疲労に染み込んでくる。
スクリーンは遠ざかっていく。夜になってもスクリーンが俺に見えるのかが不安になる。
風が出てくる。砂を巻き上げる。俺が思っていた砂漠の風景だ。寒くなってくる。
しかし、スクリーンは見えている。同じ大きさで、すなわち、俺が一歩近づけば、その距離だけスクリーンは遠のく。しかし、それはスクリーンが俺を故郷に導いているのであれば当然のことだ。
夜の静寂が押し寄せ、不安がよぎりそれが増大してくるとき、俺は赤舌に確認した。「スクリーンは故郷に向かっているのだろうか?」
赤舌は、目のない顔で、しばらく俺を見つめてから「どうしてそこまで心配するのか」と言った。
確かにその通りだ、ここからは暗くなった情景のなかで、四角く穴が開いているように見えるスクリーンではあるが、その中に魚目の少年が立っているはずなのだ。もう会うことのない魚目の少年がそこにいる。
風の消えた乾いた砂地が絨毯のように拡がり、身体を横たえると、夜空は凜とした光を放つ星と、愛らしく瞬きを繰り返す星に彩られている。顎を引き夜空と砂漠の境目に、瑠璃色のスクリーンが夜空の一角を切り取るように浮かんでいる。その中心にプラチナ色に光る星が輝いていた。
俺は寝ているのか起きているのか分からない世界の狭間に横たわり、このあまりに美しい瞬間に生きるために、夜空を見上げ続けることを終わりにする覚悟を決めた。決めた以上直ぐに起き上がる。起き上がってもこの気持ちのいい温度と世界が移っていってしまうわけではなかった。ただ俺は留まっている世界から動く世界に移って行く。
俺を讃える虚飾は全て消え、あるがままの美が俺を取り巻いていた。
息の続くまであの瑠璃色の窓に向かって走り続ける。待つことも、頼ることも、劣化する可能性に賭けることもない。
ありもしない。ありもしないことだらけだった。自分の存在をありもしない中においていた。
以前の自分が消えた中に存在するここはあまりにも美しい。俺は俺の喘ぎと飲み込む唾と、激しく動く心臓と手で掻きむしる顔と頭で俺を確認すればいいのだ。
あのスクリーンに賭ける。あの瑠璃色の窓とプラチナ色に輝く星に向かって走る続ける俺を、離さないように覚悟を決めた。
俺は走り始めた。初めてだ。誰の声も届かないところで、それを必要としない自分が走り始める。すぐに苦しくなる。苦しみが襲ってくる。これが真実なのだと思う。現実はすべて嘘だった。そんなものに頼っていたのが間違いだった。渇きはさらに激しく、飢えは呼吸を激しくさせた。
しかし、それらが全て新鮮だった。この感覚がないところで生きてきた。しかし遅くはない。今行けばいい。
赤舌が現れてそう言った。
目の前にスクリーンは見えている。確かに見えている。その中に魚目の少年もいる。
口から心臓が飛び出しそうだ。開き放しの口から涎が流れ落ちる。膝が針をさしたように痛い。倒れそうになる。思い切り吠える。倒れてなんかいられるか。しかし夜空に星は輝き続けている。音が聞こえ始める。美しい音ではない。誰かが怒鳴り始めている。かすかに怒鳴り声が聞こえてくる。目の前が翳み始める。深閑とした闇がぼやけ、星が翳んでくる。.怒鳴り声は爆音に変わり始める。爆音が俺に、俺の耳に近づいてくる。スクリーンもぼやけているがまだ見える。爆音が強烈な嵐のように俺を襲い始める。
スクリーンは間近に迫ってきた。
俺はなにも考えない。俺は耐えて、動いていくだけだ。目の前が真っ暗になる。 音が消える。スクリーンはそこにある。俺は生きているはずだ。
了
鬼吉係長の死 里岐 史紋 @yona
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