⑥ 鬼吉権現の回想
この砂漠は娑婆ではなく、おれが娑婆に戻っても赤舌はそこまで着いてくることはできないのだ。こいつらは何かわからない奴らだが、やつらにはこの砂漠は全くお似合いだし得体の知れぬ者どもは、この白と青の世界しか生息はできないようになっている。 俺はは赤舌に向かって語りかけた。
「昨日は五匹だったはずだが、あと二匹はどうした」
三匹の赤舌はその長いベロを大きく揺らしながら。俺を取り囲むように間隔をあける。
それから、三匹とも目のあたりに位置する場所に皺を寄せると。「ヒヤヒヤ」と声をだす。これがこいつらの笑い声だと思う。不快な気分になる。
「数なんて関係ないね」
ガラスを爪で掻いたような音をだす。その音が乾燥しきった砂漠の空気に反響し波紋のように俺の耳に入ってきた。
「一匹であろうが五匹であろうがなにか違いがあるのかい」
またヒヤヒヤと笑いながら、赤い舌を揺らす。
「あと二匹がいないことが心配にならないのか?」
俺の正面で揺れている赤舌の赤い舌を見つめ続けた。
「心配?なんだそれは。俺は全員で、全員は俺なんだ。一匹も三匹も五匹もない。こだわりたいなら。零匹と無限匹を一匹と考えればいいだけだ」
俺を囲んでいる三匹の赤舌の誰が話しているのか分からない。赤い舌の揺れは統一性がなく勝手に動いているし、口らしきものは壁に開いた穴にすぎない。声は空気に反響し四方から飛んでくる。
俺の四方を囲んだ三匹の赤舌の誰に向き合えばいいのだろう。
「おまえ達の誰が声を出しているのだ」
ヒヤヒヤ、ヒヤヒヤ。風が風に木霊しているようなざわめきが聞こえる。先ほどの不快感はなくなっている。風が木の葉を揺らし木の葉が舞い散る情景が浮かび上がってくる。
うねった白い砂漠に、薄いガラスような透明で茶色の枯れ葉があちらにもこちらにも舞い降りていた。
「誰も語ってやいない」
「おまえの言っていることは、すべて矛盾している。数を関係ないと言いながら、数を意識して話しているではないか。誰も語っていないと言いながら、誰かが語っているではないか」
赤舌の舌の揺れが激しくなり、身体の揺れも左右にも前後にも激しく揺れ、ヒヤヒヤの音は高音になり、耳が痛くなり気持ちが悪くなった。
「それ以上笑うな。俺は耐えられない」
「それなら可笑しなことを言うな。あんたの馬鹿さ加減に合わせているだけじゃないか。何も語ってはいない。一言も」
またひとしきりヒヤヒヤと笑う
おれは耳を押さえ前にすすむ。しかし俺と赤舌との位置は変わらずに赤舌も移動していく。
「俺を馬鹿だと言ったのは、おまえが初めてだ。おれがどのくらい優れているかをおまえは知らないだけだ」
赤舌は何も言わない。それは俺には期待外れだった。こいつらは相当にいい加減な奴らだから何か言えば俺はその矛盾をすぐに突きつけてやる。そうすれば間もなくこの風船雲のような奴らはパンと割れて、俺の目の前から消えるだろう。そんな気がする。目の上のたんこぶのように煩わしく不快な奴らだ。
「優れている。確かにそれはそうだ」
俺は目を上げると、目の前の赤舌はいなくなっていた。振り向くと、俺のうしろに四匹の赤舌が横一列に並び、身体の振動も赤い舌の揺れもそろっていて、そのためにやけに神妙に構えているように見受けられた。
「俺が優れていることを、おまえは知っていたのか」
俺は四匹のそろった動きを、クリスマスの飾りのように眺めながら言った。
赤舌は笑わなかった。もうその赤舌の動きは笑うような雰囲気を持ってはいなかった。
「知っていた。誰よりも優れている」
俺は完全に後ろを振り向き、赤舌と正対した。しかし俺が完全に後ろを向いたのか、それとも四匹の赤舌が俺の前に来たのかはよく分からなかった。砂漠の風景は刻々と変わっていった。砂の上ではいつも小さな風が吹き、所々に高さ十㎝くらいの小さな竜巻が起きていた。その風と竜巻に巻き込まれ、砂は密やかに移っていた。真っ青な空の真上に白い太陽が張り付いていた。
「俺は、生まれたときから神童と言われていた。それは生まれて間もなく、人が語ることはどんなことでもすぐに記憶が出来たし、それを応用することもできた。生まれて間もなく語ることが出来るようになり、字も読めるようになり、正確に書けるようにもなった。本は五歳から大人の読む本も読めたし、それをすぐに記憶してしまうことができた。能力について有り余っていたと言ってもいいだろう」
赤舌の動きは相変わらずそろっていて、背筋が伸びている。
「そうだ。だれよりも優秀だった。能力は有り余っていた」
俺は、ここに理解者を得たような気がした。前にも胡桃亨という男は俺を理解してはいたが、小心者であったが為にそれを口に出して言うことは出来なかった。しかし赤舌は思ったことは隠すことなく正直に語る。こいつらは恐れることを持っていないのだろう。
赤舌にも優れている面があることを俺は見いだした。こいつらの優れた面を見いだしたのは俺がはじめただったに違いない。ところでこいつらは大人なのか子供なのか。
「おまえは今何歳だ」
四匹の赤舌は初めてお互いに顔を向け合った。今回は初めて右から二番目の赤舌が語っているように見えた。声のトーンは低くなり、不快ではなくなった。
「それは、いいか。良く聞け。決めてくれ。それに従う。優秀だから何でも決められることになるのだ」
決めてやることにした。.俺は論理的でないことは苦手なのだから、論理的に解決することにした。
「おまえの生年月日を言え」
赤舌の動きが揃ってきた。四匹の舌がズルっ伸びて、それが時計の振り子のように揺れると声を合わせて言ったように聞こえた。
「明日だ!」
その返事は俺には予想が着いていた。
「それでは四十六億歳か」
「よくわかったな。前後一億年ぐらいの違いはあるが、些細なことだ」
意外とこいつらとは話しが出来るような気もしてきた。数字だって理解出来るようだ。しかしそれについては聞かないようにした。馬鹿じゃないようだ。少しはまともなことが話せる。少なくとも今日は順調な会話になっている。
「いつ死ぬつもりだ?」
俺は畳み掛けるように聞いた。
「論理的に答えが出せないのか?つまりノータリンということか?」
四匹の赤舌は、それぞれ勝手な方向に仰け反りながら、肩を上げ下げしているように見える。引きつったようなヒヤヒヤという笑い声が無数の砂に反響して耳に届く。大笑いをしているのだ。
「何が可笑しいのだ。おまえら屑に笑われる覚えはない」
「それでは、そんなくだらない質問はしない方がいい」
また、四匹の赤舌は舌を大きく揺らす。
「死なないことにきめたのだ」
「くだらない」
「生きているのは自分だ。そんなことも決められないようじゃ、家畜とたいして違いはない。と言うより家畜レベルだ」
「人間には死はやがて訪れるものだ。それだけは自分で決められるものではない。いかに優秀な俺であってもな」
赤舌はいつの間にか一匹になっていた。俺が腕を組んで足下でサラサラと流れ移動していく砂を眺めている間に三匹が見えなくなった。時間は全く動いていないかのように太陽は、まだ真上に張り付いている。
「人間に死は訪れるなどと誰が勝手に決めたのだ。おまえは少しは考えられる者かと思っていたが、惚けた人間と同じだと分かった」
「死んでない人間など一人もいない」
「いや沢山いる。おまえでさえ知っている有名人で死んでいないものの何人かは時々ここにやって来る。例えば聖徳太子も卑弥呼もプラトンやユークリッドもさらに孔子や李白も死ぬのを辞めてしまっている。おまえ達が勝手に死んだことにしてしまっているだけだ」
「狂っている。おまえ達の存在が狂っているのだから、狂った思考の根底で存在していることを俺は当然理解している」
赤舌は二匹になった。目の前で突然もう一匹が増えたわけではない。一匹から二匹に増えたわけではなく、赤舌を見る意識が一匹から二匹に移ったのだ。俺は自分の意識が操作できることは知っていたのだが、この赤舌のためにそれを使おうとは思っていなかった。しかしそれはどうでもいいことだ。この意識の制御をすれば、今の俺の状態は明確になる。
「生と死の有り様は二種類に分類されてしまいそうだが、それは違う。それは絶対領域というあの世の世界に属しているからだ。しかし、人間は仮想領域で生きていく。そここそ実態だと叫び続けている人間が、百年以内に化けの皮が剥がれると言うより腐るんだよ。単なる腐りものになるからだ」
俺はカルトやセクトや邪教に従う者ではない。なぜなら、俺の中に絶対存在があるからだ。赤舌の妄言はこの砂漠の環境で洗脳しやすい場を得て、そこで俺に勝負を掛けてきている。残念ながら赤舌は俺がどれほどの強者であるかを分かってはいない。
「いいか、俺が腐り者になるわけではない。俺の優位性は俺の死後にもある意味では影響を与える者だとは言えるだろう。仮想領域などと言う、いかにも存在を危うくさせるような言葉を用いることは、おまえの決定的な欺瞞からきているものだ」
赤舌は、くるりと向きを変えると、そのまま前に進み始める。縦に並んでいるのか、その姿は一匹になったり二匹、三匹、四匹になったりする。砂のうねりを三つほど越えたころ、前方に水溜まりがユラユラと揺れて見えてくる。小さな池のような水溜まりは蜃気楼なのか、それともオアシスなのか俺には決めかねていた。喉の渇きも、飢えもなかった。 もともと砂漠に来ようと思って来たわけではなかったので、何の荷物ももってきてはいなかったが、とくにそれで心配になるようなことはなかった。
赤舌は水溜まりにまっすぐに向かっていった。俺は腹が減ることも、喉が渇いてもいなかったので、水溜まりにそれほどの関心を持ってはいなかった。しかも赤舌がどこに向かって歩いているのかは知らなかった。その赤舌に付いて回ることの意味はなかったのだ。しかも赤舌とは会話が成立しないではないか。俺は向きを左側に変えた。太陽がやや天頂から傾き掛けていた。太陽の傾き掛けている方が西になるはずだ。それが左だった。俺は西に向かって歩いていくことに決めた。そこに辿り着くべき大地がある。俺は赤舌に気づかれないようにそっと向きを変えた。
西に傾き掛けた太陽に向かって歩けばいいのだ。指標は上空にいつも輝いている。辿り着く場所で俺を待っているものは故郷に違いない。あそこに居る者どもは俺の重要性にやっと気づきはじめたころだ。
俺ほど情けに熱い賢者はいない。故郷よ。おまえはやがてそのことを思い知ることになるだろう。俺が居たころの故郷は、平安の都のように栄えていた。美しく整った町並み、澄み渡る景色に疲れを癒やしてくれる優しい風がいつもそよいでいた。人々は柔らかく身を包んでくれる衣服をまとい、羽のように軽い帽子を被っていた。
滋養に満たされ、贅沢な味覚と香りに包まれ、美しく料理され、豪華な器に盛られた食事を、誰もが楽しむことができた
なによりも大切な心の世界は嫋やかで豊かで優しさに満ち、包容力とその知的な人間的な深さは故郷に住む皆の表情に表れていた。
それらは全て理由があった。この俺が彼の地に誕生したからだ。それで故郷は美しさで満たされた。
西にむかう。そこに故郷がある。そのために俺は砂漠に来た。この乾いた地にオアシスをもとめに来たわけではない。俺は生まれて間もなく神童だと言われてきた。俺の類い希な才能を理解する力が故郷にはあったのだ。
天才の多くは、その能力を理解されることなく大人になる。中にはその能力故に迫害されたり殺害されたりもする。もしその能力が全て生かされていたならこの世の人類の進化は大きく変わっていたのだ。
しかも多くの天才は間抜けな権力者とそれに媚びへつらうマスメディアと簡単に洗脳される民衆によって駆逐され、駆逐される前に何回も辛酸を嘗めさせられてきた。まさに今の時代は再びその暗黒の時代を迎えていると言ってもいいのである。一見華やかあり自由である都会は、その状況がまさに暗黒によってもたらされている幻影に過ぎない。
都会で狂乱乱舞するもの、人を貶めあるいは殺害し金品に群がる糞共、己の咆吼に陶酔する変態共、これほど入りやすい門はないと言うほどでかい門の扉は大きく開かれ、おまえ達に相応しい地獄に易々に入場していくことになる。三日で帰えれると思うな。十年いや百年で出られると思うな。その恐ろしい苦役は永遠に続くのだ。都会にいる限り、ここから抜け出せる手立てはどこにもない。優し顔の悪魔が寄り添い、そっとおまえを誘う。俺の門は唯一くぐれるのだと。しかし、連れられていった所でその優し顔の口は赤く大きく開きは咆吼し始める。
俺しかこの時代を見抜けるものはいない。おれは西に向かう。そこに故郷があり俺によって暗黒から救い上げられる。
おれは西に向かう。俺が捨てた故郷がある。王者が戻ってくる。以前の黄金が景色に染み渡っていくぞ。故郷にいる誰もが望んでいること。それは俺が西に向かうことだ。
太陽が翳んできた。砂嵐がやってくるのだろう。空の青に混ざった灰色が濃くなってきた。その分太陽の白が銀色に変わってくる。灰色の横長い雲が太陽の下半分を隠しながら左から右へと流れていく。
陽が傾きはじめている。光は、たとえ聞こえなくても様々な音を運び入れるが、その力が弱まると、あたりは急激に静まりかえってくる。砂が巻き上げられ視界が悪くなった。
スクリーンの様な砂塵が俺の前に現れる。俺の歩く速度に従って、俺とは等間隔で移動していく。
そのスクリーンの向こう側に陽は落ちていき、スクリーンをうしろから照らしはじめた。
俺はボンヤリと照らし出されたスクリーンに向かって歩き始める。あのスクリーンに入り込みその向こう側に出ればいいのだ。それで俺は重要な解答を得られたような気がした。
スクリーンの中心に、薄く太陽の輪郭が見られる。すなわちここからスクリーンの中心に向かって歩いて行けば、西に向かって歩くことになる。スクリーンの向こうに出られれば故郷は見えてくることになる。この世界は俺にいつも希望を輝かせる。 選ばれた者、そのような運命のもとに生まれてきた者には、いくつかの困難は立ちはだかったとしてもそれを乗り越えて最後には燦めく栄光へと導かれる者となるのだ。それは自然界を支配している物理的な摂理そのものだ。青空はそのままで美しく、星空は夜空を飾る宝石、穏やかな海の波は心を休め、遙かに眺める山の頂は希望をもたらし、そして俺は栄光への道を歩く。全て道理だ。自然だ。あるがままだ。無用に争うこともなく、恨むこともなく、怨念に歯ぎしりすることもなく、持てる者はそのままで豊かであればいい。
俺はスクリーンに向かって歩き始めた。ためらうものは何もなかった。赤舌は俺の道を誤らせようと出てきた、一つの障壁だった。それは摩擦なのだ。前に歩くために現れてくる一つの現象だ。その摩擦の力に従ってしまえば、その場で朽ち果ててしまう。俺は難無くそれを切り抜けた。しかし摩擦は前に進んで行くためには必要な現象なのだ。赤舌がいたからこそ、それをねじ伏せる俺の理論が現出してきた。つまり俺の前にスクリーンが現れたのだ。
無用な摩擦は、すなわち赤舌は俺から離れて行った。
俺はスクリーンに向かって歩き始めている。しかしスクリーンは俺が一歩近づくと、その距離だけさらに向こうへ移動する。しかしそれも当然のことだ。このスクリーンの向こうにすぐに故郷が出現するはずはない。
ここで俺は想像する。もちろん理論に基づいてだ。この間隔は当分縮まらないのだ。すなわち、スクリーンの向こうに即故郷が出現するはずはないからだ。
従って故郷の現れ方はこのようになる。俺がスクリーンに向かって歩き始め続けるとやがて風景が少しずつ変わってくる。今は砂粒しかないこの地に少し緑が現れる。それは乾燥した大地で生き抜ける極めて小さいサボテンの様なもの。しかしその地下茎は大木にも匹敵するものに違いない。そこまで歩けばもう明らかに栄光は現実味を帯びてくる。やがて岩が表れる。直径が三メートルほどの小さい岩だ。俺はその岩に近づく、岩の背丈は俺の胸のあたりまである。
俺は岩の縁に手を掛け、つま先立ちその岩の天辺を覗き込む。予想通りそこに直径一メートルほどの穴が開いている。そのころには、所々に小石が散見できるようになっていたので、ポケットに入れたその一つを出し、穴に放り込む。しばらく時間が掛かる。けっして直ぐではない。やがて、とても煌びやかな鈴音のような水音が静寂なこの耳元に届く。
俺はやはりと思う。最初のオアシスが現れたのだ。しかし、その水を汲み上げる道具はないのでその水を飲むわけにはいかない。しかし、湧き出でる泉に到達するのは、そう遠くない話しだ。
俺は歩みを進める。そこから風景は著しく変化をしてくる。緑がふえていると伴に蝶が舞い始める。空には美しい鳥たちが俺を迎えるように飛ぶ。
やがて井戸や家が見え始める。屋根の煙突からは煙が立ち始めて、人々の笑い声や話し声が聞こえる。俺はすれ違う人と挨拶をする。スクリーンはその存在が薄れている。
さてここからだ、スクリーンが完全に消えてしまう前に、俺はスクリーンに走り寄りスクリーンに入り込みさらにその向こうに抜け出てしまう。
そこは故郷だ。灰色に沈み込んでいた故郷が俺が到着したその時から輝きはじめる。風景は朝の日の光を受け金色に燦めき、家々の屋根もその光を反射して輝きはじめる。そよぐ風は新鮮な新緑にその香りを漂わせ、気持ちのいい暖かさと涼しさをを含んで故郷を包み込んでいる。
いつの間にか俺は砂漠に横たわり寝ていた。目が覚めた一瞬ここがどこだか分からなかった。俺は故郷を必死に探し求めていた。だがあたりは淀んだ灰色一色だった。風景の灰色よりも少し濃い四角の灰色が、俺が目を上げた先に壁のようにあった。
「スクリーンが俺の前にある。そうか俺はまだスクリーンの手前にいるのだ」
スクリーンの向こう側から、薄暗い光が当てられる。魚の目のようなその光はやがて左右に揺れはじめる。その震幅が少しづつ大きくなっていく。光の下の方が伸びていく。
俺はまさかと思う。しかし間違いないとも思う。その光は赤みを帯びてくる。暗い赤が左右に揺れながらスクリーンの中心から左に移動する。するとスクリーンの中央に新たに魚の目のような光が現れた。赤舌が二匹スクリーンに現れた。俺は砂を右手に一掴み持つと、中央の赤舌に投げつけた。しかし、投げつけた瞬間、手元のところで砂は霧のように拡散してしまい、スクリーンまで砂の一粒も届かない。
すっかり体を現した二匹の赤舌がスクリーンの上で体を前後に揺らしながら、ヒヤヒヤと引きつった声を出し大笑いしている。俺は今度は両手に乗せるように砂を握り、スクリーンに向かって走り出す。スクリーンは不意打ちを食らったかのように、動かないために俺との間隔が一気に縮まり、その中にいる赤舌の口は横一文字になり、頬が緩くたるみ、にやけながらも恐怖に引きつった顔になる。俺は今度こそはとその顔にすり込むように右手は右の赤舌の顔に左手は左の赤舌の顔に投げつける。今度は二匹の赤舌の舌の上に上手く当たる。湿った赤い舌が砂だらけになる。俺はすかさず大笑いをする。スクリーンが暗くなると雨のような線が上から降り注ぎ、さらにその線は右から左、左から右へと走り、右と左に寄って俯いている赤舌の上に降りかかっている。すると中央に映像が映し出されていく。最初はスクリーンの真ん中に点のような印が現れると。徐々に拡がっていく。膝を抱えた半ズボンをはいた男の子がいる。俺はその子供を見つめた。手をさしのべればその子供に触れるほどに俺はスクリーンに近づいている。子供が俺を見つめる。まるで魚のような目だ。俺も子供を見つめる。感情がないのか。動揺することもなく、笑うことも泣くこともなく、口元や耳や鼻や腹の膨らみやつま先の動作に意識を向けることもない。卑屈でも驕り高ぶっているわけでもなく、何もない顔なのだ。
石の方が感情をあらわにしている。俺はそう思った。その子供が膝を抱えスクリーンの中央に座り、俺を上目遣いに見ている。俺はその少年に語りかけた。
「おまえは誰よりも優秀だったのではないか?」
少年は表情を変えず、俺の言ったことには何の興味を覚えないように、しかし聞き取りやすい声で言葉を返した。
「優秀だった。しかしそれはあなたを取り巻く者達が決めた基準によるものです」
俺は、この表情のない目を持った少年がまともに受け答えができるのだと知った。
「そいつらの思っている基準は正しい。誰もがそう思っている。すなわち普遍性があるのだ」
少年は瞬きをしないことに気がついた。この乾燥している砂漠で瞬きをしないで耐えられている少年の目の存在がわからない。
「あなたの言っていることに一貫性はありません。あなたが思っていることを僕は思っていませんでした。それがどうして普遍性に繋がるのでしょうか?」
「おまえはまだ子供だから論理をしらない。論理には普遍性がある。そして俺は慎重に論理で話す」
「いいえ僕は論理を知っています。アリストテレスの形而上学を六歳で理解したということを思い出してください」
俺は少年を見つめた。俺はもちろん少年を知っていた。しかしこのような魚の目をしていたはずはない。
「今のあなたは、僕よりも劣っているように見えます。見えるのではなく完全に劣っています。僕は僕の現実を冷ややかに見なければなりません。しかしそれは普通のことであって、大人になり皆、劣化します。しかも内心、自分は成長した思う大人ほど醜く劣化しています。僕の親も含めて僕の周りは、僕そのものを見るわけではなく、性能と機能の早熟のみに浮き上がっていたぼくを自分の装飾品の一つとして、自分の誇りにしていました。ぼくは、しかしそこに一つの楽な道を発見していました。努力は僕にとって苦痛ではありませんでした。努力は成果を得るものであって挫折と無縁な世界だったからです」
俺には何の疑問もなかった。過去は美しく着飾り、栄光に包まれていたからだ。
「俺はおまえの気持ちがよくわかる。俺は何一つ忘れてはいないからだ。おまえの優れた能力は誰からも賞賛されていたし、賞賛されるだけの価値があることを誰よりも自分がよく知っていた」
少年は、スクリーンの中を3Dの映像のように膝を抱えたままやや斜めに後ろを向くように移動する。
「あなたは、大切なことを忘れてしまっている。僕は自分が優れている人間だとは本当は思っていませんでした。しかし僕の周囲にいる人間は僕が優秀な人間であるように、僕に思い込ませたかったようです。理由は簡単なことでした。僕は誰よりもはやく文字を理解し、算数や数学の問いに解が出せたからでした。そのことはいろいろなことに派生し、すなわち学力は目立ったものになりました。しかし、それらは僕の生き方のレベルを上げることではありませんでした。今のあなたを見てそれを痛感します。ここで大切ことを言っておかなければなりません。あなたが僕の未来の姿であれば、僕はあなたと同時代を生きています。ただしスクリーンの中が僕の生活空間であり、僕の存在はあなたの四十年前になるのです」
俺はその意味を考えていた。こいつは俺の過去ではない。すなわち俺ではない。第一目が変ではないか。これは魚の目だ。感覚がない。そこに感情もみあたらない。
「僕はあなたですよ。今あなたが思ったことはそのまま僕のの領域になる。あなたが何を思い感じても、考えても、私の領域になり拡大し、堕落することになる。しかもあなたは、鏡で毎日自分の目を見ていたはずだ。ぼくはいつもこの目をしている。あなたの目もこの目をしている。魚の目を。でもあなたは自分で鏡を見たときは、本当の自分の目を見られないでいる。あなたはやっと自分の目が見られるようになったのです」
俺がこのような目をしていたのではあれば、誰かがそのことを指摘したはずだ。特に会社で俺のことを尊敬していた、胡桃亨と言う部下は入社したての若造だったが、物怖じせずに何でも俺に言った。あいつだったら俺の目が魚目であったことを言ったに違いない。
少年が膝を抱えたままぐるりと回り、俺の正面を向いた。
「僕は胡桃亨と言うあなたの部下を知らないので、その事情は分かりません。しかし胡桃亨と言う人はあなたが思っているほどあなたを見ていなかったのか、その魚目を知っていたけれど言わなかったのですよ」
こいつは俺のことを知らない。俺の気持ちを共有しているようなことを言っているが、自己中心の考えしかできないだけだ。
少年は大きく首を振った。おかっぱの髪の毛がヘリコプターの羽のように右、左と回転した
「僕はあなたですよ」
「それでは、なぜ俺を尊敬している胡桃亨を知らないのだ。やはり、おまえは俺のすぐれた子供時代の子供ではない。俺の子供時代の子供に化けた妖怪だ」
俺は危険な状態に入ったと思った。自分の正体をばれてしまったと思った妖怪は何をしでかしてくるか分からないからだ。
「僕は、胡桃亨のことは、よく見えてはきません。それは胡桃亨は、あなたが思うほどあなたのことを思っていないからです。ぜんぜん思っていません。しかし嫌がってもいないようです。嫌がっているようであれば、僕には見えてくるのです。あなたを嫌っている者は沢山います。そのものどもは、僕には、晴れた日に目の前を漂う埃のように、いらいらするほど見えてきます」
仮にこいつが子供のころの俺に化けた妖怪だとしても、その後の俺に化けることはできていない。すなわち、そこにこいつの弱点があり、俺にやっかんでいるところがある。
「あなたは、どうして分かろうとしないのでしょう。あなたが、声を出して語ろうが、心で思おうが、それは僕にとって同じことです。僕はあなたなのですから。ここにはあなたすなわち僕しかいないのです」
「妖怪のおまえはの能力は優れたものではない。その決定的一つが論理が壊滅していることだ。簡単に言えば筋が合わない。つじつまが合わない。その一つを言ってやろう。明確に答えてみろ。おまえは俺であると言って、俺が思っていることもおまえは分かると言っているが、もしそれがそうならば、おまえの思っていることも俺がすべて分かると言うことだ。そうなればおまえの妖怪としての本性も俺に筒抜けになっていなければならない。どうだ」
「僕は思うことも、声に出すこともありません。僕はスクリーンなのです。もう一度言います。僕はあなたなのです」
そこで、こいつは黙り込んだ。もうこいつは、俺に逆らえなくなったのだ。痛いところを突かれたと思っているのだろう。俺の過去だが、以前ではないと言った少年は、膝を抱え込んだまま俺と正対し、うつむき、それから顔をあげ、魚目を俺の正面に晒した。これはおまえが描いた落書きなのだと言ったような気がした。
「僕はあなたの独り言です」
少年はまた顔を俯せると、置物のように動かなくなった。その後ろから一匹の赤舌が現れた。
「やっと気がついたようだね。しかしまだ完全じゃない。少し気がつき始めたと言ったほうが当たってるね」
一匹になった赤舌がヒヤヒヤと風のように笑い続けている。
「ずっと知っていたんだよ、自分のことを。知らない素振りをしていたんだね。おまえは、おまえという役をつくって演技をして生きてきた」
赤舌は、その顔から皺が消えて、つるんとした顔になった。
横に開かれた口から垂れ下がっている一メートルほどに伸びた舌は時計の振り子のように規則正しく動き続けている。規則正しく動いている舌は、止まっているように見える。静寂をより静寂にする音のように、静止をより確たる深閑に留まらせる。
砂が舞い上がり、薄いレースのようになり、俺と赤舌の顔の下を横に流れていく。
俺は気がついた。俺は赤舌と向き合っている。赤舌が俺の前に居ることに気がついたのは何時なのか。分からない。砂漠を歩き始めたときからか? それ以前から俺は赤舌を知っているような気がしてきた。赤舌はいつから俺にまとわりつきはじめたのだ。
「おまえが、自分を意識しはじめたとき、おまえ以外の多くのものは錯乱をしていた。錯乱をしたものの状況からは、おまえは幸運な誕生と見られたが、それは錯乱をした世界の奇妙な話だ。しかし錯乱をした自分を知ることはない。しかしおまえだけは錯乱をしなかった」
俺は赤舌が俺のことが分かっているような気がする。俺のことが分かっているのは赤舌なのかもしれない。胡桃亨が俺のことが分かっているように思っていたが、実は何もわかっていない。
俺のことを唯一分かっているのが赤舌だとしたら、赤舌のこの奇妙な存在はいったい何の意味を持つのだ。
「最後におまえは気づきはじめている。そのまま進めばいい。このスクリーンがおまえに見えたことは、おまえには可能性が表れた」
俺は赤舌の言いたいことがよく分からなくなった。なぜ分からなくなったのかその理由は分かっているのだ。分かるということが、俺の頭で鮮明になってきた。分かるという意味がこれまでの経験とは全く違う意味で理解できてくる。すなわち分かるとは、はじまりを示唆することでもあるはずなのに、赤舌は俺に終わりを告げている。
「俺は終わることはない」
「そうだ、おまえに終わることはなくなってきた」
「俺に終わりのサインが示されている」
「おまえに終わりのサインが示された」
「俺はおわるつもりはない」
「おまえは終わる必要はない」
「俺は先にいく。さらに先にいく」
「おまえは進んで行く」
「俺が進んで行く先に終わりがある。しかも間もなく」
「おまえが進んで行く先におわりはない。永遠に」
「……」
「さあ行こう」
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