柒 世は並べて事も無し
柒ノ一、幻影
苔生す深い古堀沿いに、連なる白壁、
長々とめぐらした土塀の向こうから、枝の瘤も勇壮な老松がひときわ青くさしかける。
組屋敷の門前に座り込んで
首筋を撫でる風はヒヤリと寒く。つい、訳もなしに早足となり、逃げるように走ってみれば。
人の陽気までもが風に吸われ、失せるようで、ことさらにうらさびしく。
ゆるやかに流れ落つ水音なども、ともすればくすくす、ひそひそ、笑いさざめく耳打ちのよう。
そこは辻坂、百語堂。この世とあの世を行き違い、逝きつ戻りつ、別れゆく。
太陽さんさん、これでもかとばかりに雑草やら鉢植えやらがいっぱいに蔓延る庭一面。
「ににんがし、にさんがろく、にしがはち……はい!」
「ににんがし! にちゃんがろく! ちにがぱち!」
「違う!」
よく通る綺乃の声に加え、九九を暗唱する子供たちの笑い声が響き渡っている。
干しも干したり、おむつに濡れ布団に洗い張りのつくろいものに貼りかけの古傘と、吹き抜ける風もさぞやめまぐるしかろうにぎにぎしさだ。
軒先に吊したぎやまんの風鈴が、からころとすずやかに──
鳴ったような気がして。
「綺乃さん」
半分開いたままの板戸に駆け寄った。引き開ける。
幻影が消え失せた。
薄暗い道場には、人っ子ひとりいない。つい昨日まで、あんなにどたばたと騒々しかったのに。
今や、子どもたちの姿はどこにもなく。
しん、として。
静まり返っている。
兵之進は、呆然と道場の中央に腰を下ろした。壊された板塀と、泥だらけの入り側の縁。横倒しの石灯籠に押しつぶされた犬小屋。
床の間には、土に汚れた錆刀。そのまま
庭にふりそそぐ初夏の日差しだけが、昨日と変わらない。
刀を掛け直す気にもなれず。他に何も手につかず。ただ、うすぼんやりと庭を眺める。
一磨とお蘭は、およねたち三姉妹を家へと送りに行って、まだ戻ってこない。恋町は事の次第を報告しに行くと言って出かけてしまった。道場がこんなありさまでは、習い事にくる子どもたちもいない。
百語堂に戻りさえすれば。
何もかもが元どおりになるとばかり思っていたのに。
気が付けばまた、頬が濡れている。兵之進は鼻をすすりあげ、手拭いで何度も目をこすった。
たった一人で取り残されて。これからどうしたらいいのか、このあと、何を、どうすればいいのか。全然、思いもつかない。
黙って、呆けて、座ったまま。ずっと、泣きはらして。
どれだけの時間が過ぎただろう。白い子猫がいつの間にか、傍らに座っていた。身を寄せる。
「おいで」
手を伸ばす。指で喉をくすぐってやると、子猫はにゃん、と小さく鳴いた。眼を閉じて、撫でられるに任せる。
「そう言えば、手まり直してあげるって約束したっけな」
兵之進は立ち上がって棚をゴソゴソとかき回した。代わりの材料になりそうなものを選り出す。使い古しの半紙。タコ糸。錆びた鈴。
「とりあえず、こんなのしかないけど」
鈴をつめた半紙をぎゅっとまるく押しかためて、上から糸をかがって巻いてゆく。できあがったものをためつすがめつ見て、兵之進は苦笑いした。
「ふるほね屋が聞いて呆れる出来栄えだ」
白い子猫は、タコ糸の手まりを追いかけて遊び始めた。ちりん、ちりん、音の鳴る方へ。転がしては追いかけ、飛びつき、前足で抱え込んでゴロゴロと喉を鳴らす。
「手まり楽しい? そっか、嬉しいか、よかったな」
声をかける。
子猫は、にゃあ、と答えた。仰向けに手まりを抱き、後ろ足で蹴って、まるで玉乗りしているみたいだ。桃色の肉球がぷにぷにと可愛らしい。
その姿がなぜか、じわっと水を掛けたように滲んだ。目頭が熱い。
濡れてゆがんだ景色を見たくなくて、膝を抱え、顔をうずめた。肩が震える。
昨日までの日常は。
妖刀に喰われてしまった。邪悪なものも、大切なものも、何もかもぜんぶ。
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