陸ノ十三、こればかりは、あんた以外の誰にも任せられねえんだよ
かざした妖刀、《光月》は、今や狂剣の本性を隠そうともしなかった。飢えた牙を剥き出し、噛み鳴らして、獲物の喉笛に喰らいつく瞬間を待ち受けている。
殺気の伝い走る鋩子先にギラリと光芒が爆ぜた。青白い妖輝の渦が霊気の煙を引く。
「手を離してェェェ! 殺さないでェェェ! 鬼乃を殺したら綺乃も死んじゃうんだよォーーッ!?」
「もとより承知」
「そんなヒドいヤメデェェェぐボォ!」
ヌタヌタとぬめる蝋人形めいた顔を、白手甲をつけた人外の手で鷲掴みにする。
爪が顔にめり込んだ。容赦なく押し潰す。指と指の間から、グチャリと水っぽい粘土が染み出した。
ヒトガタは崩れた顔をごまかそうとして、必死に両手で顔かたちを整え、押し直す。
「ホラ、見テ! ワタシ、鬼乃チャンヨ!? アナタのイモウ……ゴベェッ!!」
「往生際が悪い」
ぐしゃり。熟れた果物のように、さらにつぶれる。偽りの黒い涙がボタボタと垂れ落ちた。
払暁の空が、音もなくしらじらと、夜明けの赤みを増してゆく。
どこまでもずっと続いて、雲一つない。美しかった。
「時間だ。とっととやれ、霞処」
振り返らず、あごだけをしゃくって、低い声で脅す。
ヒトガタを捕らえた手が、うっすらと乳白色に透けている。
消え入る寸前の灯火のようだった。
「できるかアホンダラ! 一生、
恋町は顔をそむけた。口をへの字に曲げ、意固地に吐き捨てる。
白衣の周囲に、粉雪を思わせる微光がはらはらと舞い落ちた。霧の小雨のように降りしきる。
「こればかりは、あんた以外の誰にも任せられねえんだよ」
「だからって、何でまた俺が!」
いつもだらしなくふざけてばかりいた恋町の顔は、奇妙なほど引きつっていた。ずっと酔いどれの仮面に隠されて見えなかった本当の表情だ。嵐に打たれずぶ濡れになった獣みたいになって、歯を食いしばっている。
「断る!」
振り絞るように吐き捨てる。
「じゃ、言い方を変えてやる」
白衣の鬼は、ニッと口元をほころばせた。とがった牙がやけに白くのぞく。
「綺乃を、頼む」
明け六つの、最後の鐘が鳴り始める。
遠い、遠い、か細い音。胸がつぶれそうなほど震える音だった。
白衣の鬼は、紫電ひらめく光刃を振り落とした。
「……《
ヒトガタに重ねた自分自身の白手甲ごと。
一撃で刎ねる。
虚の双眸に、妖刀が今まで喰らってきた無数の鬼の顔が映った。
金切り声、唸り声、嘲笑う声、這いずり出ようとする手、積み重なり折り重なり、互いに押しつぶしながらのたうつ屍鬼の顔。顔、顔。噛み合わせ歯軋りする牙が、轟音ととともに噴出した。
「ヤメロやめろヤメロ来るなァァァァァァ……!!」
ヒトガタめがけて雪崩れ込む。
「
「
白手甲の手。ヒトガタを掴んだまま放さぬ手。鬼と化した自らの手、もろとも。
妖刀が、ヒトガタを
絶叫を、断ち割る。
「この、クッソまみれのド外道が!! あとで腹かっさばいて詫びろアホンダラーッ!」
恋町が怒鳴った。《
綺乃の写し絵が、音を立てて真っ二つに斬り破られた。甲高い音が響く。
力を喪った式神の絵が、ただの紙吹雪に戻って無残に散った。白く、雪のように、降りしきり。
視界を覆い尽くす。
明け六つの鐘が鳴り終わる。
ヒトガタが、青い血をひと筋、口横から引いて笑った。魂のない蝋人形の顔に、一瞬だけ懐かしい笑顔が戻ったような。かつての面影が戻ったような。
そんな気がした、刹那。
長く引き伸ばされてゆがんだヒトガタもろとも、すべてが螺旋を描いて妖刀の顎門に吸い込まれる。
「兄様……?」
何かが身体の中を通り抜けた。
ふい、と、すべてが入れ替わる。
幻の蛍がいっせいに飛び立った。
透き通る色彩の破片が吸い寄せられ、きらめき、さざめき満ちて、命となって戻ってくる。
髪も、眼も、元どおりの黒。血まで透けそうな月の色をした肌も、血色のある人の色へと変わる。
白衣の鬼は消失し。
後に残されたのは、茫然と立ち尽くす元どおりの兵之進の姿だけだった。
最後に残っていた絢爛の蛍火が、名残惜しげに回る雪洞のようにゆらゆらと飛び交い、巡って、ふっ、と消える。
兵之進は妖刀を取り落とした。空虚な音が響いた。赤茶けて錆びた刀身には、異形の片鱗も何もない。妖気の痕跡も残されていなかった。サビサビのボロ刀、《古骨》に戻っている。もはや何の
ただの刀。古い、使い物にならない錆び刀となって、ガラリと転がる。
「……兄様……どこ……?」
昼間の兵之進の姿に戻った綺乃は、傷ひとつない両の手のひらを見下ろした。返事はない。
唖然と立ちつくす。倒したはずのヒトガタを眼で探し。
やにわに茶筅髪を乱し、背後を振り返る。
いない。
どこにも。
いない。
明け初めてゆく東の空に、黎明の光点が生まれる。
「嘘だ、兄様……兄様、どうして……何で!」
綺乃はその場に突っ伏した。ヒトガタの消えた地面を叩き、《古骨光月》ごと、灰混じりの土を掴む。大粒のしずくがぽろぽろと土に散った。
「兄様の……馬鹿、嘘つき……!」
噛み殺した嗚咽が、朝焼けの光に吸い込まれて消える。
来光が、地平の横一線に融け広がった。
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