陸ノ十一、だから、どうか、兄様の手で。ひと思いに……僕を
もうすぐ夜が明ける。
兄と妹が夜ごと入れ替わるのは、妖刀が長年喰らい続けてきた鬼の怨念が、綺乃に再び取り憑こうとするのを防ぐためだと。
暮れ六つの禁は、妖刀から逆流する鬼の血に飲み込まれぬようにするためだと。
ずっと。
嘘をついてきた。
月の下で刀を抜けば、いずれ、血を喰らう羅刹となる──祖父が言い遺した言葉は、半分正しく、半分は間違っている。
外道に堕ちれば、斬る──恋町の言葉もまた、半分正しく、半分は嘘だ。
妖刀は、鬼を斬る刀ではない。人を外道に誘う刀だ。中には刀の鬼が棲んでいる。その禍々しいまでに人知を超えた忌むべき
まやかしの正義を。容赦ない断罪の力を、身に余る傲慢をやすやすと与えて。
普通の刀では満足できない斬れ味を教える。
それはもはや、力の快楽に等しい。
斬れば斬るほど、手にしっくりと馴染む。吸い付くような、離れがたい誘惑となる。もはや、通常の刀では物足りない。あの、震いあがるような斬れ味。あの、何もかも押し流すに似た狂乱の媚薬には。
抗えない。
やがて、恍惚の血飛沫なまめく誘いに身を任せるようになる。
みだらな劣情をもよおすがまま殺戮に溺れるようになる。
血を浴び、肉を喰らい、欲望をむさぼり。
外道に狂うは鬼の末路と誰もが知りながら。
鬼の力を、片時も手放せぬようになって。
最期には。
「綺乃」
夜明け前。明け六つの気配が、東の空の縁を暗赤から薄紅へ、透きとおる白桃の色へと、うっすら塗りかえてゆく。死者の月が沈み、今まで目には見えなかった惑いの明星が、導きの星となって空にかかる。
どこかで、明け六つの鐘が鳴っていた。現世の音が、あの世にまで聞こえているのだ。
朝焼けを闇に切り取る奇岩の影が、日時計の針のようにゆっくりと巡り始める。
夜が明けるまで、あと幾ばくもない。黄泉平坂を登り、死人の岩戸を塞ぎ、三途の虹橋を逆に渡って、生きとし生けるものたちを元の世界へと返してやらねばならない。逢魔時にせつなくもはかなく重なり合う過去と未来、その一瞬に。
「さらばだ」
ヒトガタを斬れば、すべてが終わる。生まれてこのかた、ずっと綺乃に取り憑いて苦しめてきた刀の鬼も、ともに消える。
(はい、兄様)
綺乃のかすれ声が聞こえた。
(どうか、兄様の手で、すべてを終わらせてくださいませ)
ぎごちなくしか動かない手を結び合わせ、覚悟の眼を閉じる。
(これが、僕の運命なのだと……分かっておりました。兄様には、兄様らしい、兄様にふさわしい自由な生き方を、本当なら選んでいただきたかった。僕のせいで、兄様にご迷惑をかけ続けて、こんなことにまでなって)
全身を襲う痛みをこらえ、絵の中の綺乃は、苦しい息に想いを重ねる。
(もう、これ以上、兄様には、そんなもどかしい思いをして欲しくない)
結び合わせていた手をほどき、差し伸べる。白い蛍火が、ふわり、ゆらり。祈りを届けるかのように舞った。
(だから、どうか、兄様の手で。ひと思いに……僕を、殺してください)
「そっそっそれはイカンでござる遺憾でござる! おい兵之進! 待て待てきっと何か、まだ探せば助かる方法があるはずでござる!」
顔にカマボコ板を貼り付けた珍妙な出で立ちの一磨が叫んでいた。
「ピヨ、ポンパポポ、ピピャパペエ……ピヤパヨ……」
小さなあやかしが、人のために泣いている。その小さな胸を痛める優しさを、猫のあやかしが強く抱きしめる。
「コラァーー御桜兵之進ーーッ! 我が恋の宿敵、御桜綺乃を泣かせるとはそれでも武士の端くれかーーっ! 許さんぞーーーッ!」
敵だか何だか分からない難癖の付け方は、いかにも雲隠れのお蘭らしい口ぶりだ。
恋町だけが、何も言わなかった。口許が、かすかにわななく。
白衣の鬼は編み笠の下で笑った。やはり腐っても
「どいつもこいつも必死かよ。まったく」
小さく笑って、深呼吸する。朝の空気が、肺の奥の奥までしっとりと染み入る。洗われるようだった。
自分の知らない間に、いつの間にか。
病に伏せってばかりで、身体も気持ちもふさぎがちだった綺乃に。
ひとりでは、何もできないとばかり思っていた綺乃に。
いつの間に、こんな心強い仲間ができていたのだろう。
たぶん、これが、きっと。
絆というものなのだろう。
かつての兵之進には分からなかったものだった。綺乃の身を案じ、ただひたすら悩み、一人で背負い、思い詰めるあまり、秀清の口車に乗りあやかしを狩り、その血を綺乃に飲ませて厄災を育ててしまった。一族に伝わる鬼の血を呼び覚ましてしまった。こんなにも強い仲間の想いに、気付けなかった。
「ひとりで泣くな。皆と笑え」
誰も信じられなかった自分とは違って、今の綺乃には、力になってくれる仲間がいる。
誰よりも強い友情と信頼の絆を、綺乃自身が紡いできたのだ。これに何の心配があるだろうか。
「良い仲間を持ったな、綺乃」
誰にも聞こえないよう、小さく。
つぶやく。
「これでもう、何も心残すことはない」
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