陸ノ八、白衣
視野の外から、ふいに。一陣の太刀風が吹いた。石琴の澄んだ音が、凛、と響く。
なめらかに鞘走る鋼の音が、右上から左下へ白線の残像を引く。
綺乃の写し絵に絡みついていた舌が、削ぎ切った断面もあらわにボトリと落ちた。火が消え、ただの実体となった塊が転がる。
一拍遅れて、弓弦を打つにも似た衝撃が空を振るわした。
「あえ? あえ? あんえ? えろああいお? おお?」
火車の妖女は、手で口を押さえ、地面に落ちた舌のありかを探した。舌足らずで何を言っているのかわからない。
いつの間にか。
無数の鬼火が群れていた。
しんしんと雪火が降り落つなか、何処からともなく聞こえる拍子木の打ち合わすに乗せ、流水の渦を描き、光の密度を増し、揺らめいて。
雪と氷と火が、一瞬で人の形へと凝集した。
闇を破る光が刃の形に吸い寄せられる。青く光る月の、なお白き骨にも似て。煌々と冴え渡る。
剣舞とも神楽ともつかぬ足さばきで、スウと降り立つ。
桜の花の散るように。蝙蝠が闇に飛ぶように。
雲母のように、色彩の破片が、はらりはらりとこぼれて落ちる。
白い編み笠を目深に伏せて、未だ顔は見えぬ。
括り
腰に結び下げた
手にした刃に、あやかしの燐光が映り込んだ。白気たなびく蝋塗りの拵えが照る。
妖刀に依り憑いた荒人神の鬼眼が灯る。ギラリと。赤く。
「あいうんおあァァァァァァァ!!!! あええあいああいおあッーーーーーーーーッッ!!!」
火車が吠えた。炎の手足を、めったやたらに振り回す。白衣の鬼は、白手甲の手で火の粉を払った。
「おっ? マジで熱くないな。さすがは
「あんええええええええ!!」
火車は猛然と逆回転を始めた。地面を削り、煙を掻き立てて、横滑りし始める。
ゴツゴツとした骨太い手足が、十本いっせいに生えた。もはや手とガニ股の脚との区別もなく、じたばたと地面を踏み鳴らす。
「いあいああいあおおオオオオオオオオーーッ!!!」
あやかしの咆哮が長々と空に伸びる。
「さてと。どれほどのものか試してみるか。おい、綺乃を頼む」
白衣の鬼は、空を舞う写し絵を引っ掴み、背後へと放り投げた。
「パパペペ!」
ぴょこん、と。恋町のお腹の上から、おくねと猫娘が顔を出した。凧揚げの要領で、飛ばした糸に綺乃の絵を絡め、くるくると巻き取って引き戻す。
(えっ……あれ…‥?)
綺乃は、伏せていた顔をあげた。
(僕、死んでない……何で?)
(ピヨ!)
おくねが写し絵を覗き込んだ。
(おくねちゃん! 無事だったんだね。みんなは)
綺乃は声をうわずらせた。息を胸いっぱいに大きく吸い込む。おくねは、ニッコリ笑って背後を指差した。
「おーい! みんな無事でござるかーーー!?」
「約一名、死にかけて転がってるのがいるようでござりまする」
「何ぃっ! さっそく助太刀いたすでござァーー痛ああ!!」
「あっ…かずま…コケた…」
「一磨さま、何も見えてないんだから無理するなでござりまする」
「ピヨ、パイピョウプ! ポイパピ、パイペン!」
そこには、仲間たちの姿があった。
綺乃は、思わずしゃくり上げ、笑った。じわりと熱い目元を拭って、何度もうなずく。
白衣の鬼は、編み笠の下の口元を柔らかくゆるめた。即座に地面を蹴る。
さながら象の足が降ってくるかのような連続踏みつけ攻撃を、ジグザグに避けて突っ走る。地響きで四方の岩が浮き上がった。
目の前の股ぐらをかいくぐる。
振り返りざま、ふくらはぎを真っ二つに斬りひらいた。バッと血花が咲く。
斬り落とした巨足のくるぶしを、直に、手で掴んだ。遥か遠方へ投げ捨てる。
「まずは一本」
火車が斜めに傾いだ。残る手足は九本。白衣の鬼は背後を見もせず、訊ねた。
「霞処、今
沈みゆく月を見上げる。今にも地表に触れてしまいそうだ。
夜が明ければ、全員が帰れなくなる。
恋町は、長い末期の息を吐いた。東の空はますます白く、あかい。どこかで鶏が鳴いた。時を刻む音が聞こえる。
「……俺が死ぬまで、あと半刻かな……」
「死ぬまで起きとけ! 寝るな!」
「無茶言うなって……もうだめだ……ああ何だか眠いん……」
「コケコッコー! コッコッコーコーケコッコーーーー!!」
「うるせえッ!」
「あえあええェェェェェェェアアア!!」
真っ赤な唇が裏返り、赤紫にぬめる長い歯茎を剥き出した。
粘液の泡立つ音とともに、疱疹にまみれた女の顔をデロデロデロデロと吐き出し始める。
女の顔がついた長いはらわたが、ニコニコ這いずり寄った。まさに混沌。
白衣の鬼が口の端を吊り上げる。
「サイアクの絵面だな」
迫る臓物のヒトガタを、右に左にと斬り崩す。飛びすさっては向きを違え、刃を返して、背後から回り込もうとするはらわたを討ち落とす。
かたっぱしから縦横に薙ぎ立て、刎ね散らばらせる。
斬り捨てた内臓の破片が、ヌラヌラとよじれ返った。
「えええええええっしゃんおおお!!」
頭上から、炎を引きずる巨大な足が落下した。
とっさに横へまろび避ける。
両側から強烈な平手がたたみ掛けた。連続の挟み撃ち。空気が圧迫される。
逃げ遅れたのろまなヒトガタが、手と手の間で破裂した。
汚物がニュルリと指と指の間からはみ出た。
くっついたままの両手の肘から先を、まとめて一刀のもとに落とした。食い込む骨ごと、斬り下げる。
「ふたつ、みっつ」
炎が噴出した。血の雨となって降る。
白衣の鬼は、刃にこびりついた血を振り落とした。白く息を吐く。飛沫が打ち水となって扇型に広がった。
「このヤロウ……てめえ……戻ってくるのが遅ッせェんだよ……どこで油売ってやがった……」
恋町は、白衣の背中に向けて、かすれた笑いをこぼした。長い息をつく。
「おおかた、こっちが先に化けて出るとこだったわ……」
「まだ喋れるとか、思ったより元気そうで良かったな」
白衣の鬼は振り返らない。
「阿呆か! さっきまで死んでたわ! あいたた! 何でこんなに遅くなった」
鬼にむかい、首だけを浮かして怒鳴る。とたん、恋町は痛みに悶絶した。
火車の蹴立てる火勢が、わずかに弱まる。その
人の形を失いかけた
白衣の鬼は、編み笠の下の表情をあからさまにしかめた。
「何でって、そりゃ」
編み笠を押し上げた。見慣れた兵之進の顔立ちがのぞく。
「初めてまともに死んだからな。帰り道で迷子になった」
悪びれず、堂々と開き直った。
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