陸ノ六、ただ、ただ。叫び、泣き、願い、求め。

「ムッキィィィィィィィおのれ妖刀使いどもがァァァーー! さっさとちねッちねッちねェェェ!」

 火車は、歯軋りめいた絶叫をあげた。何本もの炎が、爪の生えた鬼の手、鬼の大足となって車輪からのたうち生える。

 回転する足の裏が、連続して恋町の頭上に降った。ちぢれ毛の生えた筋肉質の裸足が眼前に迫る。


「バケモノの分際で、人様を虫けらみてェに踏みつけんじゃ……ッ!」

 黒い霧の結界が、一撃で踏み破られた。

 炎の足が地団駄を踏む。何度も。何度も、踏みにじる。腹を蹴り、顔を砕き、足を踏み潰す。捻じ切る。

 恋町の身体がありえない形に折れ曲がって吹っ飛んだ。もんどりうって転がる。

 濡れた音が飛び散った。原型を留めぬ墨の海が、大筆の一文字となって、ベットリと地面にかすれつく。


(……恋町さん……!)

 綺乃は漆黒の壁を何度も拳で叩いた。涙声を詰まらせ、かぶりを振る。

(恋町さん! もういいです、僕をここから出して! 僕も戦う! 恋町さんならここから僕を出せるんでしょ!? 秀清が、絵と僕の魂を入れ替えたんだから! 同じ業前わざまえなんだから……!)


「クソったれが……それじゃあまるで、俺様が弱っちいみてェじゃねェかよ……」


 恋町は、起き上がろうとしてできず、仰向けにぶっ倒れた。かろうじて動く肘から先を、やるせなく持ち上げる。掌が胸元へと重なった。

 ゆっくりと撫でさする。狂おしくも別れがたく、愛おしいものへの、それでも、触れがたく押しとどめる手つき。

「……カッコ悪ぃとこだけは、見せる予定じゃなかったんだけどよう」


 唐突に、黒い血を吐く。法外な量の墨が口元からこぼれて胸元を汚した。


「ウフフ……そんなに外に出たいのなら、大人しくこっちへいらっしゃいな」

 火車から伸びる手が、スゥと細く、青白くなり、なまめかしく誘う女の指へと変わった。

「貴女の、本物の身体をちょうだい……貴女の身体なら……無限に鬼を喰らえる……いくらでも強くなれる……あの邪魔な護法の鬼を追い出して……今度こそ、ひとつになりましょ……?」


 オイデオイデをする四本の爪の先から、血糊ひく真紅の蜜がツゥと滴り落ちる。


 恋町は頭だけ持ち上げて憎まれ口を叩いた。

「誰がテメエなんぞに……」

「オオオオお邪魔虫はァァ黙ってなさいなぁぁぁこのクソ虫がァァァァ!!」

 血の弧を引く爪が、恋町の腕を掻き裂いた。ゴミのように、へし折る。

 かんざしを握りしめた腕が宙を飛んだ。鈍い音を立てて、離れたところに転がる。

 絶望の黒い染みが、にじむ同心円を描いて広がってゆく。


 綺乃は壁を揺すぶった。

(やめて。恋町さん、逃げて。もういいから。僕をここから出して。僕のことはいいから! 逃げてったら!)


 胸が、ヤスリで擦り潰されそうだった。

 無力な自分のせいで。鬼を呼び寄せてばかりの、呪わしい血のせいで。

 どんなに壁を殴っても、前に進めない。守られてばかり。守らせてばかりで。

 恋町が無惨に倒れる姿を、何もできないまま、見続けることしか、できない。

 せめて手を伸ばすことさえできたら。

 せめて我が身を捨てて、庇うことができたなら。

 なのに、何も、できない。息を吸い込むのさえ自分で自分が許せないほど、喉に、絶望のかたまりがこみ上げては、つっかえる。


「へん、やなこった」

 恋町はうそぶいた。

「……あいつが戻ってくるまではな……退けねェのよ……大丈夫だ。術が発動したら……すぐに……こんな」

(間に合いません! もう、無理です! 兄様だけじゃなくて、恋町さんまで……死んじゃったら、僕は……僕は……!)


 恋町は血錆混じりの咳を飛ばした。

「殊勝なこと言ってくれる……嬉しいねェ、へへ……」

 血生臭い、長い息を吐いて。

 眼をつぶる。


 逃げようにも、全身ずたぼろに轢き潰されて、動けないのだった。


(笑ってないで逃げてください……もういいんです、僕らのことは、もう……!)

「うっせェなぁ……俺ぁ、めそめそ泣く女は好かん……」

 呼吸が早く、浅く、荒く、乱れ始める。


「鬼乃サァン……どこかしらぁァァ……? かくれんぼは、おしまいヨォォォ……逃さないんだからァァ……」

 火車から伸びた長い舌がベロリ、ベロリと舌舐めずる。妖艶な爪が、恋町の懐をまさぐった。

「あらァァァ……こんなところに、ウフフフ……? 見ィィつけたァァァ……」

 赤い爪が、隠されていた綺乃の写し絵を引きずり出した。


 豁然かつぜんと夜が割れた。折り畳まれていた視界が扇型にうち広がる。

 

 綺乃は反射的に顔をそむけた。眼が染みるほどの光。眩しい。何も見えない。顔をくしゃくしゃにして、外をすがめ見る。

 未だ明けやらぬ薄紅の東の空。それでも、しらじらとほのかに白んでいる。

 夜半には煮凝りの血のようだった目玉の月が、今は薄膜のまぶたをトロリと半眼に垂れて、地の果ての鬼界へと飲み込まれてゆくのが見えた。


(……恋町さん!)

 赤い爪に吊り上げられながら、呆然と見回す。

 視界の隅に、黒いものがかすめた。誰かが倒れている。

 冷たい風が首筋を撫でた。魔女の指のような寒気が、背中から腹へ、嫌なこわばりを増して回り込んでくる。


 最初。

 思いもよらなかった。まさか、それが恋町だとは。


 墨塗りの霧をまとっていたはずの下半身が、霧ごと、消えている。

 残るは上半身のみ。

 顔すら、半分がない。


 心臓と胃の腑を、冷たい手が掴んだ。

 肩が震える。眼の焦点が合わない。直視できない。


「どこを見てるんですのォオッォ!? 貴女はわたくしのモノになるんですのヨォおォォォ……!」

 目の前に、膠を塗ったような、ぼってりと艶のある赤い唇があった。

「いっただっきまあァァァァ……!」

 大きく、グワリと開く。腐った卵の臭いが吹きつけられた。ウネウネと蠢く舌が、乱れ髪の女の顔を形作った。ニチャァと嗤う。

 無数の赤い手が、触手となって綺乃に巻きついた。何重にも巻きついて、締め上げる。

 気がつけば口の中に引きずり込まれていた。咀嚼のねばつく音が聞こえる。

 視界が暗転する。その寸前に、手を伸ばす恋町と眼があった。


(兄様)

 自分でも、何を叫んだのか。

(兄様!)

 分からなかった。

 ただ、ただ。叫び、泣き、願い、求め。

 呼んだ。


(兄様、助けて! お願い、恋町さんを助けて! 早く来て。助けに来て……兄様……!!)


 沈痛な声が、火車の口へと吸い込まれてゆく。

「兵之進」

 恋町は腫れぼったい片目だけを、ぎごちなく開けた。半分しかない手を伸ばす。伸ばしたつもりの手の先は、掴みたかった手には、届かない。

「何、して、やがる。早く。綺乃を」

 声にならない声をこぼす。

「てめえの他に、誰が」

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