陸ノ五、あの夜、俺は、あいつと約束しちまったんだ
「はァ? たった半日前のことを、もう忘れやがったのかこのピロピロ頭が!」
恋町は口をへの字にひん曲げて吠えた。
「何の役に立たねェドタマなんぞスパァンとカチ割って、代わりにミッチミチの粘土でも突っ込んどけや!」
綺乃の写し絵を乱暴に丸め、だしぬけに懐奥へと突っ込む。
絵の中の世界が急に圧縮され、暗くなる。嵐に翻弄される小舟の心地になって、綺乃は声を消え入らせた。
(あっ、ちょっ、待って恋町さん、くしゃくしゃにしないでっ……ぁっ、ううぅん……キツい、動けな……く、く、苦しいってば……うぎゅぅうう……!)
「変な声出すな、馬鹿!」
(だって、どこですかここ!!! 何か妙に生暖かいですっ!? それに何だか……何だか……)
「何だよ!」
(汗臭い)
「大きなお世話だ。そんなことより、危ねェからじっとしてろ」
(そうだ、兄様……兄様は!?)
状況を思い出して、綺乃は、はっと我に返った。いても立ってもいられなくなって、見えない闇を掻き分け、身を乗り出し、周囲を探る。
なだめる声が、闇の上から降った。
「分かったから落ち着け。ほれ、昼間、番所でヒトガタに取り憑かれたろ。それと同じで外身のガワだけを
(兄様! 返事して! 兄様、どこ!?)
綺乃は聞いていなかった。闇の壁に駆け寄り、耳を押し当てる。
返事はない。
我知らず、涙が頬をぽろぽろと伝う。
(嘘……嘘だ……兄様……! 恋町さん、まさか兄様を斬ったんですか!? どうしてそんなこと!)
濡れる頬をそのままに、綺乃は見えない壁を何度も叩き続けた。
(恋町さんの馬鹿! 大嫌い! 僕を兄様のところに連れて行って! ここから出してください。兄様、兄様……兄様を返して……!)
写し絵の式神を突っ込んだ懐中が、ばたばたとはだけ、持ち上がる。目に見えない小動物が、服の下に入り込んで暴れ回っているかのようだった。
恋町は腫れ物に障る手つきで懐を押さえる。
「無茶言うんじゃねぇよ、危ねェだろ、暴れるなって、アイタタ、噛むな! 引っ掻くな! 破れっちまうぞ!」
「はあーぃ? もしもーーし? あのォォ仲良く痴話喧嘩中のお二人さァァァん?? こっちはそろそろ、時間稼ぎの茶番劇に飽きちまってんだけどねェェェェェェェ……」
悪鬼の顔が、ゴオッと音を立てて膨れ上がった。燃えさかる炎の渦となって、空を埋め尽くす。
「もう、いいかァァァァァい……!?」
「悪ぃがお取り込み中だ! 一昨日きやがれ!」
恋町が袖をまくって怒鳴り返す。
火車は、けたたましく笑った。恍惚と目をほそめる。
「そこは……まぁだだよォオオオオオオ? でしょォォォ……!!? って言われてもぶっ殺すけどねェェーへェッヘッヘェーー!」
躍り狂う炎の
どす赤く熟した粘液が、糸を引いてビチャリと飛び散った。
「ネロネロレロレロ〜〜〜ッ!! 苦味走った汗くさいいいオトコの味ィィーーー!!!」
恋町の影を、夕暮れよりも赤熱した吐息が押し包む。
身を守っていた黒い霧の結界が、音を立てて蒸発した。吹きちぎられる。
恋町はたまらず、その場で膝を折った。
「ふざけんな、ドブ臭ェ口でベロベロ舐めやがって、バーカバーカ!」
悪口雑言の限りを吐き散らかしながら、恋町は最後の力を振り絞って、火車を押し返した。
霧の投げ網が広がった。かろうじて熱波から身を護る。着物の焼けこげる苦い煙がくすぶった。
(もういいんです。やめてください……兄様がいないのに、僕だけが生きてたって……)
綺乃は、闇の中でくずおれた。両手をついてうなだれ、肩をふるわせる。
啜り声が、途中で潰れる。言葉が続かなかった。膝の上に結んだ手に、ぽたり、また、ぽたりと白いしずくが跳ねる。
「メソメソすんじゃねえ。てめえの兄貴が、
恋町は苛立たしく首を振った。闇の中で、片方の眼だけがギラリとほそく、黄色く。
硬質に瞬く。
「外道に堕ちれば、ぶった斬る。それが
うめきとも歯ぎしりともつかぬ声が、煙と轟音と炎に呑み込まれる。
「外道に堕ちるか、正道に戻るか。妖刀使いなら、てめえの死道ぐらいてめえで選ぶ。だが、あの夜、俺は、あいつと約束しちまったんだ。たとえ何があっても、
「不束者ながらァァァ……! この私めがァァ!
火車の炎が、一気に圧力を増した。
腕が分裂したようにも見えた。猛攻が襲ってくる。
「それではァァァァ! みなさまァァァ!! 御いのち拝借ゥウううう! イヨォォォ……!」
ギャリギャリと猛然と岩を噛みながら回転する。のたうつ炎の腕が、地面をえぐりつけた。
「ビシバシブチィン! ビシバシブチィン! ベチベチブチブチ、グチャグチャビチーン! もう一丁!」
霧が剥ぎ取られた。
闇に隠れていた恋町の顔が、赤く照らし出される。そこには雷紋の走り抜けた醜い火傷の痕があった。顔半分を覆い尽くしている。
(無茶しないで、恋町さん……! もういいんです。もう、いいから。本当にやめてください……さもないと恋町さんまで……死んじゃう……!!)
「うっせぇ。この俺様が死ぬわけねえだろ。この後、てめえを嫁に貰って好きなだけいんぐりもんぐりする遠大な計画が!」
(そんなこと誰も言ってません!)
「それが嫌なら、ちったァ大人しく守られてやがれ」
恋町は荒々しく吐き捨て、下唇を湿らせた。唇を、変色するほど強く噛む。
「せめて、あいつが戻ってくるまではな」
かんざしもろとも妖刀を逆手に取って、
息を切らし、唱える。
「
世界の砕ける音がした。支えきれない。
限界だった。身体が焦げ付く。
「くそっ、間に合わねェ……!」
恋町がのけぞりながらうめいた。もはやなすすべなく、轢き潰され、呑み込まれる他はない──と。
見えた、そのとき。
炎の下に、深紅の色が。
血を欲する色が。
玲瓏な月を映して、炯々と光った。
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