伍ノ九、ひとつに、なりましょ

 飢えた視線があさましく泳いで、秀清の笑みとぶつかった。

「何かお要り用で?」

 秀清は、悪意したたる籠絡ろうらくの笑みを浮かべた。歩み寄ってくる。


 


「今の貴女を描いた絵をいくら《え》させても、出てくるのは、似ても似つかぬ不気味で醜いヒトガタばかり。もう、うんざりですよ。ああ、本物の貴女に、早く逢いたい」


 汚らわしい手が、綺乃の腰に回った。裾を割ろうとして肌に触れる。まさぐる。

「そのためならいくらでもこの身を差し出しましょう。貴女とひとつになりたい。もっと、もっと、殺戮の天女たる血の舞を見たい。死の間際に見たあの終わりなき狂宴に濡れそぼつ貴女を、今度こそしっかりとこの眼に焼き付け、微に入り細を穿ち、心ゆくまで描き込みたい。兵之進を喰い殺し、手前の首を引きちぎり、百鬼改ひゃっきあらためを壊滅せしめたあの、あの日の貴女に、もう一度……!」


 秀清は、最後に残る絵を拾い上げた。朱で走り描きした素描の絵が、みるみる、血を吸って赤く染まってゆく。三味が弦打つるうたれた。拍子木が高らかに鳴らされる。舞う桜。散る桜に狂う桜。月に濡れるは夜の橋。ゆらめく波の水の底。水面に映るは血の瞳──


「さあ、お出ましを、鬼乃姫さま」 

 ひときわ高い哄笑を放って、秀清は綺乃の手を取った。絵の中の綺乃は、今より少し幼い顔立ちの浴衣姿で、可愛らしく小首を傾げている。甘えた真紅のまなざしがこちら側を見つめていた。

 手には真っ赤な風車。唇はぷっくりと甘い紅の色。

 笑うと。

 つややかな牙が、白く、光る。


 絵の中に吸い込まれそうだった。


 綺乃は、身をよじった。抵抗の呻きをあげる。絵の中の鬼姫が、おいで、おいで、と手招きする。

 鏡を見ているような気がした。鏡の中の、絵の中の自分と、無意識に手を重ね合わせる。

 指先が、反対側に潜り込んだ。しどけなく絡められる。握り合う。

 絵に触れる冷たさとは反対に、突沸にも似た、煮えたぎる劣情が流れ込んだ。むさぼるように、身を寄せ合う。


 ほそく尖った血の色の爪が、あまりにも艶やかで。なまめかしく。

 吐く息で、鏡が白く曇ったように思った。熱い。頬が、ひどく熱い。でも向こう側のそれに触れれば、ヒヤリと心地よく冷える。そんな気がして。


 互いに、絵の彼方と此方とで、頰をすりよせあう。まだ、熱い。

 ひとつに、なりましょ。赤い唇が睦言をささやく。今にも触れそうなほど、近づいてくる。

 もう一度。もう一度だけ。ほんの一瞬だけでいい。

 あの、甘い血のくちづけを。もう一度。


 胸の奥が、どくり、と、赤黒く脈打った。

 心臓が、血を求めて、急激に膨張し、激しく拍動し始める。

 身体の奥に潜む、自分ではない別の何か、別のモノが。

 うごめき、ねじれ、膨れあがってゆく。近づいてくる。近づいてくる。


 どこかで誰かの叫び声がした。

「……ノ……! ……ィ……ォ!!」


 轟音が耳を打つ。いくつもの足音が、騒然とがれ場を駆け上がってきた。骨を砕き、岩を割り、火花削る金属音の反響が、鼓膜を震わせる。爆風のようだった。

「綺乃ーーッ!!」

 巨岩が揺れた。骨の鳥籠が、錆びた音を立てて激しく左右に揺れ動く。

 血に濡れた下手糞な絵が、上昇気流に吸い上げられ、赤く舞い散る。

「綺乃どの! 助けに来たでござる!」

「とっとと眼を覚ますでござりまする御桜綺乃ーーッっ!!」

「あと少しだ! 耐えろ! 綺乃!」


「この塵芥ゴミめらが! それ以上近づくと容赦しませんよ。これが見えないのですか!」

 秀清が、妖刀を手に怒鳴った。

 頰の横に、朱色の闇漂う刃が添う。ギラリと赤く反射する。生ぬるい刃が押し当てられた。

 ぬめるような感触。刃が食い込んでいる。

 白い首に、無色の血の線が伝う。


 それでも、何の痛痒つうようもない。

 死斑に染まる指先を見つめる。鬼火が揺れている。もう、消えない。


 遠くで、誰かがささやいた。

 もう一人の自分。恍惚の血飛沫になまめく、まぼろしの刀を手に嗤う、白髪赤眼の鬼姫が。

 、今度こそ、本物の御桜兵之進を殺して。。《古骨光月我が身》をこの手に取り戻せる。


 血が凍えんばかりにこごり、肉体が冷えてゆく。


 何かが、身体の中を通り抜けた。

 ふい、と。

 上下。左右。前後。表裏。すべてが裏返り、入れ替わる。


 絵を見つめる綺乃の表情かおから、色が抜けた。

 綺乃の魂の表面を覆っていた夜光石めく色彩の破片が、雲母のように割れて、剥がれて、綺羅となって絵に吸い込まれ、消え。


 黒髪の色が、スゥと絵に移った。白銀の色へ移り変わる。眼だけが、血の欲望を透かして、ひたすらに赤い。

 桜の花の舞うように。蝙蝠が闇に群れ飛ぶように。

 ちぎれ風に、火の粉を散らして、乱れ髪がなびく。


「ひよ兄様にいさま

 綺乃は、かぼそく微笑わらった。あでやかな牙がのぞく。肩が震えた。

「綺乃は、もう」

 うるんだ声が、石琴を打つように夜を透き通らせる。


 手にした赤い風車が、カラリ、カラリ、風に回った。

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