伍ノ八、背徳の、堕天の、破戒の味

 はるか眼下にピンクの落下傘が咲く。落下傘はすぐ岩の影になって見えなくなった。


「まさかお蘭ちゃんまで妖刀使いだったなんて。ぜんぜん気付かなかった」

 綺乃は枯れた息を喘がせた。

 急激に身体の力が抜けてゆく。

 逃すためわざと狂暴化したふりをしたが、そのせいで残る体力すべてを使い果たしたらしい。


 身体さえ動けば。

 秀清の虚をついて巨岩に飛び移って、何とか危機を脱することだけはできたかもしれない。

 だが、もう。

 まともに歩けさえしない。


「口が軽いな、恋町秀清。恋町さんとは……大違いだ」

 それだけ言うにも喉がいがらっぽくひりついた。

 ぜいぜいとかすれた音が鳴る。それでも、笑ってみせるだけの虚勢はまだ、張れる。


 秀清の顔に噴き出した百鬼眼ひゃっきまなこが、黄色い瞋恚しんいの色に染まった。綺乃を睨め付ける。

「あのひとは、ベタ塗りで消すしか能のない術ごときで霞処かすがの名を汚す下衆です」

「その絵に頼って、偽の読売を刷り散らしたのは誰だ。お前なんか、剣の腕も絵の腕も、どっちも恋町さんの足元にも及ばな……」


「ほざくな黙れァブッ殺すぞオンドレがァアアッ!!」

 秀清は如才なさの仮面を投げ捨てた。牙を剥く般若の素顔を剥き出しにして激昂する。群がり集っていた黒と赤のまだら模様の死出蟲が振り落ちた。


「近寄るな。屍肉がかかる」

 綺乃は手で扇いで秀清の顔を押しやった。

 どうやら、恋町に対する積年の恨みも相当なようだ。恋町の、他人を煙に巻いてはさんざんにからかって見下すふざけた態度を思えば、恨みを買って当然かもしれない。

 それでも。


 暇さえあれば道場に来て、酒をかっくらってはごろごろ寝転がって尻を掻いたり、けしからん絵を描いたりしていた恋町の後ろ姿を。そんな恋町をホウキを持って追い回していた兄、兵之進の姿を。思い出す。


 何も言わず、何も告げず。

 二人とも、本当の正体を隠してまで、ずっと。護ってくれていたのだと。

 今頃になって、気づく。

 でも、もう、遅い。

 また咳き込んだ。めまいがする。あきらめの微笑がこみ上げた。

 目の焦点が合わない。しびれた指先に、どす黒い斑点が浮かんだ。斑点はやがて闇紫色の滲みとなり、まだら模様となって手のひらへと広がった。死斑のようだ。


 たぶん、きっと、もう。

 逢えない。


 赤く染まる鬼の眼が、今まで見えていたものとは全く違う、異界の様相を映し出していた。

 無数の、ふるびた魂の抜け殻で作られた、土。

 無数の、うごめく死の燐光が漂う、森。

 すでに命を失くした虚のかけらが這いずり。

 闇よりも暗い、光の当たらぬ沼の底にうごめく。

 それらが風となり渦となり、目に見えぬ禍々しい悋気の蛍火となって。

 人の耳には聞こえぬけたたましい叫喚の笑い声を放ち、吹き寄せてくる。


 病弱なのは、あやかしに取り憑かれやすい体質、無意識に悪霊を降ろしてしまう口寄せ体質のせいなのだと、ずっと兄も言っていたし自分もそう思っていた。

 もしかしたら、その見立て自体が間違っていたのかもしれない。

 妖気や汚辱の穢れそのものを喚び寄せ、吸着し取り込んで喰らっているのは、綺乃自身だ。体内に溜め込んだ鬼の妖気が、ドロドロと発酵した熱を帯びてぬたくり、のたうち、毒々しい瘴気を発して膨れ上がる。もう、いつ破裂するか、自分でも分からなかった。


 指先が、どす黒い燐光を帯びて燃えた。手を振り、擦り合わせて火を消す。


 秀清は媚びたような笑みを作った。白々しく体裁をつくろい、綺乃の傍らににじり寄ってくる。

「いや、お見苦しいところをお見せしました。手前もまだまだ精進が足りませんね。お恥ずかしい限りだ。ほら、こちらへ。そこにいては下に落ちます」

「触るな。汚らわしい」

 綺乃は払いのけようとした。だが、手に力が入らない。息が苦しかった。喉を押さえる。掠れたふいごのような音だけがもれた。

 秀清はくつくつとからかうように含み笑った。目をほそめ、昂揚した思いをこらえきれぬていでぶるりと身を震わせてから、頬をすり寄せる。


「だいぶん、こちら側に染まってきたようですね……もうすぐです……もうすぐ、あのときの貴女にまた、逢える……」


 秀清は乱れた髪を撫でつけ、襟元の手ぬぐいを神経質に巻き直した。手拭いの下に首を一周する生々しい傷痕がのぞく。生きた人間の傷ではなかった。

 紙入れから懐紙を取り出し、唇を噛み切った血で湿して綺乃を描く。

 小さな紙一枚から、身をよじるようにして白いヒトガタが立ち上がった。みだらな泥まみれの裸身。眼が赤い。ところどころの肉が溶けて、異形の骨が剥き出しになっていた。

 その、ヒトガタが。

 乱れ髪を引きずり、骨ばかりの手をダラリと下げて。

 綺乃に抱きついた。頬ずりして唇を寄せる。

「近づくな」

 振り払おうにも、手がかじかんで動かない。


 ヒトガタの冷たい吐息が顔にかかった。ヒュゥ、ヒュゥウ、と、泣くような風の音が耳をかすめる。


 赤い眼が見下ろしていた。白い骨の手が顔を無理やりにねじ曲げる。唇が、重なる。身体の中に、冷たい毒を流し込まれたような寒気が広がった。

「ぅ……」


 ぬめる何かが、口移しに練り込まれる。弄られる。

 受け止めきれず口の端から赤い粒がこぼれた。

 綺乃の顔をしたヒトガタは、ひとつになる歓喜に無言の喘ぎ声をもらして痙攣し身をのけぞらせ、腹上でドロリと果てて溶けた。口に濁った血の味が広がる。あふれる。

 甘い。苦い。背徳の、堕天の、破戒の味が。

 だらだらと滴り落ちる。

 綺乃は息をついた。唇を舐める。息が上がった。喉がひりつく。唇が濡れて、吐く息までもが赤く、なまぐさい。なのに、やけに渇く。

 汚れた頰を拳でぬぐう。喉の渇きに耐えきれず、舌を出して舐めた。


 もっと。

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