肆 これより彼岸

肆ノ一、幽世と現世の橋渡し

 枝垂れ柳の影が、黒く水面に揺れている。

 ざわめく月影。風にささめく柳が枝垂れの先で深堀の水面をすくっては、かすかな水沫の音だけを跳ね返らせる。

 ちぎれた葉が、水面に落ちて。白い波紋を広げに広げて。

 音もなく、消える。


 行く手に、小さな朱塗りの橋が架かっていた。高欄の親柱には、青銅に艶めく擬宝珠が乗っている。


 ぎい、ぎい。


 月夜に猪牙ちょき船の漕ぐ櫓の音が響く。

 ぼうっと赤く灯る明かりが、水面を照らす。

 確かに誰かが漕いでいるはずなのに、船頭の姿も定かに見えない。


 橋の袂には庚申橋、と彫られた柱が立っている。


 何処へ逝くにも渡らねばならぬ。幽世あの世と、現世この世の橋渡し。

 ぎい、ぎぃ。

 橋の下を、漕ぐ音が通り抜けて行く。

 ぎい、ぎぃ。

 遠ざかる。


 逆さまの赤い月が、水に映っている。波の跳ねる音がした。


 兵之進は月避けの破れ傘を、ゆっくりと閉じた。

 ゆらぐ月の波が、凍える眼に映り込む。

 梵字にも似た光が、背後からひゅん、と奔った。橋の欄干に立ち並ぶ、朱の雪洞ぼんぼりに火が灯る。


 ざわ、ざわ、誰かがささやいている。ひそ、ひそ、寄り集まって話をしている。笛の音が聞こえた。物怪の気配が近づく。笑い声、泣き声、文句を言う声。からからと高下駄を鳴らして、何かが。

 来る。


「自分の意志で、渡れるのか」

 恋町の声が背後から聞こえる。

 兵之進は振り返った。

「伊達に、《あやかし喰らい》を名乗ってたわけじゃねえよ」


 恋町は墨切をしっかりと押し取りながら近づいてきた。その姿は薄墨に覆われたようにぼんやりとしている。

「それ、綺乃の身体なんだろう。てめえが憑依ひっついて大丈夫なのか」

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