参ノ四、昼間のおぬし
「う……」
兵之進は、ずきずきと痛む後頭部に手をやった。いつの間に負傷したのか、それすら記憶にない。
そのうえ、手に触れたのは、痛むはずの自分の頭そのものですらない。やたら硬い、まるで木の面を被っているかのようだ。
それだけではない。耳元でやたらとハアハアと息を荒げる何者かが、上から覆いかぶさっている。
呼吸音が反響した。
「き、き、気がついたか綺のっ、ではなく兵之、ひょおのしん……も、もう大丈夫でござるよ。えへ、えへっ、ハアハア、せっ、拙者がそなたの傍にずっと付いているでござる。なので、もう、安心しても良いでござる……綺乃、綺乃どのは、拙者が必ず、ハアハア、連れ戻すでごっ」
恐ろしくゴツい男の腕に、むはぁ……みたいな感じで強烈に抱きしめられている。
同じ人類とはとうてい思えない樽を並べたみたいなまっちょな腕に、米俵のように盛り上がるまっちょな胸ぐら。そんな筋肉ダルマに耳元でハアハア言い寄られたら、どんなまともな神経の人間であっても冷静な判断など下せるわけがない。
よって。
「馴れ馴れしく触ってんじゃねーーーッ!!! この筋肉
頭にかぶった木桶ごと、全力の頭突きを食らわせた。
「何ブホォーーッッ!!」
強烈な一撃。反動で木桶が割れた。暗闇に包まれていた視界が二つに割れる。
ぶしゅうっと鼻血を吹き上げて吹っ飛んでゆく筋肉
「あっ、悪い」
見慣れた黒巻羽織に雀色の着流し。一磨だった。
眼を回しているが、一磨なら、これぐらいどうということはないだろう。
兵之進は、なぜか頭にかぶっていた木桶の割れ残りを投げ捨てた。肩に散った木っ端を振るう。
そうしてから周囲を見回した。
状況は見れば分かった。
台座のたもとにうずくまる黒修験の童子に歩み寄る。
「すまん。抜かった。許せ、はち」
片膝をつき、手をかざし、
はちは、力なく尻尾を振って応えた。式神は、その御霊を勧請しなおせば、すぐに傷は癒える。
「てめえ……ひよじゃねぇな?」
恋町が背後から声をかけた。
兵之進はゆっくりと立ち上がった。その暗い眼に、ギラリと赤い燐火がよぎる。
「……どうして、綺乃を、暮れ六つまでに連れ戻してくれなかった……
「暮れ六つを過ぎれば
恋町は《古骨光月》をぞんざいに放った。あやかしの拵えが、赤い月影を受けて冷涼に光る。兵之進は妖刀を空中で鷲掴んだ。落とし指しにして、息をつく。
握り込んだ拳が。押し殺した声が、わななく。腹の底で、音もなく煮えたぎる赤い鉄が毒の蒸気を吐き出すかのようだった。
長い沈黙ののち、兵之進は深く息を吐いた。
「……すまん。言いすぎた」
恋町は、しばらくの間、険しい眼差しで兵之進のうつむく視線を追った。ふいと眼をそらす。
「そんなこたぁ、どうでもいい。とっとと綺乃を探すぞ。あのヒトガタどもが襲ってきたんだろう。なら、奴らの本拠地に連れていかれたはずだ」
きびすをかえす。
「あいたた……あ、顎が、顎が割れちゃったでござる……」
一磨が、よろよろしながら起き上がってきた。
「気のせいか、兵之進の頭突きが昔の兵之進みたいに凶暴だったでござ……はっ!?」
頭を押さえ、ぼんやりした眼で恋町と兵之進の二人を見比べる。焦点の定まらぬ視線が、その向こうに落ちている傘で止まった。
手毬が、チリンと鳴った。チリリン。チリチリ。
なぜか、か細く震え続けて、鳴り止まない。
兵之進は、一磨の近くへと歩み寄った。
「すまん。てっきり、その、綺乃にまとわりつく変質者だとばかり」
片膝をつき、手を差し出す。
一磨は頭をさすった。差し出された手は不要とばかりに断り、上半身を起こす。よほど打ち所が悪かったのか、ふらりとよろけた。立ち上がれない。
一磨は照れたように笑った。
「いやいや心配はご無用でござる! はっはっはっまったく、きっ……ひょおのしん、おぬしも人が悪いのう! 我ら、莫逆のちんちんかもかもではないか! 水くさいでござる、大丈夫でござるよ、拙者が、綺乃どのを必ずや!」
「……一磨」
兵之進は、喉の奥から声を絞り出した。
「……悪かった」
「何がでござる」
兵之進はわずかに身体を震わせた。
「
「お……お?」
一磨は、息を呑んだ。愕然と眼を見開き、ふいに兵之進を食い入るように見入った。兵之進は目を合わせない。
「えっ……? は? は、話が違……先生?」
あわただしい視線を恋町へと向ける。恋町は目をそらした。顎をしゃくる。
「行くぞ、兵之進」
「ああ」
兵之進は、立ち上がった。一磨はよろめきながら膝で這い、後を追った。
「おい、待て。どういうことだ。兵之進、おい!」
懐の手毬が、チリン、と地面に転がり出た。
「……おぬし、綺乃どのでは、ないのか? あやかしに憑かれぬよう、妖刀を持って兵之進に
兵之進は答えない。
一磨は、這いながら後を追った。
「待て。この手毬も、おぬしが拙者に持っとけと言ったのだろ。あとで直してやるとか何とか言って……どこぞの誰かに、古骨の傘をくれてやるから、その代わりにと言って!」
兵之進は俯いたまま、短く言った。
「それは……俺じゃねえよ」
一磨は、手毬を掴んだ。手の中で、震えるように鳴る。
「意味がわからん! おぬしの言うことは、さっぱり、訳が、分からん! 何でそうなる!」
「うるせぇ! 分かってる……うまくいくはずだったんだ。ほかに方法がなかった。あいつが生きるには、死なないためには、血が必要だった。それで元気にさえなってくれればよかったんだ。間違ってなかった。その証拠に綺乃の病気は治ってる」
兵之進は俯いたまま、つぶやいた。
「なのに……いくら鬼を殺しても殺してもすぐに血が足りなくなって、最期、もう、どうしようもなくなったから……だから、俺の血をやった。それだけのことだ」
「話が長ぇよ! 昔のことはもういいだろ! ぐずぐずすんなや。行くぞ」
恋町が、噛み付くように間へ割って入る。
荒らされた庭の隅に、古骨の傘が投げ捨てられている。
兵之進は、折れた傘に近づいた。手に取る。
(……だって、修理すれば十分に使えるんですよ。ちょっと持ち手を修理してちょっと骨を全部継ぎ足してちょっと張り直してちょっと柿渋とベンガラでかっこよく染めれば実にいい感じに)
(ほぼほぼ新品ではないか)
(気持ちの問題です。ほら、傘も喜んでます)
貰った古骨を大事に胸元で抱える、精一杯、兄の姿に似せたつもりの、妹の綺乃の姿を。
九十九が、覚えている。
(まだ聞こえてるかな? ……ずいぶん破れてるけど、この傘で良かったら使って。いつか晴れたら、返しに来てくれればいい。場所は、鬼辻坂の
手毬が、チリン、と鳴る。チリン、と泣く。
傘から、霊気が立ちのぼった。九十九の涙が、くゆる気流の渦を巻き、闇に伸び、青白い燐光を放つ花を絞り咲かせる。
この世のものにあらざるくちなしの花が、白く、甘く。匂い立つかのごとく咲き誇る。
拍子木を打ち、歌う。
それは、踏みつぶされる寸前の傘が夢見た光景。
兵之進は顔を伏せた。
月影を遮る破れ傘を差しかけたまま、怪異にいざなわれて歩き出す。
「おい、兵之進。どこへゆこうというのだ」
一磨が狼狽の声を掛ける。恋町は黒の妖刀、《霞処墨切》を押っ取る手でそれを遮った。
「ここから先は、彼岸の道だ。お前はやめとけ。以降、この始末は
「それは言わぬが約束でござる。拙者にも、できることはあるはずでござる!」
叢雲が薄く、風に流れて左から右へ。そぞろな月の顔を隠してはまた、見せる。
「勝手にしろ」
恋町はそれ以上言わなかった。
兵之進を追って歩き出す。
「昼間のおぬしは、『自分にできる限りのことをやりたい』、と言うておった! その気持ち、今のおぬしならば、誰よりも分かるはずではないのか。そうではないのか、兵之進!」
夜のしじまに消えてゆく、その暗い背中を。
一磨は、遠いものを見る目で見つめていた。
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