弍ノ十五、その名は、もう
一磨が耳元で怒鳴った。
「兵之進!」
振り向くと、血の気の引いた真っ青な顔があった。
兵之進は、薄く嗤った。引きつった顔の一磨を鼻であしらう。
「その名は、もう、
視線を、針金の塊にしか見えぬあやかしへと移す。
鬼火の宿る瞳孔が、スゥと縦に細くなった。
あの空に血の月影がのぼれば。
今まで啜ってきたあやかしの血が、眼を覚ます。
刀として打たれてから喰らった何千、何万という魑魅魍魎の鬼どもの、その血が、飢餓の眼を覚ます。
血の月影を、浴びてはいけない。
狂気めいた刃文の下の鋼に閉じ込められ、爪を立て、引き裂き、絶叫し、それでも出られずにもがいて、あがいて、この世を呪う鬼どもの叫びが。
甘美なる、殺戮の歌となって、聞こえてくる、から。
兵之進は生け贄を探すかのように、《古骨光月》の
男と女の、大人と子供の声が混ざったような、人ならざるものの声が口をついて出る。
「どー、れー、に、し、よ、お、か、な? てー、んー、の、かー、み、さ、ま、の、い、う、と、お、り」
一磨。針金のあやかし。岡っ引。下っ引。ざわめく群衆。ひとりひとり、順繰りに刃先を向けて、反応を見て笑う。
血の雫が夜気に溶けて、つめたく流れくだった。無音。ほんのわずかな鍔鳴りの音すらしない。
腕の形からほどけた針金が、それぞれ泳ぐように空を切った。忌まわしい虫の触覚のようにヒュン、ヒュンと前後左右に波打っている。
「……まずそう」
兵之進は、露骨に嫌な顔をした。
同心の腕から生えた針金が、ふいにするどくしなった。よじり合わされた鉄槌となって、振り下ろされる。
兵之進と一磨は、それぞれ別の方向に跳ね退いた。
片方の腕から生えた針金の手が、兵之進を追った。頭上から何度も叩きつけてくる。
かすりもしない。避けるたびに地響きが轟く。空が震えた。巨人の手形で、地面が次々と陥没してゆく。
もう一方の細い針金は、一磨を狙って飛んだ。左右から交互に降ってくる。
「おっ!? おっ!? おっ!!?」
一磨は、十手を縦横無尽に閃かせ、針金の猛攻を弾いた。削れた鉄芯が、打ち水のような火花を散らす。
互いに攻撃を避けるうち、また背中合わせに戻ってくる。
「お、お、おい、兵之進、ぼーっとしてないで何とかせい!」
這々の体で息を継ぎ、怒鳴る。
「えーヤダ」
兵之進は膝を内股にして、気恥ずかしげに頰を赤らめた。
「は!!?」
兵之進は、この上もない天真爛漫の微笑を一磨に向けた。上目遣いで、チロリと舌を出す。
「だってぇ、一磨が血まみれになってるとこ、見たい……んだもん?」
「なんぬぅぅううーーーっ!?」
さすがにちょっとたまげすぎたか。
針金の塊が、茫然自失の一磨を吹っ飛ばした。横っ面にめり込んでなぎ倒す。
一磨の身体は、番屋の壁を突き破り、木っ端と瓦とネジとゼンマイとを撒き散らしながら、裏通りにまでもんどり打った。
手足と胴体が、びよよん、とバネで跳ねながらあちこちに散らばる。爆発。白煙が上がった。
一磨の本体は、すでに屋根の上だ。
口に棒状の物体をくわえている。丸い、秘伝の巻物のようなものだ。端の部品を食いちぎって、ぺっと吐き出す。
ぢっ、と削れた音がした。
這わせた
一磨は、巻物を同心めがけて投げつけた。
「伏せろ!」
怒鳴る。
巻物が同心の足元に転がった。
導火線の火が内部に吸い込まれる。
爆発した。天まで焦げる火柱が上がる。地面が傾いた。
周辺の家の戸が、軒並み爆風にぶち抜かれた。柱ごとなぎ倒される。
「やったか……!?」
爆発の照り返しで、屋根の上まで赤く染まっていた。
一磨は黒煙の向こう側を透かし見た。舌打ちする。
吹きすぎた爆風が、煙を運び去る。
針金のあやかしは、そのおぞましい骨組みだけの姿を炎に晒して、それでもまだ立ち尽くしていた。
めらめらと燃える火が、明滅する赤と黒の影を描き出す。
「……バケモノか……!」
一磨は、額に脂汗をにじませた。懐に抱え込んだ手毬が、リリリリ、リリリリ、と震えた音を立て続けている。
うなじの後れ毛から全身の産毛まで、なぜか、感じたこともない怖気に総毛立った。
そこで、また舌打ちする。よく考えたら、考えるまでもなかった。
針金が、動き出した。
両腕をねじり合わせ、のたうたせながら頭上へと伸ばしてゆく。やがて巨大な固まりとなった針金の玉は、家ほどの大きさの鉄球となって、兵之進の頭上に降り迫った。
兵之進は、無邪気に嗤った。
ふわりと半ば溶け消えるように身をそらし、避ける。
眼前に叩きつけられた鉄球が、半ば埋もれるほど土にめり込んだ。土埃が巻き立つ。地面が揺れ動いた。地鳴りが響き渡る。
土の中に埋もれた鉄球が、剣山のような形に変わった。漆黒の針が、処刑の槍ぶすまとなって噴出する。
「うおっ……!」
一磨が潜む長屋の屋根にまで、黒光りする針が突き抜けた。足元が崩れる。
「っおっおっ落ちるでござ……アッーーー!」
兵之進は眼の前に迫る
わずかに頭を左へ傾ける。
その所作すれすれに、伸びきった無数の針がかすめた。結んだ髪の束が、ぶつり、と、音を立ててちぎれる。長い髪が肩に流れ落ちた。風になびく。
袴が、袖が。蜂の巣に撃ち抜かれた。貫かれる。
「全部……ハズレ」
息を整え、ひそやかに吐く。
裂けた袴から黄昏に白く、肌が露出していた。股下から膝までが破り取られる。
構わず、脇構えから地擦りで刀を振るう。炎と煙を引きずる光の尾が、急角度の弧を描いた。
交差する鉄の針を、一太刀で撫で斬る。
無数の鉄槍が、足元にバラバラと崩れ落ちた。
返す刀で、鉄球本体を断ち割る。
針金の鉄球は、熟した
細い針金だけが、死んだ宿主から逃れ出ようとして、グネグネとのたうち這い出てきた。
「……やっぱ、まずそう」
兵之進は、鼻に皺を寄せた。針金を踏みにじり、あっさり斬り捨てる。薄暗い煙が立ちのぼった。
背後から足音が聞こえてくる。
「おや。またお会いしましたね、兵之進さん」
終いの鐘の音が鳴り始めた。空はもう暗い。
暮れ六つが、過ぎる。
月が、のぼってくる。
総髪の頭に、
甘ったるい流し目に、ちらりと闇の気配を掃きまぶして。
青年は、しどけなく微笑んだ。
「と思ったら、随分としどけないお姿で」
青年は手に、
まだ走らせてもおらぬ刀の鯉口から、血の色の霧があふれ落ちていた。
「邪魔だ。消えろ。
兵之進は、横目だけをくれて、ぼそりと嘲った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます