弍ノ十四、あなたの腹の中に巣食っているものを暴く方が先です

 一磨は、相手の同心の顔を見て、顔をほころばせた。

「大丈夫だ、兵之進。あやつは、風烈廻りの荒木という。風水害の見回り役だ。多分に、この霧で盗人どもがうろついたりせぬよう木戸を閉じ、町送りをしておるのだろう。ちょっと待て。拙者が話をしてくる。おーい荒木どの、話が……」

 気安く手を挙げ、のこのこと歩き出そうとする。兵之進は息をつめた。

 一磨の袖を掴み、かぶりを振る。


「近づいてはいけません」


 足元を顎でしゃくる。一磨は眼を瞬かせた。

「何だ?」

「よく見てください」

「薄暗くてよく分からん……」

 御用、と書かれた提灯が、さながら闇夜に跋扈する物の怪のようにユラユラと踊っている。そのせいで、同心の足元には、いくつもの影が落ちていた。


 すでに、人の形を成していない影を。


 同心は闇深い笑みを浮かべた。痩けた頰骨、落ち窪んだ眼。打ち身でも作ったのか、目の周りがどす黒く変色している。髑髏のように見えた。


「荒木どの、そのお顔はどうなされた。怪我をなさったのか」

 一磨は声を低くした。

 同心が物憂げに答える。


「人騒がせな読売に町民どもが怯えるものだから、黒塚の刑場に見回りに行ったのよ。そこで何やら怪しげな輩を見かけてな」

「ほう」

「そやつが、わざと土砂崩れを起こそうとして、倒木や岩に細工をしていたので、捕り方総出で縄打って引っ立てた。はずが、そやつは何者かと内通し、牢から逃げ出しおったのだ」

「何者でござる、その悪者とやらは」


 同心は撞木杖しゅもくづえで地面を突いた。

「とぼけるでない。調べはとうについておる」

 揺れ動く提灯に照らされた足元の影が、なおいっそう、泥沼じみた濃いぬめりを帯びる。


「貴様らが、読売をばら撒き人心を騒がせ、扇動し、あまつさえお上に楯突く極悪絵師、恋町霞処の一味であることは明白。横井一磨、お上より十手を預かる身でありながらこの不始末、どう片をつけるつもりだ。蟄居閉門どころでは済まされんぞ」


 兵之進は、一歩、前へ進み出た。

「一磨は下がっててください」

 取り巻く群衆を、息苦しい思いで見渡す。

 青白くゆらめく無数の眼が、うつろに兵之進を見つめていた。霧に魂を抜かれて泥になったものたちは、現世では人の姿のままで見えるのかもしれなかった。

 一磨は声をひそめた。耳打ちする。

「罪なきものを切り捨てにはできん。どうするつもりだ」


「八丁堀の名に傷をつけるわけにはいきません。ここは僕がやります。蹴散らして道場まで走りましょう」

「だが、あれは、もう……泥なのだろう」

 一磨は歯を食いしばる。


 声が聞こえたのか、同心はしゃがれた声で嗤った。

「笑止。貴様こそ、家名に泥を塗る前に潔く腹を切れ」


 兵之進はさらにもう一歩、前に出た。

「あなたの腹の中に巣食っているものを暴く方が先です」


「やれるものなら、やってみるがよい」

 嗤う同心の眼に、青白い鬼火がゆらめいた。撞木杖で、強く地面を突き鳴らす。

「引っ捕らえい」

 房無しの十手を懐から出し、差しつける。

 配下の手下どもが、道幅いっぱいに広がった。

「御用だ」

「御用だ!」

 口々に叫ぶ。けたたましく吠え付く野良犬の群れのようだった。

 朧に燃える提灯が、めまいを起こしたように上下に激しく揺れる。


 下っ引が、輪を狭めながら近づいた。兵之進と一磨を取り囲む。

 六尺棒を振りかざすもの。提灯を掲げるもの。何重にも輪をこしらえた荒縄を構えるもの。赤紐の房付き十手を突きつけるもの。さすまたを突きつけるもの。

 せわしなく明滅する明かり。折り重なって迫ってくる御用のしるしが、まるでべろりと舌を出して笑う一つ目の化け提灯に思えた。


 息をつめ、腰の妖刀、《古骨光月》に手を置く。

 心臓が、ドッ、と跳ねた。身体の中で銅鑼が反響したようだ。

 意識が研ぎ澄まされる。泉に写る月の影。さざなみひとつ、風ひとつ、ない。

 刀柄を握る手が、異様に熱く、そして冷たい。


 背後に岡っ引きが回り込んだ。飛びかかってくる。その顔が、ドロドロと黒く溶けた。剝げ落ちる。

 岡っ引きどものさすまたが交差して突き入れられる。身をそらしてかわす。入れ違いに、間合いを詰める。

 鯉口を切った。

 《古骨光月》が、ぬめるような刃文を白く露走らせた。妖艶なきらめきが飛沫をあげる。

 抜きはなちざまに、ざん、と肩口から斬った。

 刃が食い込む、その手応えが異様に重たい。粘土を斬ったような反動が手に這いのぼる。

 一気に斬り下げる。

 泥を投げつけたような、黒い腐汁が地面に飛び散った。岡っ引きだった泥人形は、その場でビシャリと潰れた。地面に水たまりとなって広がる。


「まずはひとり!」

「おぬし、いったい、一人で何人を相手にするつもりだ」


 一磨が加勢に走り寄った。背中合わせに張り付く。

「八丁堀が御公儀に歯向かっちゃダメじゃないですか。御家おいえはどうするんです。お蘭ちゃんとの祝言は?」

 横目に振り返る。

 一磨の顔が、提灯に赤く照らし出される。その横顔は、にやりと笑いつつもひきつってゆがんでいた。

「拙者の目は節穴ではないぞ。岡っ引きごときに赤総紐ふさひもの十手を持たせて、てめえがしょぼくれた借り物のボロ十手を振り回す同心なぞ、この世にはおらんわ」

 一磨は袖をまくりあげた。ぶん、と振り回す。

「よって、ぶっ飛ばすでござる!」


 中身がヒトではないと気づかれたせいか。同心の、血色の悪い唇が嗜虐的に吊り上がった。目が剃刀の刃のように細められる。そのせいで、顔の皮が、ズルリと剥けた。


 兵之進は、柄を強く握り直した。

 一磨に背中を預け、周囲を見渡す。

「さすがはあんみつ同心。目の付け所が違いますね。恐れ入りました」

「何の。ここでいい格好をしておけば、綺乃どのと添い遂げられるかもしれんだろ!」

「お蘭ちゃんを泣かせちゃ可哀想でしょ」

 豪胆に笑い交わす。


 敵は、周囲をめまぐるしく走り回る。隙あらば襲ってこようという魂胆か。

 ピーイ、ピーイ、と耳を刺すような呼子の音が吹き鳴らされる。土を踏み荒す荒々しい音。乱れる息。

「かかれ!」

 一斉にさすまたが突き入れられた。誰かが網を投げた。足元に絡まる。


 兵之進は網を切り裂いて走った。石つぶてが頰をかすめる。

「押し通る!」

 下っ引を斬り倒し、むしゃぶりついてくる捕り方を蹴倒す。

「うおりゃああ大車輪の術!」

 一磨は、拳を作った腕をぶんと振り回した。まとめて五人ほどの首を腕で刈って、壁に叩きつける。

 どれもが人の形を留められず、その場で泥の塊と化す。

 御用提灯が地面に転がる。炎が紙に燃え移った。


 半鐘が、耳障りに鳴り始めた。

 兵之進は刀を脇構えにして突っ走った。行く手を阻む下っ引を切り上げ、斬りおろし、泥の海を踏み越えてさらに走る。

 目の前に同心が迫る。

 同心は杖を振り上げた。引きずる足の側ががら空きだ。打ち掛かってくる杖を受け流して横へ回り、外側から腕を斬った。

 はずだった。

 斬ったはずの腕が、異様に折れ曲がって切っ先を避ける。


 杖が振り抜いた向きと逆に動いて、兵之進の横腹を突いた。

「ぐっ……!」

 かろうじて跳ね退いて、追撃を避ける。

 同心の腕が、ありえない角度と形に曲がっていた。攻撃の衝撃か、手首がねじれて折れ、杖ごと落ちた。

 代わりに、黒い、細い、長い針金のようなものが、ヒュン、と振り出されるのが見えた。

 ヒュン、ヒュン、と。鞭めいた風切りの音が鳴る。縒れていた針金が分かれ、のたうち、蠢く。

 溶け落ちる泥の下から現れたのは、針金で作った骨組みとしか言いようのない、異様なかたち。


 暮れ六つの最後の鐘の音が、いんいんと響きわたった。

 終わりの鐘だ。


「しまった、もう暮れ六つか」

 一磨は空を振り仰いだ。

「このままでは間に合わん。兵之進、ここは拙者が引き受ける。綺乃どのに何かあっては遅い。おぬしは道場へ走れ」

 追い立てるようにして声を高める。


 兵之進は首を振った。

「だめです。相手はあやかしだ。普通の刀じゃ斬れない」

 口の中に血の味がした。打たれたときにどこか切ったらしい。

 鉄を噛むような、嫌な味が広がった。息が苦しい。

 喉の奥が焼け付く。目の前が薄暗くなる。


 舌先で口の端の血を舐め取る。背筋がざわり、と震えた。

 あの味に似ている。あれはいったい、何の味だったか。もう少しで思い出せそうな気がする。甘くて、苦くて、切なくて、懐かしい、震え出しそうな味。もっと、もっと、もっと、欲しい。


 兵之進は血の気の失せた青白い顔を、わずかにゆがめた。


 生まれつき血が薄いのだ。誰かが言っているのが聞こえた。忘却の彼方、遠い過去から聞こえてくる声。

 そうだ。思い出した。


 


 誰の手を煩わせることなく、ひとりで歩けるようになる。走れるようになる。こんな敵など、一太刀で刈り取れる。啜り尽くせる。

 これは、そのための牙ではなかったか。

 月夜に振るえば、羅刹となる。そう、言い伝えられた、家宝の刀は。


 ドクン、と。

 心臓が乱れ打った。


「大丈夫。すぐに終わらせます……こんなの、全部、喰らっちまえば……いいん……」


 闇に、赤く。鬼火が灯る。

 ドクン、と。心臓が跳ねる。

 妖刀を握る手に、鈍い鼓動が伝わった。

 ほそめた眼に、透き通る赤が混じる。

 叢雲を割って姿を現した月と同じ、深紅の色が。


「おい、兵之……」

 一磨の声が遠い。遠すぎて、聞こえなかった。

 夜の冷ややかな空気を、大きく吸い込む。嗤う口許に、白く、するどく、あでやかに尖る歯が光った。

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