弍ノ十二、夜が来る
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「おい待て。どうするのだ、兵之進。本当に道場へ戻るつもりなんだろうな」
一磨が唐突に問いかけた。
壊された黒塚町の木戸をくぐり、外へ、現世へと戻ったはずだというのに。
周囲は変わらず、澱んだ霧の海に包まれている。
店前で立ち話の女将。
大根を吊るした天秤棒を担ぐ、
立ち縄で縛った樽酒を乗せた大八車を数人がかりで押す人夫。
三度笠に道中合羽、手甲に脚絆の股旅。
積み上げた空き箱の上で丸まる猫。
すべてが泥でできている。何一つ、動くものはない。ただ、ガタガタと風に板戸が揺れる音が空虚に吹きすぎてゆくばかり。
兵之進は、鈍色の雲に押し包まれた空を見上げた。太陽が今どこにあるのか、それすら分からない。
時間の感覚が、驚くほど麻痺しているような気がした。
頰に触れる髪が、風にほつれた。わずらわしくまとわりつく。
一磨は、懐から何やらかまぼこの板のようなものを取り出した。耳に押し当てる。耳鳴りめいた単調な音が漏れ聞こえた。
「まずいな。佐七とも連絡がつかん」
「何ですかそれ」
「忍法、伝声板の術だ。
「何ですかそれ。暗号?」
「忍者の符牒だ。いくら兵之進であっても、この秘密暗号の解読方法だけは決して教えるわけにはゆかんのでな。許せよ」
「ええっ、それで佐七さんに連絡がつくんですか!? 何か怖い」
「首がなくても平気な妖刀使いに言われとうはない。これは、うちの母方の祖先の
一磨は役立たずの板を懐へと戻した。
また、うら寂しい風が吹きすぎる。
ほんのいっときを無駄にしただけでも、空気の匂いから風の冷たさまで、刻一刻と不穏に移り変わってゆくような気がした。
今から急いで道場に戻れば、暮れ六つまでには当然、間に合うはずだ。なのに、不安ばかりがこみ上げる。
「何だか、嫌な予感がします」
兵之進は、立ち尽くす泥の柱に近づいた。取り憑かれぬよう気を張りつめ、様子を窺う。
物の怪の気配はなかった。単なる泥人形と成り果てている。ここにあるのは、黒いヒトガタに魂を連れ去られ、何処かへと去った跡の、抜け殻のみ。
ヒトガタの群れは、いったい、どこへ。
まさか、本当に、道場へと向かったとでもいうのだろうか。
兵之進は、みずがねのごとく赤く光る眼差しを四方へと走らせた。
どこかから、目に見えぬ黄昏の光が射している。どこまでも霧の道が続いて、先が見通せない。
寒気が忍び寄った。ぞくりと背筋を震う。
「とにかく、できるだけ早く戻った方が良さそうですね」
無意識に手をこすり合わせながら、兵之進は言った。一磨も同感のようだった。
「うむ。その方が良かろうて。綺乃どのの身も案じられるでな。お一人で道場を守られるは、さぞや心細かろう。きっと我らが戻るのを心待ちにしておられるはず。『きゃあああやかしが、助けてぇ一磨さまぁ』『綺乃どの、ご無事でござったか!』『さすがは一磨さまステキ! きっとおいでくださると信じておりましたわ!』……とかなんとか! お気は強くともやはりかよわい
「……綺乃さん、僕なんかよりはるかに強いんだけど……」
「む? 今、何と?」
「いえ、何も!」
「何でもいい。さっさと帰る方向を教えてくれ。さっきからぐるぐると当てどなく歩いてばかりで、拙者には、ここが何町なのかさえ分からん」
一磨は身を乗り出しながら急かす。
「はい?」
兵之進は意表を突かれ、少し呆れて聞き返した。
「何言ってるんです。ぐるぐるだなんて。全然、歩いてませんよ? 今さっき恋町さんと別れて、木戸を抜けたばかりじゃないですか」
一磨はむっとした顔をする。
「おぬしこそ何を言うか。もう一町か二町ほどは歩いたぞ。珍しくおぬしが渋い顔をして、えらく足早にすたすたとあっちへ曲がり、こっちへ曲がりと行くものだから、拙者は付いて行くだけでも一苦労であった。歩いても歩いても景色が変わらんしな」
「えっ、だって、さっき渡った橋がまだそこに」
怪訝に思い、振り向く。
霧にボンヤリと浮かぶように見えていた黒い流枝の松が、ユラユラと蜃気楼めいて歪み、霧散した。
今しがた出てきたばかりの木戸、渡ったばかりの橋すら、もう、どこにも見えない。
代わりに、女の濡れ髪のような枝垂れ柳が、枝を川面に流している。
「えっ、ここ、どこ?」
兵之進は愕然と立ち尽くした。心もとなく、四方を見回す。
一磨は泣きそうな顔をした。
「なぬぅっ!? おぬしが分からなんだら、拙者にはもっと分からんぞ?」
「まさか」
「そんな」
二人で顔を見合わせる。
「……迷子になっちゃった?」
「おおおお何たる事!」
一磨が頭を抱えた。
まさか、
兵之進は焦る気持ちを噛み殺した。ぽんと手を打つ。
「これがホントの、行きは良い良い帰りは怖い、ってやつですね」
「冗談言っとる場合か。もたもたしてると、木戸が閉まってしまうぞ」
町木戸は暮れ六つで閉まる。
それ以降は木戸ごとに番が詰める。もし夜分に通る者があれば面通しをして拍子木を打って、次の町木戸へ通行人の存在を知らせる決まりになっていた。
表通りのぼんぼりに、人の姿もないのに、ポツリ、と明かりが入った。
いつの間にか、怖いほど薄暗くなっていた。時は、刻一刻と過ぎてゆく。
また、髪の毛が風に乱された。顔にまとわりつく。払いのけた。取れない。
兵之進は深呼吸した。荒れた息を整える。
「綺乃さんなら、大丈夫だとは思うけど」
朧月夜にも似た灯りが、はるか遠い道の先まで、どこまでも続いている。
もしかしたら、最初から、こうなると分かっていて、わざと手引きした者がいたのかもしれない。
もし、最初から、読売に描かれた内容が真実になることを知っていたなら。
もし、あの読売が、兵之進たちをこの霧に閉じ込めるための罠であったとしたら。
もし、暮れ六つに間に合わなかったら。
そろそろ頃合いだ、と。
あの
霧が流れ出す頃合いだ、と。
恋町が読売を調べに出て行き、さらに自分たちまで後を追えば、必然的に、綺乃ひとりが道場に残されることになる。
誰も守るもののいない道場に、たった一人で。
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