弍ノ十六、その言葉、よもや正気とは思えん

「ひどい言い草だ」

 百眼ひゃくまなこの面を顔に引き下ろしながら、男は口元に薄い笑みを乗せた。朱の刀を取る手をわずかに持ち上げ、会釈する。


 鬼火を宿した住民たちが、男の背後に寄り集まった。声もなく、ただ、じりじりと近づいてくる。

 兵之進は眉間のあたりに皺を寄せた。

「何のつもり、それ」

「せっかく、あなたに差し上げようと思って、新鮮な活き餌を用意しましたのに。喜んでくれると思ったんですけどねえ? が、のでしょう、?」


 少し離れた瓦礫の下から、埃だらけの一磨が起き上がった。がらりと割れた瓦が崩れる。

「あいたた、腰をやってしもうたが。うう、ギックリでござ……」

 仮面のはずの百眼ひゃくまなこが、一斉に、視線を横に走らせた。


 刹那。


 藍と鬱金の暗がりに沈む夕闇の影に、何か丸いものが刎ね飛んだ。

 岩を投げつけたかのような、ひどく重たい音を立てて地面を転がる。ごろり、ごろり。さらに、ごろりと。余勢を駆って回ったあと、ようやく止まる。

 『ござる』と言い損ねて、ぽかりと口を開けっぱなしになった、一磨の、頭にしか、見えないもの。


 一磨だったものの残りが、そのまま傾いて倒れた。重みに耐えかねて裂けた土のうから砂が吹き出るかのように、切れた首の断面から、さらさらと砂がこぼれる。

「あ、しまった」

 百眼ひゃくまなこの背中が、往来に広がる炎に照らし出されていた。砂袋に片足をかけて踏み潰し、苦笑いする。

「またつまらぬものを斬ってしまった。困りましたね。手前てまえとしたことが」

 屈託のない、照れくさそうにすら見える笑顔を浮かべている。その手にある刃は朱殷しゅあんの墨をしぶかせたように濡れ光っていた。


「……何者だ、あやつは」

 兵之進の背後で、本物の一磨が唸る。

「知らない。でも」

 兵之進はどうでもよさげに答えたあと、視線を百眼ひゃくまなこへと戻した。

「すげぇ、ムカつく」


 百眼ひゃくまなこの面が、いっせいに目をほそめた。

手前てまえをご存じない? おや? やはり、どうもおかしいですねえ、? 手前てまえとあなたは、百夜改びゃくやあらためを追い出されるまで、同じ組のものとして肩を並べ、共に戦った仲ではないですか」

 こちらに背中を向けたまま、顔だけを肩越しにねじって、あおる目線を走らせる。


「仕方ありませんね、恥ずかしながら、改めまして自己紹介を」

 百眼ひゃくまなこの面の下、男の口元が、喜色の笑みにつりあがってゆく。

手前てまえ、一度は目指した絵の道なれど、師の目に適わず道半ば。今となっては外道の外に足踏み外し、人相墨色に身を持ち崩し、尾羽打ち枯らしてのなれの果て。号を恋町、名は秀清しゅうせいと申します。以後お見知りおき下されませ」


「恋町……」

 一磨がひそかに息を呑む。


「ねえ、兵之進さん。あのひとは息災にしていらっしゃいますか?」

 恋町秀清は歌うように笑って、妖刀をかざした。血の霧を振り散らす。刃を取り巻く暗褐色の煙が冷やされ、網の目を描いて腕を伝い、ぼとぼとと地面にこぼれ落ちた。

「ずるいなあ、あのひとも。一門の中でたったひとり、霞処かすがの名を継いでおきながら。一番大事なことを、わざと、ずうっと黙ってるだなんて、ねえ?」

 にこやかな口振りは、まるで口さがない噂話に花を咲かせるかのようだ。


「さてと。余計なおせっかいはここまでとしますか。手前は百語堂へお邪魔して、綺乃さまにご挨拶をしてまいります。あとは、お友達がお相手をしてくださいますよ」

 秀清は、血振りで闇を切り分けたのち、よどみなく鞘へと収めた。きびすを返す。

「おい、こら、待て、逃げる気か!」

 一磨が十手を取り出し、後を追おうとした。秀清の姿が、鬼火のまつわる人々の向こう側へとまぎれて消える。

「待て!」


 その行く手を、鬼火に操られた人々がさえぎった。包丁だの、くぎぬきだの、中には鍋のふたにしゃもじを持つものまでいる。それらを振りかざし。

 どよめきも発せず、無言で一磨に打ちかかってくる。

「おい、こら、邪魔するない! 道場へ行かねば、奴が、綺乃どのを!」

 かろうじて掻き分け、前へと転がり出た一磨の頭上。


 殺気が走った。

 散らばる切っ先が、炎の照り返しを赤く反射する。

「むっ!」

 一磨は、横に飛んで逃れた。

 無数のクナイが地面に黒く染めるほどの数で突き立った。逃げる一磨の足元を追いかけ、さらに、撒菱がばらまかれる。

 ピンクの影が、ましらのように夕空を駆けた。屋根を蹴って隣屋根へ、炎を飛び越え、さらに高く跳ねる。

 見下ろす無表情な顔の中に、青白い鬼火がゆらめいた。


「お蘭!」

 一磨が歯をくいしばる。お蘭は答えない。


 音もなく着地したピンクの忍び装束、雲隠れのお蘭は、背中に落とし差しにしていた匕首あいくちを逆手に引き抜いた。無表情のまま、兵之進に襲いかかる。切り結ぶ直前。

 宙に跳ねた。頭上に鬼火が走る。

 ばらばらと焙烙玉ほうろくだまが降った。続けざまに割れ、爆発する。煙が立ち込めた。

 構わず、兵之進は走った。

 空に足場はない。たとえ手が届かなくとも、向きを変えられぬ空中からの着地、それ自体が最も無防備になる。

 落下地点へと走り込む。着地の瞬間。狙いすまして斬りつけた。


 剣戟の火花が散った。

 十手が、妖刀の刃をがっきと受け止めている。


「血迷うたか、兵之進」

 激情の色が、一磨の眼にあかあかと写り込んでいた。

「邪魔です」

 兵之進は薄笑いで答えた。構わず押し返して、逃げるお蘭を追う。

「やめろ! あれはお蘭だ。分からんのか?」

「見れば分かりますよ、馬鹿なことを!」


 兵之進は振り返りざま、追ってくる一磨を斬った。真正面から受けた十手と鍔迫り合う。鉄の音が軋んだ。

「何をする!」

「あれは泥人形です。さっきの同心を見たでしょう。同じですよ。早く殺してあげないと……」

 兵之進は平然と言い放った。互いにぶつかり合い、切り結ぶ。火花と剣戟の残響が散った。

「その言葉、よもや、正気とは思えん」

 炎に照らされた一磨の顔が、半分、暗い影に沈んだ。険しくゆがむ。


「まさか……鬼に喰われた……というのは、本当なのか……?」


「誰が、そんなたわごとを!」

 兵之進は笑って身をひるがえした。逃げるお蘭を追う。

「やめろ、兵之進!」

 一磨の声が悲痛に響いた。

「頼む、やめてくれ……頼む……このままでは、おぬしを斬らねばならん……!」

「あなたに斬れるんですか、この僕が!」

 捨て台詞で罵倒する。


 兵之進は、火のついた木切れを拾って、お蘭を追った。

 お蘭は人混みに逃げ、その奥から煙幕を投げた。ピンクの煙が夜空を毒々しく染めてゆく。

 顔を袖で覆い、煙を突っ切って走り抜ける。

 逃げ場を失ったのか、お蘭は燃え盛る往来の真ん中で、呆然と立ち尽くしていた。

 青い鬼火が、ユラリとなびく。


 どこかから、犬の遠吠えが聞こえた。


 いつの間に、星も見えぬ闇夜になっていたのか。振り仰いでも何一つ定かに見えない。その、夜空から。

「おおおーーーん……」

 朗々たる遠吠えの声が近づいてくる。

 空から、何かが降ってくる。


「えっ?」


 まんまる真っ黒な毛玉が、もふっと膨れ上がった。狙い澄ましたように、まっすぐ兵之進の顔めがけて飛来。

 したかと思うと、一寸も違わず鼻先に直撃。

 ぼよーん、と跳ね返る。


「ふぎゃあぁぁっ!」

 兵之進は、衝撃で顔に鼻がめり込みそうになるほどのけぞった。

「この!! クッソまみれのド外道が!! 寝ぼけるのも大概にしさらせや……ッ!」

 続いて、どこからともなく飛び込んできた赤丹前の男。ほぼ丸出し状態の着流しの前をだらしなくはだけ、兵之進に飛びかかる。手にしているのは、水の入った桶。


「これでも被って、大人しくネンネしとけってんだよ、この、ボケナス刀があーーッッッ!!!!」

 怒鳴りつけるや、兵之進の脳天めがけて、中身の水ごと振り上げた桶でぶん殴った。


「ぎゃああああっ、あっ……!!」

 赤丹前の男は、一発で気を失った兵之進を担ぎ上げた。手からこぼれ落ちた《古骨光月》を拾い上げ、振り返って、ぽかんとした顔の一磨に怒鳴りつける。

「道場だ! 行くぞ、一磨!」

「先生!?」


 恋町霞処は、姿を隠す黒い霧をとんびの羽のように広げて、地を蹴った。

 長屋の前に並べられた巨大な天水桶めがけ、うずたかく段状に積み上げられた手桶を足場がわりに駆け上がる。

 勢いで手桶が転がり落ちた。

 天水桶が割れて、中に溜められた雨水が路上にぶちまけられる。

 恋町は、そのままうだつを蹴って、続きの屋根へと跳んだ。目くらましの霧を突き破り、板葺きの屋根を踏みならして、突っ走る。

 その後ろを、一磨の巨体が音もなく追った。

「先生! これはいったい……!?」


「話は後だ」

 恋町は、肩に兵之進を担いだまま、屋根から飛び降りた。

 路地裏に身をひそめ、背後の様子をうかがう。

 息一つ切らしたようすもない。

「しかし、お蘭が」

「あれは操られてるだけだ。こちらから反撃しねえかぎり、命に関わることはねえ」

「しかし、さっきの兵之進は」

 兵之進はまだ、頭に手桶を被ったままだった。気を失っている。

「ああ、分かってる。畜生、この、ドアホが!」

 恋町は、腹立たしげに吐き捨てた。手桶越しに兵之進の頭をグーでぶん殴る。

「なんで暮れ六つの禁を守らない! 目を覚ましたらぶっ殺す!」


「先生、恋町先生! 拙者には、もう、何が何だか……!」


 一磨は、半分くらい泣きそうな顔で訴えた。

 恋町は、再び兵之進の身体をしっかりと担ぎ直した。

 振り返る。


「分かったよ、教えてやる。こいつは」

 路地裏の闇に、破れた兵之進の袴からのぞく肌の色が、異様に白く、浮かび上がった。

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