弍ノ五、ただのホウキとは違うのだよ
竹筆の先につけた墨の雫を、絵に振り飛ばす。絵の中の女に、黒い飛沫が走りついた。
女は悲鳴をあげた。煙の立つ顔を手で押さえ、仰け反る。背中までグニャリと曲がった。
勢いで、着物の内側にたくし込んでいた
「アアアア……何を、何をじだァ……!」
押さえた手の下。
絵の中と同じように、女の顔半分が、漆黒の闇で
美しかった擬態の仮面が、ベロリと皮ごと剥がれていた。作り物の顔が裏返って垂れ下がる。
下から現れたのは
「
恋町は骨張ったすねを突っかいに立てて、よいしょと立ち上がった。
「にしても、
「アンタ、まさか、
欠けた顔からダラダラと墨を垂らしながら、女が吠える。
恋町は、平然と無視を決め込んだ。さんざんに描き散らかした春画を、大事に懐へとしまい込む。
「はて、新作の題名は何がいいかねえ? 『怪奇ぬらぬら蛸〜女万華鏡八股地獄』とか? おっ、わりとイイ感じじゃね?」
「ぶざげるぬァァァ誰が逃ずもんがェェェェェェェ……!」
女は、両腕に勢いをつけて身体をねじり、蠢く足を投網のように打ち拡げた。横に回転しながら飛びかかってくる。
その中心部に、おぞましくも人間めいた歯がずらりと円形に並ぶ口が黒く開いた。
「これでも俺は良識派なんだよ。まったく、もう……いくら蛸だからって、その体勢は描写禁止。一発発禁もんだぞ」
恋町は、うんざりと吐き捨てた。
口をへの字に曲げ、竹筆に墨をたっぷり含ませる。
「この痴蛸が。カラス
墨に浸した竹筆を、上段から左払いに振り下ろす。
「ギャァッ!」
溢れ出た墨が、女の右半身を黒く塗りつぶした。
返す手つきで横一線に薙ぎ払う。
「修正!」
黒い墨が、空気ごと女の胴をダルマ落としに刈り飛ばす。
衝撃で跳ね飛ばされた女は、床に黒い液体を飛び散らせた。ビタンビタンと上下にのたうつ。
「ギャァァァッ……」
「発禁! 焚書! ……は可哀想だからやめとくわ。じゃあな。また後で。俺ァ、ちょいとばかし急いでんだよ」
恋町は手を振って背中を向けた。牢獄の石段を足早に駆け上がる。
跳ね上げ戸を押し上げた。外に出る。
やはり、誰もいない。
わびしい風の音がした。どこかで雨戸がガタガタと鳴る。
一歩、踏み出した足元が、めり込むほどにぬかるむ。
まるで、町全体が滅びた沼の底に沈んだかのようだった。ほの暗い霧に、どっぷりと包まれている。
「まだ昼にもなってねェはずだが、何だ、この暗さ。おい、誰も居ねえのか」
首筋を冷たい風が撫でた。ぞわりと産毛が逆立つ。
「おいでなすったか」
恋町は指先を舐め、風向きを探った。異様の風は金神の方向から吹いてくる。
腐臭と汚濁、怨念の入り混じった臭い。
「ョゥウ……ィィィァ……ニェェ……」
遠吠えを思わせる呻き声が聞こえた。
ほの暗い霧が、流枝松の枝垂れる土手にぶつかって、往来へと溢れ出ていた。
霧風が、水かさの増した水路を這う。
霧に
泥人形から、黒い煙のようなものがユラリと滲み出る。
影は、身体を前後左右にふらつかせながら、何処かへと、列をなして歩き始めた。
どこへ行こうと言うのか。
「……ィグゥ……」
「ヒァ……ガァ……ァゥゥウゥド……」
「……クァ……タァ……リゥ……」
総毛立つ声が聞こえてくる。
恋町は、影の向かう先を見やった。
背後を振り返る。
背中の襦袢が、やけにひやりと冷たい。
影は、隣町へと通じる木戸へと向かっている。
恋町は思わず、かすれた口笛を鳴らした。
「クッソ、あの野郎……また
脳裏に、オムツとふんどしを洗うこと以外、さっぱりあてになりそうもない連中の顔が思い浮かぶ。
「あのひよっ子の鼻垂れども、またぞろ余計なことに首を突っ込もうとしてねえだろうなァ?」
裾をからげ、ぬかるみを跳ね飛ばして突っ走る。
唐突に。水たまりの下から黒い手が伸びた。
「うっっっっぜぇ! 邪魔してんじゃねェッ!」
空をむさぼる屍の手を飛び越え、韋駄天に走る。
隣町へ続く木戸の番屋が見えた。
提灯に火を入れでもしたのか、そこだけがなぜか、ぼんやりと霞んで黄色く、誘うかのように揺れている。
提灯の下で、竹ぼうきを六尺棒がわりに抱えた番太の爺さんが、こっくりこっくり、居眠りしていた。
「おい、ジジイ! 起きやがれ! 木戸を閉めろ!」
尻を蹴飛ばす。グチャリと音を立てて、老人の形をした泥が崩れた。
「……喰われてやがる」
恋町は舌打ちし、懐紙を取り出した。交互に裂いて切れ目を入れ、段状に折って即席の
全部で四枚、取り急ぎ作り、泥の番人の首に無理やりねじ込んだ。ついでに鍵の絵を描き、あちこちに貼り付ける。
「
言いながら、泥人形の持っていた竹ぼうきを取り上げ。
代わりに、その辺に立てかけてあった竿を持たせて、顔がわりの手拭いにへのへのもへじを描いて、竹笠をかぶせ。
最後に、木戸のくぐり戸を蹴っ飛ばして閉める。
「さてと。大小二本もなしに、どうやってこいつらをぶっ殺すかだが」
手ぐすねをひいて袖をまくりあげ、指の骨をいっぺんにまとめて鳴らす。
「生き霊だとすると、下手に消しちまうのはマズイ」
恋町は酒徳利に残った墨を、すべて竹ぼうきに垂らして染み込ませた。
ぶん、と風を切る唸りを上げて竹ぼうきを振る。
その勢いで提灯をかっ飛ばした。引火する。
竹ぼうきの先が、松明となって激しく燃え上がった。
「いいねェ、これぞ炎の剣! って感じ? やっぱ第一印象が大事よな、この、ただのホウキとは違うのだよ的ないい感じの……はァ?」
振り返る。
さっき閉めたはずの木戸が、いつの間にか開いていた。それどころか、寄り集まったヒトガタどもが番屋になだれ込んで、押し合いへし合いしている。
板塀の折れる音がした。次いで悲鳴。そして。
結界の割れる、致命的な音が響き渡った。
せっかく張った
ヒトガタの群れが、異様なうめき声と啜り泣きを漏らしながら、現世に向かって溢れ出てゆくのが見えた。
橋を渡り、スゥ、と消える。
誰かが、転がるように番屋から飛び出してきた。ぶよぶよと黒いヒトガタの影にまとわりつかれている。叫び声がした。
「何なんだコイツら。ハァ!? この俺様がせっかく真面目に働いてるっつぅのに邪魔を……!」
完全に頭にきた。
要らぬ真似をしやがったクッソ大間抜けの、クッソアホンダラの、クッソたれな大うつけどもに駆け寄る。
「何しやがんだ、この、クッソまみれのド外道どもが!!」
恋町は、燃え盛る竹ほうきの柄を、鬼の形相で振りかぶった。
「テメエら全員、地獄で腹かっさばいて詫びろ!!!!」
脳天をかち割る業火の一撃を叩きつける。
火の粉が、あかあかと燃えて降りしきる。
その瞬間。
「あ」
恋町は、自分がぶん殴った相手の顔を間近に見た。
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