壱ノ二十、ちょっとヤらしい雰囲気を醸し出そうとしてません?
蜘蛛女が続けざまに糸の弾をばらまく。糸引く白い塊が、一磨の足元にビチャリとこびり付いた。
「うぉっ!?」
足元から膝にかけて、ねばつく餅のような蜘蛛の巣がまとわりつく。
「一磨!」
兵之進は、からみつく蜘蛛の糸を何とかして振りほどこうと、刀を持つ手に力を込めた。
刀身に触れた糸は、異様な臭いの煙を吐いてドロリと白く溶け、足元に垂れ落ちる。が、肝心の手そのものが、べったりと壁に貼り付いてしまって、自分自身を縛める糸を切ることができない。
「ああん、もう、最悪!」
袴は捲れ上がるわ、道着ははだけそうになるわ、髪の毛も貼り付くわ。まるでネズミ捕りにかかったネズミだ。
「何の、これしき!」
一磨は、恐ろしく伸縮する糸を引きずりながら
「ふんむむむむおお……!」
糸が限界まで伸びきった。さらに引き延ばす。
ついに、ブチッと音を立ててちぎれ飛ぶ。
「んがっ!?」
ちぎれた反動で、一磨は、壊れた大八車に頭から突っ込んだ。木箱の中に残っていた壺が、今度こそばらばらに吹っ飛んだ。けたたましい音を立てて割れる。
中身の液体がこぼれて広がった。ぬかるんだ往来を、さらにとろりと茶色く染めてゆく。
「な、な、何だこれは。ぬるぬるで立ち上がれん……ぐへぁ!」
立ち上がろうとした一磨は、思いっきりつるんと足を滑らせて転んだ。
もがきながら地面に手をつき、何とか前へ進もうとして四つん這いになるも、その状態でにゅるにゅると足掻いた後、右に左にとすっ転ぶ。
まさしく七転八倒。
兵之進は、鼻をすんすん言わせた。眼をぱちくりさせる。
「この匂い……もしかしてごま油じゃないですかね?」
「もしかせんでもごま油だな」
「ぬちょぬちょじゃないですか……ちょっとヤらしい雰囲気を醸し出そうとしてません?」
「おぬし、いったい何を想像しておるのだ!」
一磨は満面紅葉を散らしたような顔をして、怒鳴りかえした。
「言っておくがおぬしも相当の絵ヅラだぞ。鏡を見ろ!」
その背後に、蜘蛛女が迫った。巨大な鞭状の糸束を口から吐き、首を大きく振って叩きつける。
「一磨、後ろっ!」
兵之進は肩の関節が捥げそうになるのも構わず、身を乗り出した。声を枯らし、怒鳴る。動けない自分が情けなかった。壁に貼り付いた手から、刀がこぼれおちそうになる。
糸が一磨の首に巻きついた。
糸は、ギリギリと恐ろしい音を立てて一磨の首を絞めあげてゆく。大蛇が巻きついているように見えた。
「ぐうっ……んぐ?!」
首を絞められ、吊り上げられ。息が止まったかのように見えた一磨の顔が、ふと、怪訝そうな面持ちに変わった。
「何だこれは。全然苦しくないではないか」
ぬるぬるの手で糸をむしり取る。あれほど粘着質だった糸が、まるでうなぎみたいに、手の中でヌルンと滑った。
「ほお……? これはもしや、油が弱点……」
一磨は、勝利を確信した不敵な笑みを浮かべ、蜘蛛女を振り返る。
「ギィガァァアアアアア……!」
蜘蛛女は、全身の毛を逆立てんばかりにして威嚇の叫び声をあげた。顎の牙が激しく噛み合わされる。
顎が縦横の四つに裂けた。
元あった顔の部分よりもはるかに太い糸が、発射口の中で縒り合わされ、捻りあげられて、無数の切っ先を持つ凶悪な槍と化してゆく。
「アッ」
それを見て。
一磨は、いきなり動かなくなった。
半ば気絶。半ば解脱。今にも幽体離脱しそうな笑顔で、白目を剥いている。
「ァヒャ……もう無理でちゅ……怖いでちゅ……アヒャヒャ……」
どうやら恐怖のあまり、どこか大事なところが壊れたらしい。壺を抱えたまま、からくり人形みたいにかたかたと顎を鳴らしている。
「一磨ぁ!」
兵之進は声を限りに叫んだ。
悲痛な訴えも、一磨の耳に届いた様子はない。
「しっかりしてくださいってば!! 一磨!」
「ゴハァ……ァァァァ……!」
蜘蛛女が、身体を弓のように仰け反らせた。骨をたわませ、引き絞る音が聞こえる。
狙うは、壁に磔状態のまま身動きひとつ取れぬ兵之進。
「ブッビャァァァァーーー!」
一抱えほどもある糸の槍を発射する。
鏑のような轟音を立て、糸の徹甲弾が迫る。尖頭はさながら巨大な
兵之進は歯を食いしばった。
もはや、これまでか。
大きく、最期の息を吸い込む。
残るはこの方法しか、ない。
「一磨ぁ! 稀代の黄表紙作家、
ちょっぴり嘘をついた。そんな本はない。
「三冊買うでござる!」
一磨はばね仕掛けのように跳ね起きた。
手にした油壺を、豪速球で投げ込む。
壺は兵之進の頭上で砕け散った。雨に混じったごま油が、淋漓と降り注ぐ。
油に溶けた蜘蛛の糸が、粘性を失ってだらりとぬめった。
「取れた!」
兵之進は古骨光月を握り直すなり、地面に身を投げた。手をついて転がり、逃れる。
直後。
糸が、壁に突き刺さった。ほんの一瞬前まで、兵之進自身が貼り付いていた壁だ。
木っ端微塵に砕け散る。
地面を蹴る。兵之進は、丸木橋のようになった糸を足場がわりにして、八艘飛びに空中を走った。
妖刀を引っさげ、迫り来る追撃の糸を打ち落としながら、蜘蛛女の本体へと迫る。
壁を突き破った糸がほどけ、巻き取られるように跳ね上がった。背後から触手のように追いかけてくる。
兵之進は、糸を強く蹴った。
一気に、距離を縮める。
黒いガラスのように光る八目が見えた。妖刀を振りかぶる。
「
気迫をほとばしらせて。
肩口から胴体までを一息に斬りつけた。火とも雪とも氷ともつかぬ疾風が、魔性を断ち切る。
蜘蛛女の身体は、溶けた餅のように崩れた。
兵之進は小さく息をついた。
魔物を斬った血に反応してか。妖刀が燐火をゆらめかせる。
見つめる眼の奥に、鬼火が紅く映り込んだ。白く吐いた息が、火照る。
「怪我はないか」
一磨が、げっそりした顔で歩み寄ってきた。
「ええ。おかげさまで。助かりました。ほんと危なかった。危うく死んじゃうかと思いました……」
兵之進は、何でもない顔をして血振りし、納刀した。手を差し伸べる。
その、背後で。
胴体を半分失った蜘蛛女が、音もなく身を起こした。
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