壱ノ二十一、流枝の松

 半ば折れた前肢が叩きつけられてくる。

 兵之進は振り返りもしなかった。わずかに身を横にずらして避ける。頰を黒い風がかすめた。だが、そこにはもはや敵意も生気もありはしない。


 蜘蛛女の成れの果ては、前のめりにどうっとくずおれた。身体の表面が、黴びた黒い毛玉に覆われたかのように、ゾワゾワと蠢いている。一瞬、膨らんだ。破裂する。黒い毛玉が無数に飛び散った。


「うぶっ、何だ、これは」

 一磨は息を吸い込まないよう口元を袖でかばった。片目をすがめる。

 兵之進は人差し指を出した。細い糸が指先に絡まる。

「蜘蛛の子ですね」


 小指の爪より小さい蜘蛛の子が、糸の先でじたばたと吊り下がっていた。ほかの毛玉は、まさしく蜘蛛の子を散らすように四方八方へと逃げてゆく。

「このあたりは危ないから。なるべく遠くへ逃げるといいよ。ほら、お行き」

 兵之進は、指先の蜘蛛の子にふっと息を吹きかけた。小さな蜘蛛は、風にはためく招布まねぎによじ登ったかと思うと、そそくさと走って見えなくなった。


「逃して良いのか?」

 一磨が心外そうに尋ねる。

 兵之進は、蜘蛛の子がいなくなった手を見下ろした。

「あの百眼ひゃくまなこの男、恋町さんと同じを使うようです。となると、絵に描かれて操られたか、脅されたか。あやかしなりに、子どもたちを守ろうとしていたんでしょう。可哀想なことをした」


「済んだことは仕方あるまい。それよりあやつ、面妖なことを言っていたぞ。そろそろ頃合いだとか何とか。我々を足止めする目的で、わざとちょっかいをかけて来たのではないのか」

 一磨は、招布まねぎと一緒にぶら下がっていたみつまめ屋の亭主を引き下ろした。蜘蛛の巣を破って助け出す。


 兵之進は、口をへの字に曲げた。

「合流させないためにというなら、なおさら急いだ方がよさそうです」

 ふと思い出して、四方を見回す。みつまめ屋の店内に読売の束が散らばっているのを、見落としがないよう注意深く探して回収する。

「こんなものを残しておくと、ろくなことにはならない」


 傍らを見やる。先ほど見た、花魁おいらん禿髪かむろ、手毬と戯れる猫が描かれていた肉筆の絵は、可哀想なほど濡れて、破れて、原型すらとどめていなかった。


「よし、これでいい。行きましょう」

「あいや、一寸待て」

 一磨は首を横に振った。十手のふんどしをほどいて、亭主の眼の前に突き出す。

「勝ってふんどしの股を締めよというだろ? スカスカでは武士の股間に関わる……これ亭主、すまんが粗相をしてしもうた。新しいふんどしをくれぬだろうか」

「うへぇ……」

 みつまめ屋の亭主は、目の前でぶらぶらするふんどしを、この世の終わりみたいな顔をして見やった。



 水たまりが鈍い陽射しを反射する。いつの間にか、雨は止んでいた。

 吸い込みきれない湿気が、濃霧となって地表近くを這っている。

 川の渦巻く音が聞こえた。

「人が全然いない」

 兵之進は、押しつづめた声でつぶやく。


 先ほどまでは、逃げ込んでくる町人たちの悲鳴が聞こえてくるほどだったというのに。

 どの長屋の木戸も固く閉じられ、しんとして、しわぶきひとつ聞こえない。

 なのに、誰かの、どこかからの視線だけが、虫眼鏡で光を集めて炙るかのように、じりじりと背中を焦がす。


 どこかで犬が吼えた。癇に障ったような吠え声だ。が、唐突に悲鳴に変わった。

 そのまま、途切れる。


 水路を渡る木橋に、暗いもやがかかっていた。橋を渡る黒い人影が見える。ユラユラと左右に身を揺らし、こうべを垂れ、背中を丸め。のろのろと進む。

 なぜか妙に薄暗く、姿形も判然としない。水に墨を溶かしたかのようだった。輪郭が滲んでいる。


 兵之進は、魂を抜かれたようにぼんやりと立ちつくした。

 影は、霧の中を泳ぐように進んでゆく。

 回りの景色が変わり始める。澱む水。立ちこめる霧に惑いつつ四方よもかたを見回せば、いつの間にかぬかるみから伸びた手に足を掴まれている。

 ああ、まただ。また、あの声に呼ばれている。


 おいで

 おいで


 冷たい土の底から、声が聞こえる。動けない。身体が沈む。この世とあの世の境にある橋を渡れば、へ引きずり込まれる──


 一磨が、懐の手毬を揉みながら野太い声をあげた。

「おおい!? 何やらボンヤリしたものが見えるんだが! ありゃあ、何だ」

 兵之進は我に返った。また、変なものに引き寄せられるところだった。苦笑いする。

「僕にもはっきり見えません。あんまりいい感じじゃない。追いかけましょう」

 橋を渡り、後を追う。だが、すぐに見失った。それどころか、ますます霧が濃くなってゆく。通りの一町先すら、ろくに見えない。

 黴びた藻のような、腐った泥の臭いが漂っている。


 兵之進は息をひそめた。

「これは、一体……」

「何だこりゃ。全然、前が見えん。というか、今どこら辺なのか、さっぱり分からんぞ」

 一磨は手を伸ばして、目の前の空気をかき混ぜるそぶりをした。白い渦が指先にまとわりつく。

 黒いあしが生い茂った川縁を、土手にそって早足で急ぐ。

 流枝松なげしのまつが一本、乱れる川面に影の渦を落としていた。青枯れた草や折れた枝が引っかかっている。


 夜になれば、そこそこの歓楽の明かりが灯るだろう往来も、ひどくうらさびれて見えた。川沿いに並ぶ茶屋のほとんどがのれんを下ろしている。

 黒塚町へと続く町木戸までやって来る。

 夜四つ午後十時でもないのに、木戸は既に閉じられていた。何があったのか。泥まみれの手形の跡がこびりついている。

「おい、開けろ。通るぞ」

 一磨は、棒を持って座り込んでいる木戸番に声をかけた。返事はない。

「おい、どうした」

 肩を掴む。

 揺すぶられた木戸番の首が、そのまま横に転がり落ちた。

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