壱ノ十九、忍法、|獅子糞迅《ししふんじん》の術

 一磨はまなこをぎらつかせた。その背中から、蒸気とも妖気ともつかぬ、汽笛めいた怪気炎が噴き上がる。

「忍法、獅子糞迅ししふんじんの術!」

 ふんどしを巻きつけた正義の十手が唸った。無敵の肉弾巨人と化し、突進する。

「御用だ!」


「……汚らわしい」

 百眼ひゃくまなこの青年は朱墨の筆を走らせた。たちまち眼に見えぬ塗り壁が描き出される。突然の障壁に行く手を遮られ、一磨は頭から激突した。

 壁にひびが入った。めりめりと音を立てて割れ広がる。

 一磨は半分壁に埋もれたまま、その場で踏みとどまり、唸り、再度吼えた。

「この悪党め。お上に逆らうとは不届き千万。神妙にふんどしにつけい!」

 猛牛のごとき鼻息を吹き上げる。


「ふん、もういいでしょう。そろそろ頃合いだ。ただの人間など、手前が相手する必要もありますまい。せいぜい、あやかしと戯れているがいい」

 壁の向こうから、青年の嘲笑が聞こえた。

「逃がすか!」

 一磨は声の気配を追い、横蹴りの一撃で壁を粉砕した。砕けた土塊が足元に散らばる。壁がぐらついた。

 肩でぶつかる。行く手を阻む壁が完全に倒れた。

 土煙が立ち込める。一磨は肘窩ちゅうかを鼻に押し当て、顔に降りかかる粉塵を防いだ。眼をすがめる。周りが見えない。

 埃が晴れた後にはもう、青年の姿はなかった。肩についた土くれを払い、苦々しく見回す。

「ちぃ、抜かったわ。捕り逃がしたか」

 険しい視線を慌ただしく背後へと走らせる。

「しかし、頃合い? ……いったい、何の頃合いだ?」



 一方。

 兵之進は、蜘蛛女がいつの間にか四方八方に張りめぐらせていた巣の中へと追い込まれていた。

 じりじりと後ずさる。

 周囲は蜘蛛の糸で真っ白に覆いつくされていた。氷柱に埋もれた廃墟のようだ。白一色に染まった雨の中で、なぜか、壊れた大八車だけが世界から切り取られたかのように、そのままの状態で残されている。


「うっわ、すんごいベタベタ!」

 そんなことより、蜘蛛の巣に取り囲まれ、動くに動けない。

 少し横糸に触れるだけで、手といい、顔といい、蜘蛛の糸が引っかかる。

 下手に振り払おうと糸に触れれば、そのまま手のひらごと余計なところに貼り付く始末。


 雨に溶けて白い粘液状になった蜘蛛の糸が、頭上からダラリと垂れ落ちた。拭った手がまた、頰に貼り付く。

「ぁっ……しまった。だめだ。これじゃ、まともに動けない」

 思わず舌打ちする。


 矢羽が風を切る音が背後から聞こえた。

 とっさに軸足を中心に身を返し妖刀一閃。切り払った。

 ──つもりが。


 足元にまで、打ち寄せる波のような蜘蛛の糸が迫っていた。足を取られる。

 たまらずつんのめった。

 長屋の壁に手をつく。

 目の前にも、ビッシリと白く張り巡らされた蜘蛛の巣があった。左手首がめり込む。


「あ、あっ、まずいしまっ……!」


 どんなに身をよじって引っ張っても、壁に貼り付いて剥がれない。ぎりっと歯を食いしばる。

 風切り音が聞こえた。身体が硬直する。

 壁にはりつけされた状態のまま、動けない。

 立て続けに、突風と同時の轟音と衝撃を感じた。

 糸の塊が吹き矢となって、顔の横、脇の下に突き立っていた。

 半ば壁を貫いている。

 摩擦の煙がたなびく。すうと血の気が引いた。

 顔を上げる。

 目の前に、蜘蛛女が迫っていた。

 上顎を横に開く。鎌のような形の鋏角がのぞく。その牙が、ガチガチと噛み合わされた。


「おいおいちょっとこれはまずいんじゃないですか、ねえ……?」

 兵之進は思わず呻いた。冷や汗混じりの笑みが口元にかすめる。


「あいや、義を持って助太刀いたす!」

 頭から砂を被った一磨が、みつまめ屋から飛び出してきた。着流しの前を割って左右を見渡し、兵之進に迫る蜘蛛女を認めるや。


「ふぐっ」

 ふいに青ざめた。濡れた子犬みたいにぶるぶると震い上がる。

「おっ……オバケは苦手でござった……」

 声に反応したか、蜘蛛女が足を止めた。グリと首をねじって一磨を見る。黒いガラス玉のような大小の八目が、ギラリと照った。唾棄するかのような仕草で糸の塊を吐き飛ばす。


「ひゃぁんっ!」

 一磨は内股の片足立ちになって、降り注ぐ糸を避けた。

「あっ、ぁっ……やめるでござる……!」


「一磨、糸に当たっちゃだめです!」

 兵之進は、声を高くして警告した。

「そんなことぐらい、おぬしを見れば分かるわ!」

 一磨が怒鳴り返す。

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