壱ノ十四、ほう、殺る気か

 ぽつり、ぽつり、屋根を叩く音が聞こえてくる。むっと湿った風が吹き込んだ。どうも空模様があやしい。

「あらやだ、ひと雨来そうだわ……」

「し、いはく! あらやだ、ひとあめきそうだわ! ハイ!」


 綺乃は軽やかに笑って、手を叩いた。

「ハイ、今日はここまで。雨が降るといけないので、今日は早めに上がるとしましょう。皆さん、帰り支度をなさってちょうだい」

「はーい!」

 綺乃は、長押なげしの上に掛けた薙刀をちらりと見やった。

 ひそやかな笑いが口元をいろどる。

 本降りの雨が来る前に、せめて子どもたちを家に返してやらねばならない。あるいは──血の雨が降る前に。


「それでは、せんせい、さようなら! 皆さん、さようなら!」

 全員揃って頭を下げた。かと思うと。

 子どもたちは、赤禿髪あかかむろの追っ手を放つかのように、いっせいに庭へと飛び出した。そのまま裏木戸を突っ切って走り出てゆく。

「気をつけてお帰りなさいよ」

 綺乃は泰然と手を振る。


「先生」

 見送る綺乃の袖を、たすき掛けの少女がくいと引いた。

「あら、およねちゃん」

 綺乃は、けろりと笑って庭を背に振り返る。少女は両手を前で揃え、きちんと頭を下げた。

「綺乃先生、おはなとおきくを預かってくださって、どうもありがとうございました」

「どういたしまして。それより、ちょっと危ないからこっちに来てくれる?」


 綺乃は、およねの二の腕を取ってさりげなく影に立たせた。

 言いながら、頭をわずかに傾けた。間一髪、背後より飛来するクナイの切っ先が、顔の左すれすれをかすめる。

 一瞥すらくれず、クナイの刀柄を直接、右の逆手で掴み取る。そのまま掌中で刃の向きを回転させ、右下に振り下ろしつつ、手首をしならせ後ろ向きのまま投擲。背中越しに投げ返す。


 反撃のクナイが竹垣の四つ目を突き抜けた。竹垣が粉砕される。

「みぎゃっ!」

 悲鳴が聞こえた。どうやら、誰かのお尻に突き刺さったらしい。

「あらあら、さては、となりのタマちゃんかしらー?」

 綺乃は、白々しく笑い。

「……ひよに手出ししたら、この程度じゃ済まさんぞ。覚悟いたせ」

 この上もなく柔和な表情のまま、ガラリと声音を変えて脅しつける。


 壊れた竹垣の向こうから、やかんの蒸気が吹き出すような音がした。

「ムッキぃぃぃぃーー!! 何その上から目線の傍若無人! 誇り高き雲隠くもがくれ一族の名にかけて、断じて許すまじ! 我が永遠の宿敵ライバル御桜みさくら綺乃きの! どちらがより一磨さまの妻にふさわしいか、正々堂々、良妻賢母勝負しそうら……」

 最後まで言わせてやるよしみはない。

 綺乃は、長押の隙間に詰め込んでおいた鋼鉄のつぶてを、袖を押さえながら手首をしならせて投げつけた。百発百中。

 たまらず、蛍光ピンクの不審人物が物陰から転がり出る。

「……ぐっはぁ! あいたた! ふぎゃっ! いたっ! うわぁあんーー!!!」

「ウフフ、茂みに潜んだ曲者は、猫の鳴き真似で誤魔化すのがお約束だと思ったけれど。ピンクの小猿を寄越してくるとは斬新ね」

「にゃぁんだとぉーーー!!! 食らえ正妻の鉄拳!」


 蛍光ピンクのくノ一が庭を一瞬で駆け抜けた。石灯籠を蹴って、高々と宙に飛ぶ。拳にはばね仕掛けの拳鍔けんつば。切っ先がぎらりと光る。

「ほう、る気か? いいだろう」

 綺乃は鼻で笑った。指をパキンと軽く鳴らす。

「はち、遊んでやれ」

「わん!」

 どこからともなく黒い毛玉が飛来して、迫るくノ一を真横から頭突き一発。あっさりと吹っ飛ばした。

「きゃいーん!!」

 もちろん泣いたのは番犬のはちではない。


 ピンクのくノ一は、くの字の形になって弾き飛ばされ、植え込みに頭から突っ込んだ。植え込みは木っ端微塵。青々とした葉を散らした。足だけが逆さまにじたばたしている。

 ぼふんと派手なピンクの煙が上がった。


「痛ったあーーー! うわああーーん!! 覚えてやがれーーっ! この恨み、必ずいつか晴らさでおくべきかあぁぁぁ……!」

 捨て台詞と煙を残して、全身蛍光ピンク色のくノ一は逃げてゆく。


「まったく。この忙しいときに。余計な邪魔が入った」

 綺乃は眉根をきつく寄せた。空を見上げ、表情を曇らせる。


 湿った風が不穏の臭いを運んでくる。

 手水石の水が波紋を起こして揺れた。庭に置かれた狛犬がぎょろりと目を剥く。石像の首筋の毛が、まるで生きているかのように逆立った。

 ひいらぎの木から雀が飛び立った。枝に刺してあったメザシの頭が、跳ね飛ばされていくつも地面に落ちる。

 雷が落ちた。空気が激しく揺らぐ。


 天を仰ぐ綺乃の目に、この世のものならぬ異界の燐火が映り込んだ。瞳が赤くゆらめく。

「この気配……まさか、か?」

 洩らす息をひそやかにみなぎらせる。

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