壱ノ十五、カラン、コロン

「……綺乃先生?」


 怖気付いた声が震えている。およねだ。帰るに帰れず、困惑の面持ちで立ちつくしている。

 綺乃は、はっと表情をやわらげた。およねの背中を優しく抱き寄せる。

「およねちゃん、ごめんなさいね。すごい雷でびっくりしたでしょう。うーんと……困ったわねえ。どうしましょ? 送ってあげたいのはやまやまなのだけれど、昼間から道場を空にするわけにはいかないし」

 思案投げ首で逡巡する振りをしたあと、ぽんと手を打つ。


「そうだ、雨が止むまで指南所でお迎えを待っとく? そのうちひよ兄さまと一磨さまもお帰りになると思うわ」

「居てもいいの?」

 およねが表情を輝かせる。綺乃はニッコリ笑った。片目をつぶってみせる。

「もちろんよ。一緒にお片づけ手伝ってくれるかしら?」

「はい!」

 およねは大きくうなずいた。



 雷が鳴り始め、大粒の雨が降り出す。長屋の木戸は開けっ放しだが、住人は雷を怖がってか、誰一人として外に出てこようとしない。


「んもー! あの女狐め!! 我が良人おっととなるべき一磨さまに取り入り取り憑き、あやしき技にて悪行三昧。さては、じいじが言うておった、世俗を騒がすあやかし一派の引っ込み手先やもしれぬ! ぐぅうムカつく! 絶ぇぇっ対に! 正体を暴いてくれるわ! この恨み、晴らさでおくべきかっ!」


 長屋の屋根のむねに腰掛け、ぷんすかむくれて怒り散らす全身蛍光ピンクのくノ一。

 雲隠くもがくれのお蘭は膝を抱え、たんこぶのできたおでこを押さえた。涙目でぐっすんとしゃくりあげる。

「うぅっおでこ痛い……」

 おこそ頭巾を脱ぐ。

 ピンク色の長い結び髪がさらりと流れ落ちた。跳ねた前髪が、ぴこんと小角のように立ち上がる。


「一磨さまの御身は、このお蘭が不惜身命、必ずお守り申し上げまする! そしたらきっと一磨さまに褒めてもらえるに違いないのである! 『流石はお蘭! そなたこそ我らが絡繰からくり党が領袖りょうしゅうの嫁に相応しい!』『よし祝言じゃ祝言を挙げろーー! 』うむ! となればさっそくお屋敷に戻って夜這いの準備を」

 お蘭はぐぐうと拳を作る。

「まずは夕餉ゆうげに惚れ薬を混ぜ込んでからの、『……ぐっふふふふもう逃げられぬぞよ! 嫌よ嫌よも好きのうちというではないかゲヘヘヘ愛い奴よのうーーー!』『ぁぁんお蘭、拙者、恥ずかしゅうござる!』『良いではないか良いではないかー!』『アーレー!(ふんどしくるくる)』」

 鼻の下を脂下やにさがって伸ばし、どちらが犯罪者か分からない妄想に酔いしれつつ立ち上がったとたん。


 つるりと瓦に足を滑らせた。

「ふぎゃーーっ!」

 そのまま井戸屋形やかたの上に落ちる。屋根板が割れた。衝撃でつるべが跳ね返る。桶が飛んできた。後頭部に直撃。

「はぐっ!」

 目から火花が散る。

 雲隠くもがくれのお蘭は、井戸端できりきり舞いし、ばったりと倒れた。白目をむいて失神する。


 雨が、ざああ、と音を立てて降りしきるなか。

 カラン、コロン、と。ひそやかなぽっくりの足音が近づいた。傘で雨を遮る、ぱらぱらという音が覆いかぶさる。

 いつの間に現れたものか。破れた傘を差した禿髪かむろの少女が、ボンヤリとうつろな眼差しでお蘭の頭側に立ちつくしていた。頬が蝋人形のように白い。赤い房付き組紐の髪飾りが雨に揺れる。

 気を失ったお蘭に、視線を落とす。


「寂しいのは、いや」

 少女は、掠れた声でつぶやいた。

「一人ぼっちは、いや」

 差し伸べた指先に、青白く揺らめく鬼火が灯る。

「捨てられるのは、絶対に、嫌」

 まるで終わりかけの線香花火みたいに、ポタリと。

 青い火の玉が落ちる。


 お蘭は、パチリと目を開けた。跳ね起きる。

「い、今のは?」

 一瞬の幻影が見えたような気がして、きょろきょろする。

 周りには誰もいなかった。無意識に額に触れる。気のせいか、やけに冷たいものが落ちてきたような……

 ふいに寒気が押し寄せてきた。

 両手で自分を抱いて、ぶるぶると震い上がる。

「……寒っ! 一張羅いっちょうらの上衣がびっちょびちょーー! これは完全にあかんやつ! 確実に風邪引くやつではないですかぁーーっ! 今すぐお湯屋さんに行ってホカホカにならねばっ……ふ、ふ、ふがっ……ふぇっ……くぴょーーーん!!」

 身を折って盛大にくしゃみする。赤い組紐で結んだ髪の毛がピコンと横に跳ね上がった。

「さようしからばこれにてドロンでござりまするーーっ!」

 その場で水たまりを蹴って、クルリと後ろ宙返り。姿を消す。

 跳ねたしずくが、うっすらと青い鬼火を放った。


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