壱ノ十三、かむろの少女

 水たまりを避け、手庇てびさしにして雨を避けながら走る。空にひび割れの閃光が走った。直後、地面が揺れるほどの神鳴りが鳴り渡る。

 板塀と板塀の間の薄暗がりに、ふとツツジ色の鮮烈な色彩が見えた。突風に吹かれ、転がる手毬。それを追うぽっくり下駄の音。

 こんな雨の中を、少女が走ってゆく。

 兵之進は走りながら横目に路地を振り返った。

 板塀に身を寄せ、手毬を胸に抱いて、寄る辺なく曇天を仰ぐ禿髪かむろの少女。白い頰に髪飾りの赤い色が目に飛び込んだ。


「先に行っててください」

「どうした?」

 足踏みしながら訊く一磨に、兵之進は行く手を指し示した。

「そこにみつまめ屋があります。待っててください」

「余計なことに頭を突っ込むなよ」

「とっくに片足突っ込んでます」


 兵之進は、そっと路地をのぞいた。声をかける。

「大丈夫? 迷子になってないかい?」

 少女の姿はなかった。天桶の影にでも隠れてしまったのだろうか。

 手毬だけがポツンと残されている。

 古びた手毬だった。土に汚れ、あちこちほつれ、ひどく色褪せてはいるが、何度も糸を巻き直したあとがある。悪い気配はしない。

 拾い上げると、チリン、と鈴の音がした。蛍火が揺らめいた。子供らの屈託ない笑い声が伝わってくる。遊び唄が聞こえた。


 子ぉとろ 子とろ

 どの子が欲しい

 あのこが欲しい


 鞠つきの音は、すぐに遠ざかった。蛍火も消える。

 兵之進は手毬を撫でた。きっと、ずっと大切にされていたのだろう。夕暮れの記憶が胸に広がる。懐かしく、どこかじんわりと寂しい。

 雨に濡れないよう、手にした傘を壁にそっと立てかける。


「まだ聞こえてるかな? ……ずいぶん破れてるけど、この傘で良かったら使って。いつか晴れたら、返しに来てくれればいい。場所は、鬼辻坂の百語堂ひゃくがたりどうだ。噛み付いたりはしないと思うけど、いちおう番犬がいるから気をつけて。それまでに、この手毬をぴかぴかの新品に直しておいてあげる」


 薄暗がりの向こうに、ピカリと光が反射した。カラコロと下駄の音が逃げてゆく。

 兵之進は一歩、後ろに退いた。

 頭のてっぺんに軒先から落ちる雨だれが当たった。思わず声を上げ、首をちぢこめる。

「つめたっ。早く行かなきゃ」

 雨足はますます強くなるばかりだ。

 踵を返す。行く手に、斜めにかざした真っ赤な大番傘が見えた。雨風に白く煙っている。

 風に吹かれた招布まねぎがはためく。赤字白地波模様で《特製 みつまめ》の字。吊り下げ旗は、今にもちぎれて飛びそうなほどぐるぐる回っていた。


 ▼


「子曰、學而時習之、不亦説乎、ハイ!」

「し、いはく! まなびてときにこれをならふ! またよろこばしからずや! ハイ!」

「有朋自遠方来、不亦樂乎、ハイ!」

「ともあり! えんぽうよりきたる! またたのしからずや! ハイ!」

「人不知而不慍、不亦君子乎、ハイ!」

「ひとしらずしてうらみず! またくんしならずや! ハイ!」


 ……竹垣の向こうに、世にも珍奇なるのくノ一が徘徊している。


 綺乃は、横目で外の様子をうかがった。先ほどからずっと、垣根にしがみつき、おでこを四目垣に押し当て、うーうーと不気味な唸り声をあげてはジト目でこちらを睨んでくる。どこからどう見ても不審人物である。

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