壱ノ六、ちょんまげスパァン
「はいっ?」
再びがたがたと膝から崩れる一磨を尻目に、にこにこと愛想よく笑む綺乃がやってきた。
手には
「あら」
奥から来て衣擦れの音もさせず、未だにざわめきの木霊が残る庭へと、ちらと目をやる。
「何やら騒がしかったようですけれど。どうかなさいまして?」
笑みにひそむ鋭い眼差しが、悠然と配られる。
「一磨の背中に大きな
兵之進は、庭の狛犬を振り返って素直に答えた。
「あら、あら、まあ。それは災難でしたわね。一磨さまにお怪我は?」
「僕の心配はしてくださらないんですか」
「ひよ兄さまが
綺乃は、兵之進の手に提がったままの《古骨光月》を見やり、ことこと笑う。
「一磨さま、どうぞ。粗茶でございますが」
楚々として裾をさばき、膝をつく。
木の音をさせて茶托を置き、かすてらで柚子あんをくるんだ茶菓子を横に添える。
「これはかたじけのうござる」
一磨は神妙に頭を下げた。と、その目線が綺乃の手元に止まった。爛と光る。
「むっ……これは!」
気がつけば、すでに菓子を一心不乱にもぐもぐしていた。早い。
「ふわふわ、しっとり。蜜を染み込ませたかのような芳醇な味わい。さては水飴ですな。巻き込んだゆず餡も、切り口から艶めくなめらかさで、実に香り高い逸品……」
「おい、一磨。てめえ、勝手に全部食ってんじゃねえよ。半分はひよのだぞ」
どこからともなく、ドスの効いた男声が凄んだ。
一磨は、うぐっ、と茶菓子を喉につまらせた。胸を叩き、目を白黒させながら、茶を流し込む。
「な、何でござる、今の、何やら地獄の底の鬼のげっぷみたいな声は!?」
かろうじて息継ぎをしながら周りを見回す。
「ウフフ? あら? いったい何事かしらねえ? さては、
綺乃は、ニコニコ顔で平然としらを切った。どこ吹く風できょろきょろと、背後の薄暗がりを振り返ってみたりなどしている。
「おお、そうであった!」
何やら大切なことを思い出したらしい。一磨は、はたと膝を叩いた。
「兵之進、聞いてくれ。その恋町先生が大変なのだ」
「……何ごとかしら」
綺乃は、伏せた眼をひそかにチカリと光らせる。
「え〜恋町さん? そういや、ここんとこ見てないなあ」
兵之進はさして難しく考えもせず、人差し指の背中を顎に当てて思いを巡らせた。
「そう言えば一昨日だっけ、恋町さんの離れで、何かやたら夜遅くに女の人の声がして、ワーワーキャーキャーうるさかった」
「ああっ、その証言はまずい。実に風紀上よろしくない」
一磨が両頬を手挟んで天を仰ぐ。
「ご心配なく。それ、きっとわたくしですわ」
綺乃が、けろりと笑って小首を傾げた。ぽふんと手を打つ。
「こともあろうに、あのポンチ絵描き、堂々と人の湯浴みをのぞいて絵に描こうとしてやがりましたので、
ニコニコと可愛い顔で、とんでもないことを言ってのける。
「覗いた!? 綺乃さんをですか?」
兵之進は目を丸くした。綺乃は慎ましい微笑を横目に浮かべる。
「……それがどうかいたしまして?」
一磨はぶるっと振るった。妙にもじもじと身をよじる。
「して、そ、そ、そのけしからん絵はいずこに?」
「んー?」
綺乃はうっすらと凶悪に微笑んだ。帯の護り刀に平然と手を置く。
「一磨さまは、それを探してどうするおつもりでいらっしゃるのかしら?」
「はうっ!?」
「まさか、一磨さまともあろうお方が、よもや見たいだなどとおっしゃるのではないでしょうね……?」
綺乃の眼が、かみそりの刃のように、ニッコリとほそめられた。何が写り込んでいるのか、眼の奥に朱の色が差す。
一磨は首をちぢこめた。
「め、め、滅相も無い」
「ならばよろしいのですけれど。もし、変な気を起こしたら……」
綺乃は、ヒュン、と袖を振った。
「ちょんまげスパァン! ですわよ」
「ひぃっ」
一磨は、とっさに頭頂部を手で庇う。背後に、硬い音が突き立った。銀の刀子が柱に刺さって揺れている。
「ウフフ冗談ですわウフフ。では、ごゆっくり」
綺乃は、兵之進にぱちんと片目をつぶって見せてから、三つ指で頭を下げた。小悪魔めいた笑みをふわりと残し、音もなく下がる。
後ろ姿が廊下の薄暗がりにスウ、と紛れた。
「ああ、大失敗の巻でござる……綺乃どのに嫌われたでござる……」
一磨は、廊下の隅でどんよりしていた。膝を抱え、顔をうずめて突っ伏す。
「お小さい頃は、拙者の作ったお見舞いのからくり薬割人形カズマ三号機を、『かずまさま、いつもありがとうございます……』などと健気にもよろこんで下さっていたというのに……」
兵之進は苦笑い。
「それ、何年前の話をしてるんです。あのギャーギャーうるさい自動ゴリゴリ機なら、今もちゃぁんと座敷の床の間に飾ってありますよ。そんなことより、さっさと手伝ってください」
「何を」
「おむつ替え」
「拙者はこれでも忙しい身なのだが」
言いながらも、一磨は、井戸の横に伏せてあったタライに水を汲んで、たぷたぷと揺らしながら戻って来る。やはり気のいい奴である。
その間に、兵之進は、干してあった新しいおむつをするりと綱から抜いた。
「で? 恋町さんがどうしたというんです」
一磨は焦った口ぶりで身を乗り出した。
「それが、どうやら南町の定町廻りに捕まって、番屋に連れていかれたようなのだ」
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