壱ノ六、ちょんまげスパァン

「はいっ?」

 再びがたがたと膝から崩れる一磨を尻目に、にこにこと愛想よく笑む綺乃がやってきた。

 手には象谷ぞうこく塗りの丸い漆盆。身長は五尺150センチ足らず。御所解ごしょどきの小菊や朝顔、梔子を華やかに散らした薄青の小袖に、立て矢の帯をきゅいと結んだ、いかにも武家娘然とした出で立ちである。


「あら」

 奥から来て衣擦れの音もさせず、未だにざわめきの木霊が残る庭へと、ちらと目をやる。

「何やら騒がしかったようですけれど。どうかなさいまして?」

 笑みにひそむ鋭い眼差しが、悠然と配られる。


「一磨の背中に大きなひっつき虫あやかしがいて。はちに追い払ってもらいました」

 兵之進は、庭の狛犬を振り返って素直に答えた。

「あら、あら、まあ。それは災難でしたわね。一磨さまにお怪我は?」

「僕の心配はしてくださらないんですか」

「ひよ兄さまがひっつき虫あやかしごときに遅れをとろうはずがありませんわ」

 綺乃は、兵之進の手に提がったままの《古骨光月》を見やり、ことこと笑う。


「一磨さま、どうぞ。粗茶でございますが」

 楚々として裾をさばき、膝をつく。

 木の音をさせて茶托を置き、かすてらで柚子あんをくるんだ茶菓子を横に添える。

「これはかたじけのうござる」

 一磨は神妙に頭を下げた。と、その目線が綺乃の手元に止まった。爛と光る。

「むっ……これは!」


 気がつけば、すでに菓子を一心不乱にもぐもぐしていた。早い。

「ふわふわ、しっとり。蜜を染み込ませたかのような芳醇な味わい。さては水飴ですな。巻き込んだゆず餡も、切り口から艶めくなめらかさで、実に香り高い逸品……」

「おい、一磨。てめえ、勝手に全部食ってんじゃねえよ。半分はひよのだぞ」

 どこからともなく、ドスの効いた男声が凄んだ。


 一磨は、うぐっ、と茶菓子を喉につまらせた。胸を叩き、目を白黒させながら、茶を流し込む。

「な、何でござる、今の、何やら地獄の底の鬼のげっぷみたいな声は!?」

 かろうじて息継ぎをしながら周りを見回す。

「ウフフ? あら? いったい何事かしらねえ? さては、恋町こいまちさまのいたずらかしら?」

 綺乃は、ニコニコ顔で平然としらを切った。どこ吹く風できょろきょろと、背後の薄暗がりを振り返ってみたりなどしている。

「おお、そうであった!」

 何やら大切なことを思い出したらしい。一磨は、はたと膝を叩いた。

「兵之進、聞いてくれ。その恋町先生が大変なのだ」


「……何ごとかしら」

 綺乃は、伏せた眼をひそかにチカリと光らせる。


「え〜恋町さん? そういや、ここんとこ見てないなあ」

 兵之進はさして難しく考えもせず、人差し指の背中を顎に当てて思いを巡らせた。

「そう言えば一昨日だっけ、恋町さんの離れで、何かやたら夜遅くに女の人の声がして、ワーワーキャーキャーうるさかった」

「ああっ、その証言はまずい。実に風紀上よろしくない」

 一磨が両頬を手挟んで天を仰ぐ。


「ご心配なく。それ、きっとわたくしですわ」

 綺乃が、けろりと笑って小首を傾げた。ぽふんと手を打つ。

「こともあろうに、あのポンチ絵描き、堂々と人の湯浴みをのぞいて絵に描こうとしてやがりましたので、少々痛い目に会わせてひん剥いて簀巻きにして、往来に蹴り出してやりましたの」

 ニコニコと可愛い顔で、とんでもないことを言ってのける。


「覗いた!? 綺乃さんをですか?」

 兵之進は目を丸くした。綺乃は慎ましい微笑を横目に浮かべる。

「……それがどうかいたしまして?」

 一磨はぶるっと振るった。妙にもじもじと身をよじる。

「して、そ、そ、そのけしからん絵はいずこに?」

「んー?」

 綺乃はうっすらと凶悪に微笑んだ。帯の護り刀に平然と手を置く。

「一磨さまは、それを探してどうするおつもりでいらっしゃるのかしら?」

「はうっ!?」

「まさか、一磨さまともあろうお方が、よもや見たいだなどとおっしゃるのではないでしょうね……?」

 綺乃の眼が、かみそりの刃のように、ニッコリとほそめられた。何が写り込んでいるのか、眼の奥に朱の色が差す。

 一磨は首をちぢこめた。

「め、め、滅相も無い」

「ならばよろしいのですけれど。もし、変な気を起こしたら……」

 綺乃は、ヒュン、と袖を振った。

「ちょんまげスパァン! ですわよ」

「ひぃっ」

 一磨は、とっさに頭頂部を手で庇う。背後に、硬い音が突き立った。銀の刀子が柱に刺さって揺れている。

「ウフフ冗談ですわウフフ。では、ごゆっくり」

 綺乃は、兵之進にぱちんと片目をつぶって見せてから、三つ指で頭を下げた。小悪魔めいた笑みをふわりと残し、音もなく下がる。

 後ろ姿が廊下の薄暗がりにスウ、と紛れた。梔子くちなしの香りが、そよと白く、ほのかに漂う。


「ああ、大失敗の巻でござる……綺乃どのに嫌われたでござる……」

 一磨は、廊下の隅でどんよりしていた。膝を抱え、顔をうずめて突っ伏す。

「お小さい頃は、拙者の作ったお見舞いのからくり薬割人形カズマ三号機を、『かずまさま、いつもありがとうございます……』などと健気にもよろこんで下さっていたというのに……」

 兵之進は苦笑い。

「それ、何年前の話をしてるんです。あのギャーギャーうるさい自動ゴリゴリ機なら、今もちゃぁんと座敷の床の間に飾ってありますよ。そんなことより、さっさと手伝ってください」

「何を」

「おむつ替え」

「拙者はこれでも忙しい身なのだが」

 言いながらも、一磨は、井戸の横に伏せてあったタライに水を汲んで、たぷたぷと揺らしながら戻って来る。やはり気のいい奴である。

 その間に、兵之進は、干してあった新しいおむつをするりと綱から抜いた。

「で? 恋町さんがどうしたというんです」


 一磨は焦った口ぶりで身を乗り出した。

「それが、どうやら南町の定町廻りに捕まって、番屋に連れていかれたようなのだ」

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