壱ノ五、わっふーん! はうはう!
兵之進は、光月をダラリと提げた格好のまま、飛んできた《噂》を顔前でふん捕まえた。
熟柿を握り潰したような感触。蛍光色の飛沫がこすれついた。
「うへぇ、キモいよう」
閉口する兵之進の手の中で、あやかしはキィキィと鳴いた。伸び縮みしてはもがいている。まるで太ったねずみだ。
「はーちー?」
庭を振り返り、笑顔で呼ばわる。
「おやつですよー?」
「わうっ!」
ひゅん、と。庭の狛犬の石像周辺に黒いつむじ風が舞った。
鋭角の弧を描き、猛然と飛来する。
影は赤提灯の本体に向かって激しく吠えついた。右に左にと駆け回って、赤提灯を庭の隅へと追い立ててゆく。
「ぐるるる!」
首筋の毛が逆立った。白い牙が一閃する。影は弓なりの軌跡を描いて、赤提灯の巨体に飛びかかった。
一撃で噛み破る。
煙混じりの白い爆風が、渦を巻いて吹き出した。
《噂》の文字がボウと燃えた。煮溶けた飴のように垂れて滲む。
半透明の火が表面を舐めて焦がした。焼け落ちた赤提灯の骨組みが剥き出しになる。影は、骨組みを平然と噛み砕いた。首を強く振って宙へと放り投げる。
すす混じりの火の粉が散った。
「わっふーん!」
黒い影は後ろ足で赤提灯の燃えかすに土をかけた、かと思うと。全速力で駆け戻ってきた。裏白の太い巻尾を振って急停止し、兵之進の前にちょこんとお座りする。
黒豆柴の子犬だ。首に赤いふさ付きの数珠を巻いている。
三角の黒い耳。四つ目眉の下に、くりくりの黒い目が輝いている。班のある舌を出し、はっ、はっ、と息を切らして。
「わん!」
目をきらきらさせて、一声吠える。尻尾がせわしなく庭を掃いた。
「やー、よしよし。はちはお利口だなー。はい、おやつ」
兵之進は手に持っていた《噂》のあやかしをぽんと放った。黒豆柴は空中に跳ね、ぱくんと直接あやかしをくわえた。そのまま庭の隅へとすっ飛んでゆく。
「はうはう!」
さっそく穴を掘っているところを見ると、どうやら後のお楽しみとして土に埋めておくつもりらしい。
せっかちな蝉が、どこか近くで無遠慮に鳴き始めた。
「何事だ?」
一連の出来事が見えているのかいないのか。
一磨は、さっぱり訳が分からぬ、という顔をしていた。首をひねっている。憑き物が落ちたとはまさにこのこと。先ほどまで狼狽えて半泣き面をゴンゴン柱にぶつけていた男と同一人物とは到底思えない。
「あやうく、誰かさんのせいで、僕まであらぬ噂を立てられるところでしたよ」
一磨は眉をしかめた。腕を組む。
「失敬な。貴様の
「だから僕じゃないと言ってるでしょう。っていうか、むしろそっちのほうがダメ人間じゃないですか」
兵之進はくすくすと笑って片目を瞑った。おぶいひもをほどき、背にしょっていた赤ん坊を二人とも下ろす。
「早くおむつを替えてあげなきゃ。この赤ちゃんたちは、指南所に来ている子の妹たちです。上のお姉ちゃんが手習い中なんで、僕が代わりに子守してるんですよ。ほーら、双子ちゃんたちー、一磨おじちゃんですよー?」
「
「どうでもいいし」
「貴様、幼女に兵之進おじちゃんって呼ばれたらどうする」
「この世の終わりです」
「だろ?」
「すみませんでした。謝罪して撤回します」
「分かれば良い」
赤ちゃんたちのおむつはともあれ、兵之進自身もなかなかのびちょぬれである。蝉も煩いことだし、さっさと着替えたいところだ。
「ほーら、一磨お兄ちゃんでござるよー?」
一磨は、さっそく自分のほっぺたに親指を当てた。指をくにゃくにゃと泳がせてはべろべろばぁ、とあやし始める。
赤ちゃんたちは手を叩いて無心に笑った。
「さすがですね。お堅い定町廻りなんてらしくない仕事はやめて、うちの指南所に就職してはどうです」
見ているだけで表情がほころぶ。兵之進は感心しきりで褒めそやした。
一磨は、満更でもなさげに鼻の下をこする。
「いやー、子守か。なるほど、さようであったか。そうだよな、はっはっは! いやはや、拙者としたことが。とんだ勘違いであった。良かった良かった。さては拙者の愛しい綺乃どのに悪い虫でもついたのではと、気が気でなく……なぬっ永久就職だと!? む、む、婿に……!!!?」
「誰が一磨さまのですって?」
からかうような、澄んだ声が背後から投げかけられる。柱に止まった蝉が、ぴっとオシッコを引っ掛けて飛んだ。
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