第25話:黒い川-2

「……それは……」


 遠山は今でもその時の傷が疼くのだろう、苦しそうに眉をぎゅっと寄せいていた。

 体の傷ではない。心の傷の方が、いつまでも疼いて痛むのだ。


「それは、お前だけの責任じゃないだろう?ご両親も一緒にいたんだ。お前だけが気に病む事じゃない」

「でも親父もお袋も、俺に頼んだのにって言ったぜ?俺が負ぶってたんだから、俺が見てなきゃいけなかったのにって」

「お前に責任がないとは言わないさ。でもグループ登山では何事も責任が平等に分配される上に、妹を負ぶって歩いてきたんなら、お前の負担が1番重い。お前は休息を取る必要があったし、第一親には子供を見ている義務がある」

 大竹の正論を吐き出す声が、癪に障る。


 その場にいなかった奴に何が分かる!綺麗事なんてクソ喰らえだ!!


「美智は俺が見てることになってたんだよ!少なくともうちの親はそう思ってた!」

「それは責任転嫁って奴だろう!?」

「でも俺が美智を見てなかったから、あいつが滑落したのは事実だ────!!」


 あぁ。

 確かに心の傷は、体の傷よりも長く深く痛むのだ。


 今でも遠山の耳には美智の泣き叫ぶ声が聞こえる。その声があまりにも大きくて、他の音など聞こえない。

 小さくて、幼くて、誰からも愛されて当然だった妹は、自分が疎んじたことであの山肌を滑り落ちたのだ……!


「俺が美智をもっと可愛がっていれば、美智は山から落ちることはなかったんだよ!俺があいつを疎ましく思ってなければ、あんな怪我をすることはなかったんだ!女の子なのに体に残るような怪我を負ったのは、誰のせいでもない、俺のせいだ!!」

 遠山は何かに取り憑かれたような顔をして、暗い川に向かって叫んだ。目が血走っているのが、暗がりでも分かる。

 まるでそこにかつての自分がいて、当時の自分を射殺そうとでもしているように。


「遠山!」

 大竹が遠山の肩をぐいと揺すると、遠山ははっとして大竹の顔を見た。そこにいるのが大竹だと、初めて気がついた顔をしている。それから呆然とした声で、「ごめん」と小さく呟いた。


「……美智はその時のことを覚えていないんだ。だから、俺が美智の言うことを聞いてしまうのは、美智があの事を笠に着てるせいじゃなくて、俺が勝手に気にしてるだけで。俺はその後すぐ大学で東京に出てきて、その後美智とは暮らしてないけど、でもやっぱり美智に会えば俺はあいつの言うことには逆らえないし、親父もお袋も、あの事があってからますます美智を叱れなくなって……。結果、美智があんな風にお姫様みたいに育ったのは、美智のせいじゃない、俺のせいなんだよ」

「……だから今回のことも、あの子のせいじゃなくて自分のせいだから、妹を責めるなって言いに来たって訳か」

 呆れたように大竹が呟くと、遠山は小さく頷いた。

「だって、美智は何も知らずにそう育てられちゃっただけなんだから……」


「甘ったれてんのかお前」

「え…?」

 もっと違う言葉を期待していたのだろう、遠山は驚いた顔で大竹を見た。


「いるんだよ。生まれつきなにがしかの疾患を持って生まれさせてしまたから、とか、物心もつかないときに事故に遭わせちゃったから、とか、そういう理由で自分の子供を叱れなくなる親って、結構多いんだ」


 クラスで浮いてしまうほどの自己中心的な生徒の親が、面談で多く口にする言葉。

 

 ────私があんな体に生んでしまったから

 ────私の不注意のせいで

 ────あの子は悪くないんです

 ────叱れないのは私が悪いんです


 大竹にしてみれば、クソ喰らえだと言ってやりたい。


「子供に申し訳ないからってどの親も言うんだけど、俺から言わせりゃとんだお門違いだ。そうやって甘やかされたガキは、自分が何をしても叱られずに、どんな我が儘も聞いてもらえるってちゃんと分かってるんだよ。そんな鼻持ちならないガキが社会に出て巧くやっていけると思うか?大切なのはその子が生きやすくなるように、きちんと道を示してやる事じゃねぇのかよ。曲がりまくった道のまま、温室の中に閉じこめてどうすんだよ。何?あんたあの子のこと東京に呼んで、一生面倒見てやんの?あの子が好きになった男を服でもくれてやるみたいに宛がって、あの子の言うことは何でも聞いてやってくれって見張ってる訳?そんな我が儘聞けるのは親兄弟くらいだろ。お前のしてることは、幸せになれる筈のあの子の芽を摘みまくってるのと同じ事なんだよ」

「でも!」

 大竹の厳しい言葉に、遠山は反論を試みようとしたが、なんと言ったら良いのかまるで分からなかった。


 美智の将来のこと……その漠然とした不安から、美智が好きだと言った従弟に妹を押しつけようとしていたのか。いや、自分は美智には好いた男と一緒にいて欲しいと思っただけだ。それに美智のような可愛らしい子に好かれて厭な男がいるだろうか。


 ……いいや、違う。


 従弟である智一なら、美智の事情を分かってくれる筈と、甘えた心がなかったか?従兄妹だから、昔から美智のことを知っているからと、智一に美智を押しつけ、今まで通り我が儘いっぱいの生活を送らせてやってくれと、思った気持ちがどこかになかったか?


「俺は……」

 呆然と大竹を見つめる遠山に、大竹は大きく溜息をついた。


「きつい事言うようだけど、お前は逃げてんだよ。妹に自分のしたことを知られたくない、妹を甘やかして、良いお兄ちゃんだと好かれていたい、親にこれ以上妹のことで責められたくない。だからあんたは何が本当に妹の為なのかを考えることを放棄したんだ」

 俺は全く赤の他人だから、そんな事情には全く頓着しねぇぞと、大竹はきっぱりと言い切った。


「……大竹って、本当に刺してくるね。すげぇ痛いよ。めっちゃ効いた……」

「当たり前だ。泣き言ってのは相手を見てから言えよ。出来の悪い生徒のケツを引っぱたくのが俺の仕事だ。俺が学校中から嫌われてるクソジジィだってのがよく分かったか」

「ははは……本当だ。こんな先生学校にいたら、俺絶対近づかねーわ」


 智一が何でここに大竹と一緒に来たのか、遠山は何となく分かった気がした。

 耳に痛いことをずけずけと言ってくれる人間は稀だ。そしてその耳に痛いことを、自分のために言ってくれていると素直に受け止められる人間も、同じように稀なのだ。

 2人の間にある信頼関係を、遠山は羨ましいと思った。それは、誰も自分に教えてくれなかったものだ。


「……大竹って、やっぱり教育者なんだな」

「ああ、意外なことにな」

 そう言って、大竹は遠山の肩をぽんと叩いた。


 これ以上はこの話は終わりだ。反省している人間に追い打ちをかけるのは間違ったやり方で、説教は短時間で済ませる方が効く、というのが大竹の持論なのだ。


「じゃ、分かったらバーベキューに参加してもらうか」

「え?お、俺はさすがに行かれないよ。皆だって気まずいだろうし……」

「何だよ。火消しに回ってくれたのお前だろ?それに親戚なんだから気にすることないさ」


 それでもなお躊躇っていると、大山はとんでもない事を言い出した。


「それに俺、これから設楽のこと、徹底的に酔い潰さねーといけないのよ。というわけで、手伝ってくれる?」

「……は?」


 徹底的に、酔い潰す……?


「……智、未成年……」

「いや、今夜はがっつり酔い潰しておかねーと、ちょっと色々障りがあってな」

「……あんた、教育者……」

「あーもうそういう綺麗事いらないから」

 そう言いきる大竹に、遠山は心の底から叫んだ。


「……俺の今までの涙を返せよ……!!」


 大竹はその魂の叫びにニヤリと笑うと、「ま、あんたと妹さんの話はちゃんと設楽にしといてやるからさ。とにかく今は手伝ってくれ」と、強引に遠山をおばあちゃんの庭に引っ張っていった。



 ◇◇◇ ◇◇◇



「先生どこ行……優兄すぐるにぃ!?」

 遠山を見るなり設楽の顔色がさっと変わったが、大竹は真面目な顔で「遠山がお前の火消しに回ってくれたんだぜ。お礼の一つも言っとけよ」と設楽に遠山を引き合わせた。


「でも…!」

「いいからほら、仲直りのお酌しろ、お酌」


 納得できない顔で、それでも小さく「ありがとうございました」と言いながら、いかにも渋々といったていで設楽が遠山にビールを注ぐと、遠山はぐいと一気にビールを飲み干し、チラリと大竹に視線を向けた。大竹が小さく頷くのを見ると、遠山はそっと肩を竦め、それから「じゃあご返杯」と言って、設楽のコップにビールを注いだ。


「あれ?智一、先生の前でお酒飲んで良いの?」

 伯父さんの息子が声を掛けると、大竹が「設楽の方があなたより強いって、伯父さんから聞きましたよ?」と嗾ける。


「おっ、聞き捨てならないね!よし!智一、今日こそ決着をつけるぞ!」

「え!?ちょっ、先生!?」

「まぁまぁ、智、最後の晩餐くらい無礼講だよ。ね、先生」

「そうだな。さ~て、俺も飲むか~」

「ちょっ、先生!?最後!今日最後なんですけど!!」

 大竹の意図に気づいた設楽が慌ててももう後の祭りで、その場のノリは飲み比べ大会へと変わっていた。


 設楽がいくら「俺未成年だし!」と踏み止まろうとしても流される水の勢いを止めることなど出来なかった────。

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