第17話:サテライト-3

 90分という時間は、あっという間にに過ぎていった。俊彦は必死な顔でテキストを見ながら、液晶の向こうに立つ友人の説明をノートに書き留め、時々大竹がそこに補足を入れていく。短期集中講座は受験に必要な要点をガンガン詰め込んでいくので、ついていくだけで必死だ。浪人生と違って、現役生の俊彦にしてみれば、まだ習っていない話も大量に出てくる。テキストにはたくさんの予習の跡が見えて、彼の努力が見て取れた。

 この手の生徒に、もちろん大竹は弱い。

 90分の講義が終わると、俊彦は大きく肩で息をした。


「先生、ありがとうございました」

「何言ってるんだ。本番はここからだろう。設楽んちで質問大会すんだろ?」

「はい!ありがとうございます!」

「あ、この後の講義は良いのか?サテライト校は今日休み?」

「はい。今日は元々休みです。それにネット配信授業の方は、ちょっと細工してあって、録画できるようにしちゃったんです。へへへ、内緒ですよ?」

「分かった。じゃあ安心しておばあさんちに行くか」


 腰を上げた2人に「せめてお昼ご飯くらいは召し上がっていってください」と引き留める俊彦の母親を何とか振り切って、ついでにお礼の品だとか、じゃあお土産をとか言って押しつけようとする品物も必死に断って、何とか2人はおばあちゃんの家に向かった。


「あれだけ予習復習をしっかりしてるんなら、君の先生は教え甲斐があるだろうなぁ」

「と、とんでもないです。覚えなきゃいけないことが沢山あって、とても追いつかなくて……」

 帰り道を急ぎながら、世間話のように先程の感想を述べる。やたらと恐縮する俊彦に、大竹は珍しく優しい声を掛けた。


「そんな事ねぇだろ。宮嶋のクラスは確か本校で直で受けようとすると足切りテストがあるって聞いたぞ。それについて行けるんだから、結構優秀なんだろ?」

「いや、でもサテライトには足切りテスト無いですし、受けるだけなら誰だって受講できるんだから……」

 俊彦は不安げに溜息をついて、困ったように大竹を見た。


 日本人の悪い癖だが、単に恐縮して見せているのか本当にそう思っているのか微妙なところだ。受験生がこの時期自分を見誤るほど不安になるのはよくあることだが、受験は気合いだ。


「そんな自信なさそうにすんな。お前がやった事はやった分だけお前の血肉になってるんだ。謙虚なのは結構だが、自信を持てないと萎縮して、本番で実力が出せなくなるぞ。自分の努力を信じろ」


 俊彦は大竹の顔をマジマジと見ると、嬉しそうに「はい!」と大きく返事をした。その返事に、大竹も満足そうに頷いてみせる。


「まぁ、現役生は問題を解いた数がどうしても浪人生には及ばないが、数より質だろ?あいつの講義で問題の意味が全く分からないっていうならまだしも、ついて行けてるなら可能性はあるさ」

「そ、そうですよね!じゃあ最後にやる到達度テストで合格ラインを取れれば、見込みはありますよね!?」

「当たり前だろ。そこ取れれば科学で足切られることはねぇよ」

「はい!!」

 頬をも真っ赤にして意気込む俊彦を見ると、ついついからかいたくなるのは大竹の悪い癖だ。


「まぁ、他の科目の出来にもよるけどな。専門の科学と数学は出来て当たり前、差がつきやすい英語が合格ライン決めるんだ。そっちはどうよ?」

 わざとニヤニヤと笑うと、俊彦は「うわ~!分かってますよ!先生、結構意地悪ですね!?」と身悶えた。

「あははは、藤光生に聞いてみろ。俺は学園一嫌われてる『クソジジィ』で有名なんだよ」

 笑いながら大竹はおばあちゃんの家の玄関を跨いだ。


 その途端。


「どういう意味だ!」

 家の中から激しい怒鳴り声が聞こえてきた。設楽の声だ。大竹は俊彦と目を見合わせてから、慌てて靴を脱いだ。


「設楽?」

 居間の入り口で、オロオロしているおばあちゃんと、何とか2人を止めようとしている遠山はすぐ大竹に気がついたが、設楽と美智は周りの様子が目に入っていないようだった。


「だって智くん、大竹先生大竹先生って何なの!?何でそんなに先生の気を引こうとしてるの!?気持ち悪い!」

「何が気持ち悪いんだよ!」

「だってそうでしょ!?大竹先生男じゃない!何だかまるで智くん、大竹先生が好きみたい!!」


 ギクリとして、一瞬大竹の足が止まった。だがそれを顔に出す大竹ではない。

「どうしたんですか、この騒ぎは?」

「先生、それが……」


 おばあちゃんの話はこうだった。


 大竹が俊彦と2人で出て行くなり、設楽は自分の部屋に戻ろうとした。それを美智が追って行こうとして、ついてくるなとケンカになったのが発端だという。

 途中で設楽が「お前のせいで大竹先生の授業が聞けなかった」と言った言葉が美智の気に障ったらしい。そこから「何で大竹先生ばっかり気にしてるの!?気持ち悪い!」という発言に繋がり、今に至っているのだそうだ。


「大体さぁ……大体お前、何なわけ!?俺が迷惑だって言ってんの分かんないの!?マジウザいんだよ、お前!」

「何で!?何でそんなに大竹先生が良いの!?おかしいよ、智くん!女の子と一緒にいるより先生と一緒にいたいなんて!それとも何?本当に智くん大竹先生が好きだとでも言うの!?」

「おい美智やめろ!」

 さすがにこれ以上はのっぴきならないことになると、遠山が美智を止めようとするが、興奮した美智は遠山の腕を振り払った。

「お兄ちゃんは黙っててよ!」

 美智が遠山に怒鳴りつけると、設楽はその様子を、バカにしたように嗤った。


「何なわけ?お前どんだけ女王様なの?自分に気がない男は全員ホモ扱いかよ!お前が普段どんないけ好かない女かよく分かる発言だな!」

「何ですって!?」

「やめろ設楽!」


 このままだとどんどんエスカレートして、設楽が何を言い出すか分からない。2人の間に大竹が入って物理的に2人を引き離そうとしたが、設楽は大竹の肩を掴んで後ろに押しやった。


「世の中の男が全員自分に惚れてると思ってるなんて、おめでたい女だな!お前の周りにいる男がどんな奴らか知らないけど、少なくとも俺はお前なんか好みでも何でもないって言ってんだろ!セーラー服着てりゃ偉いとでも思ってんのかよ!」

「やめろって!」

「先生は黙ってろよ!俺こいつのせいでずっと不愉快な思いさせられてきたんだから!」

「設楽、いい加減にしろ!」

 後ろから羽交い締めにして奥に連れて行こうとしたが、設楽は全身で大竹の腕を振り払った。


「美智、俺はね、女子高生とか全く興味ないんだよ。だって俺さ、東京で旦那のいる人のストーカーしてたんだから」

「え?」


 その場の空気が凍り付いた。何を言っているのかと、美智の目がみるみる曇っていく。


「設楽、やめろ!少し落ち着け!」

 だが興奮状態がマックスになっているらしい設楽には、大竹の声は届かない。


「ストーカー?何言ってるの智くん……。旦那のいる人……?」

「そうだよ。30近い大人の人だよ。俺はずっとその人をつけ回してたんだ。ほら、これで分かっただろ?俺は女子高生なんてお子様には全く興味ねぇんだよ!」


「……ストーカー……?」

 今度呆然とした声を挙げたのは、美智ではなく遠山だった。


「お前……30女相手にストーカーって……マジかよ……」

「何で?いけない?誰好きになろうが俺の自由でしょ?今時不倫くらいで文句言われる事もないともうけど?」

「不倫って……」

 遠山が口ごもる。美智も開いた口が塞がらないようだった。


「お前……まだ高2だろ……?」

「何優兄すぐるにい、東京の大学に勤めてる割に、ずいぶん青臭いことを」

 設楽がわざと嗤うと、遠山はチラリと大竹に視線を向けてから、口の中で小さく「そういうことかよ」と吐き出した。


「お前が操立ててる女も、水晶をくれてやった女も、その30女か」

「だから何?」

「お前、その女と寝たのか」

「だから何?」

 設楽の肯定としか取れない台詞に、美智が「嘘!」と小さく叫んだ。


「旦那のいる30女のどこが良いんだよ!」

「俺の趣味の問題だろ!?」

 まだ何かぶちまけそうな設楽の口を、大竹が今度こそ後ろから塞いだ。覆い被さるような大竹の背中に、やっと設楽が大竹を見る。


「設楽、そういうことを軽々しく、最終兵器みたいに人様に投げつけるな!大体それ、もう終わった話だろうが!何で今そんな話をするんだ!」

「だってこうでもしないと、俺はホモ扱いだよ!?この俺相手に女子高生とか。はっ、バカバカしい!」

「設楽!」

 大竹がいい加減にしろと叫ぶより早く、美智が青い顔をぐしゃりと歪めた。


「いやっ!そんなオバサンと不倫なんて不潔だわ!智くん変態だよ!気持ち悪い!!」

 そう叫ぶなり、美智は踵を返して家から走り去っていった。


「ま、待てよ美智!ちょ……智一、話はまた後でな!」

 智一の方を振り返り振り返り、慌てて遠山も後を追う。


 2人が消えた家の中はしんとして、まるで時が止まったようだった。おばあちゃんと俊彦はオロオロと設楽の様子を窺っている。急に、蝉の声が大きくなった気がした。

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