第18話:サテライト-4

 誰も指1本動かせないような長い沈黙の中で、いきなり大竹が手を叩いた。


「さて」


 その手の音と大竹の低い声が、設楽を急に現実の世界に呼び戻した。


 今自分が立っている場所がどこなのか。

 今自分の目の前にいるのは誰なのか────。


「それじゃ、楽しいお勉強の時間といきますか。設楽、お前も勉強道具持ってこい」

「え?」

 恐る恐る、設楽は大竹を見た。大竹は全く普段通りの顔をしていた。その大竹の姿を見て、設楽の背筋を何かが駆け上っていく。


「あ…、俺、俺……」

 冷静になった頭で自分の言ったことを思い出し、そしてその意味を思い出した設楽は目の前が真っ暗になった。


 何て事を……何て事を俺……!!


 蒼白になった設楽に、大竹は顔色も変えずにもう1度、「聞こえなかったのか?設楽、お前も勉強道具持ってこいって」と告げた。


 何を言ってるんだ。俺が何を言ったのか聞いていたのに、そんな、勉強なんて……。


 大竹は、今度は設楽を気遣う色を瞳に乗せて、重ねて「ほら、良いから、勉強道具持ってこい」と、設楽の肩に手を置いた。

 設楽はどうして良いのか分からないで、大竹の顔を見て、それから俊彦とおばあちゃんの顔を見て、小さい声で「はい」と返事をして部屋に荷物を取りに行った。


 設楽の姿が見えなくなると、大竹は設楽の消えた先を暫く見送って、それからおばあちゃんの前で頭を下げた。


「すいません、おばあさん。設楽の行動は、俺の責任です」

 きっと、この話はすぐに村中に広まる筈だ。

 もしこの話が村中に広まるというのなら、すぐにも東京に帰る設楽よりも、ここに残って暮らしていくこちらの家族に迷惑がかかる。そして設楽があんな風になった責任は、どう考えても自分にあった。


「まぁ先生」

 そんな大竹の様子に、おばあちゃんは驚いたように手を振った。

「智一はうちの子ですよ!うちの子のために、先生が頭を下げるだなんて!」


 そうは言われても、設楽が美智に言ったことはもうとっくに終わった話で、あんな話をした本当の理由は美智が言った通り、自分と設楽の関係にあるのだ。自分のために設楽が取り乱して、おばあさん達がどれだけ肩身の狭い思いをしなければならないとのかと思うと、大竹は何度謝っても謝り足りない気がした。


「違いますよ、先生!迷惑をかけたのは美智ですよ!あいつが智一にベッタリなのはもう結構有名で、俺なんかよく智一は我慢するなって思ったましたもん!」

 咄嗟に俊彦が庇って言うと、おばあちゃんは「どっちも困った孫だこと」と、申し訳なさそうに笑った。


「あの子、こういう時どうする子だ?」

 大竹が俊彦を伺うと、俊彦は言いづらそうに眉を寄せて、困った顔をした。

「多分、美智ならあること無いこと悪意てんこ盛りで、話広めちゃうんじゃないかと……」

「……何だよ。あの子って、そういう子なのか?」

「うーん……。まぁ、少なくとも自分が学校で一番もてるって、自覚のある子ですよね?何ていうか……自分からは何も言い出さないくせに回りが美智に合わせて動くのが当然、みたいな。だから智一の言ったとおり、女王様なんですよ、美智」

「……それはまぁ、あの癇癪を見ればそうだろうな……」


 多分この村では、噂が出回るのは一瞬だろう。そして最初に言いふらすのは間違いなくあの子だ。その時どんな言い方をするかで、噂の立ち方が全く違ってくる。かといって自分がついていって見張っているわけにも行かないし、人の口に戸は立てられない。

 むっつりと黙り込んでしまった大竹に、逆に俊彦は申し訳なさそうに謝った。


「すいません、先生。俺が先生に無理なお願いをしなければ、智一があんな風に美智と言い合う事もなかったのに……」

「いや、それは違うだろ。設楽は最初から、あの子に何か言いたくてうずうずしてたんだ」

「でも、せっかく先生と一緒に遊びに来たのに、その先生を俺がお借りしてしまったから……」

「それは俺の判断だから、君が責任を感じる事はない」


 確かに設楽の前で他の子と2人で出かけてしまったのはまずかった。普段ならどうって事無い事だったろうが、設楽はもう我慢の限界に来ていたのだ。この件は、その見極めが出来なかった自分の責任だ。

 せっかく今まで設楽が我慢してきたものを、ぶち壊したのは自分の方だ。

 大竹は苦い気持ちで唇を噛んだ。


「先生…」

 その時設楽がノートやペンケースを持って居間に入ってきて、何となく3人は共犯者めいた顔をして、話をやめた。

 その3人の様子に設楽はますます泣きそうな顔になり、机に座るより前におばあちゃんの前に向かった。


「おばあちゃん、あの……、ごめんなさい。俺……俺、すごい迷惑かけたよね……?」

 ゲイばれしないようにと思ってぶちまけたが、あれはやっぱり、ゲイばれと同じくらいまずい事だった。そのことにやっと気がついた設楽は身の置き所がなくなって、垂れたしっぽが見えるような顔で、おばあちゃんの前で頭を下げた。


「やめてちょうだい。智一はおばあちゃんの目から見ても、美智に誠実に接してたと思うのよ。それなのに美智が智一を追いつめて、内緒にしておきたいようなことを言わさせたんでしょう?人には誰でも言いたくないことがあるよ。おばあちゃんにとっては2人とも可愛い孫だけど……でも、今度のことはおばあちゃんは智一の味方だよ」

「ばあちゃん……」


 設楽はおばあちゃんの顔が見られなくなって、下を向いた。ぐっと噛みしめた唇が、こみ上げてくる何かを堪えているようだった。おばあちゃんは優しい顔で笑って、「さ、お勉強をしないと、受験生の俊彦くんのご迷惑だよ。おばあちゃんはお茶でも淹れてくるね」とその場を離れた。


 設楽の震える肩を、俊彦がそっと叩いた。

「ほら、楽しいお勉強の時間だってさ?」

「うん」


 2人で並んで卓袱台に座ると、わざと大竹がニヤリと笑った。


「相変わらず、泣き虫な奴」

「うるさいなぁ!」


 頬を膨らませた設楽を大竹と俊彦が一斉に笑ったので、設楽はますます頬を膨らませて、そんな2人の気遣いが嬉しくて、ちょっぴりだけ泣いた。

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