第6話:銀色の魚ー2
「せ…先生…っ!!」
焦ったのは下で見ていた連中の方だった。まさか東京から昨日来たばかりの大人が、何の躊躇いもなく飛び込むとは思わなかった。しかも、足からダイブするのではなく、頭から。その場にいる誰も、さすがに怖くて頭から飛び込もうとしたことはない。
水の中に消えていった大竹は、暫くするとゆったりと水面から顔を出した。
「これで良いのか?」
「せ…先生……?」
設楽までびびっている。なんて顔だ、ザマァねぇな。
「大丈夫……?」
「あ?何で?別に大丈夫だぞ?俺、昔よくジャンプ台から飛び込まされてたから」
「は?ジャンプ台?」
「前言ったろ?俺ガキの頃から水泳やってるって。うちのクラブ、競技用の飛び込み台があって、高校ん時選手足りねぇからって誘われてさ」
競技用の飛び込み台は、5m、7.5m、10mの三段階の高さがある。個人メドレーの選手だった大竹は、それでも1年間だけ飛込競技の練習に付き合ったのだ。さすがに今でも10mは尻込みするが、5m位ならもう怖いとも思わない。
「マジで!?」
「すげぇ!先生すげぇ!」
子供達は興奮して喜んでいる。
実は下手に走り込んで足を開いたまま飛び込むより、グラブ型で頭から飛び込む方が、事故は少ないのだ。そのくせ見ている人間の中に「頭から飛び込む方が怖い」という意識があるために、与えるインパクトはでかい。
遠山は、呆れたように肩を竦めた。
「お前な……そういうのを見せつけんなよ。選手なら選手だって先に言えっての」
「ちょろっと囓っただけで選手じゃねぇよ。お前らこそ不慣れな東京モンをびびらせてからかおうとしてたくせに」
そのまま大竹はすぅっと前を向いたまま後ろに水をかいて、遠山達から離れていった。
「あ、待てよ大竹!」
「じゃ、俺はガキ共と交流を深めてくっから」
そのまままたふっと体が水の中に沈んだかと思うと、大竹は水飛沫ひとつ立てずにすーっと子供達の方に泳いで行った。
「あ、先生来た!」
「先生、アレ簡単!?」
「あー?学校の飛び込みで腹打ちしたことある奴は禁止だ。あの高さで腹打ちしたら、内臓飛び出すぞ」
「マジで!?」
「あと頭の角度深すぎると潜り過ぎて底に頭ぶつけて頸椎やるからあんまり真似すんな。大人がいない所での頭からの飛び込みは禁止だ。飛び込みで人死にが出ることもあるんだからな」
「マジかよー!!」
危ない真似をさせないようにわざと大袈裟に言うと、子供達は悔しそうに地団駄を踏んだ。自分も同じように頭から飛び込んで、他の奴らに自慢したいのだ。ガキはこの位威勢が良い方が良いと大竹は小さく笑うと、「おら、そっちの1m位んとこからまずは特訓だ!」と威勢良く岩場を指さした。
「特訓!?」
「やる!やるよ、先生!!」
「俺にも教えて!」
いつも「ガキは嫌いだ」と口では言っているが、大竹は子供の面倒見が良い。当たり前だ。本当に嫌いなら誰が教師になどなるものか。
それから風が冷たくなるまで、大竹は子供達をしごきまくった。設楽と過ごす時間はなくなったが、おばあちゃんのところの子供達の面倒を美智と2人で見ている設楽を、大竹は見たくなかったのだ。
「そろそろ風が冷たくなってきたな。おい、もう上がるぞ」
「えー、もっと教えてよ、先生!」
「もうちょっと!」
「お前らのもうちょっとは永遠に繰り返されるから却下だ。ほら、とっとと上がれ!よく拭けよ!」
子供達の数を勘定して、足りない子がいないかを確認する。遠山が「お疲れー」と声を掛けてきた。遠山も途中で一度大竹と一緒に子供達の面倒を見ていたが、すぐに疲れたと岩の上で日向ぼっこを始めたのだ。
設楽は美智と並んで岩の上に腰掛けて足を水に浸しながら、そんな遠山と大竹をじろじろと睨んでいた。
大竹も最後に岸まで戻り、上がろうと岩に手を掛けた瞬間、今度は設楽がザブンと水の中に飛び込んできた。
「設楽?」
「先生」
設楽は大竹の腕を掴むなり、淵の反対側に引っ張って泳ぎ始める。
「智くん!?どうしたの?」
美智が呼びかけてくるのには返事もくれず、設楽は美智とは反対側の岸に着くと、岩陰の向こうからは見えない場所に大竹を引きずり込んだ。
「おい、設楽?」
「黙って」
角が取れて丸みを帯びた岩肌に背を押しつけられ、設楽の腕の中に囲い込まれる。
設楽の髪からは水の雫がぽたりぽたりと落ちていた。
設楽が何かを堪えるような顔をして、距離を縮めてくる。その顔に何か切ない気持ちになった大竹の唇に、軽く、設楽の唇が触れる。
「よせ…。気がつかれるだろ」
「あっちからここは見えないよ」
「でも2人でこんな……不自然だろ」
「黙って」
設楽の腕が大竹の体をきつく抱きしめた。ずっと水の中にいた大竹の体は冷え切っていて、設楽の体の熱さが心地良かった。
「先生、俺が美智と一緒にいて、平気なの?」
耳元に吹き込むように囁かれた台詞は、熱を持っていた。切羽詰まった声。抱きしめる腕が、きつい。
「いつから優兄とあんなに仲良くなったの?何で俺は美智と一緒にいて、先生は優兄と一緒にいるの?何のためにここに来たの?」
設楽だって、自分が大竹と一緒にいることを周りがどう思っているかは知っている。大竹と2人でいるよりも、美智と一緒にいる方が周りは安心するだろう。自分が何を期待され、大竹がどう思われているかもちゃんと分かっている。
それでも、自分は周りの思惑通りに美智なんかと時間を潰したくはないし、大竹が遠山と一緒にいる所も見たくはないのだ。
「ねぇ、何のためにここまで来たんだよ。俺は先生とずっと2人で一緒にいたくてここに来たのに、こんなのは厭だよ!」
厭だと言っても従妹である美智を邪険には扱えないし、親戚連中にゲイばれするわけにもいかない。そんな事は分かっている。
そんな事は分かっているけど、でも許せない物は許せないし、我慢できない物は我慢できないのだ。
「先生と2人でここに来たら、もっと2人でずっと一緒にいられると思ってた」
設楽の怒ったような、甘えたような顔を見ながら、それでも大竹はきっぱりと言いきった。
「2人きりでずっと一緒にいられる場所なんて、この世にはないんだ」
大竹の言葉は、設楽の胸に突き刺さった。
「周りはああして女と一緒にいる事を当たり前だと勧めてくる。俺と2人でいれば、周りは訝しく見てくる。遠山みたいに、何でお前ら一緒にいるんだと好奇心剥き出しに訊いてくる奴もいるだろうし、お前だって親戚の皆さんに俺と出来てるなんて言えないだろう?」
大竹を抱きしめる腕に力がこもる。
大竹が、好きだ。
でもその気持ちだけじゃ、2人で一緒にはいられない。
男同士で、教師で、生徒で。年だって一回りも違う。高校を卒業した後、2人で一緒にいる事を、周りに何と言う?友達じゃおかしいし、高校の時の先生だと言っても、何故卒業した後まで一緒にいるのか、巧い理由が見つからない。自分達は、説明のつかない間柄になるのだ。
「これから先もずっとこんな事が続くんだ。俺と2人でいれば、お前はずっと人目を避けていなければならない。誰に祝福されるわけでもない。お前は、それでも俺で良いのか?」
「先生は?」
設楽は大竹の体に縋り付くように抱きしめた。
誰にも理解してもらえない。
口にする事も憚られる。
こんな人目につかない所に大竹を引きずり込んで、自分は氷のように冷たい大竹の体を抱きしめるしかないのだ。
でも、自分の体は、熱い。
誰にも負けないくらいこの体は熱く、大竹の冷えた体を温める事が出来る筈だ。
「俺はどんなに暖かな所よりも、冷たい水の中で先生と2人でいる方が良い。先生は?」
ぽたりと、大竹の頬から水滴が落ちた。水の中を自由に泳ぐ大竹は、銀色に光る魚を思わせた。地上にいたのでは、この美しい魚を掴まえる事は出来ない。
大竹は設楽の顔を、表情の分かりづらい顔で暫く見つめいていた。
水滴がまた、ぽたりと垂れる。水滴だと分かっているのに、なんだか大竹が泣いているように見えた。
「……先生?」
「……俺は……」
大竹は何か言いかけ、それからきゅっと口を結ぶと、水面に視線を移した。それからとぷりと、大竹の体が水の中に沈んだ。
逃がすものか。
設楽は自分も大きく息を吸うと、すぐに水の中に身を潜らせた。
水の中は冷たかった。その冷たい水の中を、大竹はゆっくりと岸に向かって泳いで行く。ゆったりと手足を動かす大竹の姿は、美しかった。
設楽が必死で伸ばした腕が、大竹の手を捉えた。
大竹がそっと振り返る。
設楽は大竹の肩を抱き寄せた。
息が苦しい。
体が冷たい。
それでも、設楽は息継ぎの事など忘れて、大竹の体を抱きしめた。
ゆらゆらと髪が水を漂う。水面から柔らかく差し込まれた日の光が、水底に陰を作る。
そのまま、大竹の唇を唇で塞ぐ。
大竹が水の中に棲む生き物であるなら、自分も水の中に棲めば良い。
この人の棲む場所が、自分の生きる場所なのだから。
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