第5話:銀色の魚ー1

 さくさくと木々の間を抜けながら、淵までの道を歩いていく。本当に至るところがトレッキングコースだ。

 低い川の流れと、チラチラと目を掠める木漏れ日と、雑草の強い匂い。

 これで設楽の機嫌が良ければ最高なのに。


 遠山と二人で布団を畳み、ざっと部屋を片付けて居間に戻ったときには、もう設楽の機嫌は最悪だった。さっきから設楽は一人でズカズカと先頭を歩き、その後ろを美智が小走りについていく。時々設楽は最後尾にいる大竹をぎっと睨むのだが、何でそこまで機嫌が悪いのか大竹にもさっぱり訳が分からなかった。


 何だあいつ。勝手に先頭を歩いているのはテメェじゃねぇか。俺は子供達がいるから、最後尾をついてくって最初にちゃんと言ったよな?小学生だけじゃなくて、伯父さんの所の子供達まで預かってるんだ、大人が最後尾歩くのは当然だろう?そんなに睨むくらいに機嫌を悪くするんなら、設楽が歩調を緩めて一緒に後ろを歩けば良いんじゃないのか?


 何となく、大竹の機嫌も悪くなって、隣からちょっかいをかけてくる遠山に返す返事もぶっきらぼうになっていく。


「なに?大竹くん、機嫌悪い?」

 遠山の声に苛々する。もう、そのからかうような声に返事をするのすら面倒だった。


 だが。


 目の前の視界が開けた途端に、大竹の目にはっと生気が灯った。

「うわ、すげ……」

「だろ?」


 ぽっかりと緑の空間の中に、深いエメラルドグリーンの水が現れた。3mの段差から、小さな滝が滑り落ち、反対側から細い川になって流れ出ていく。その天然のプールは縦横が10m強はあり、濃い水の色が深さを伺わせる。階段状に積み重なった岩を何段か飛び降りると、水面はすぐそこだ。淵の水は冷たく、だがすぐに飛び込みたくなるような、魅力的な光を放っていた。


 子供達は早速、水着の上に着ていたTシャツや短パンを脱ぎ捨てて、淵に飛び込んだ。

 設楽ももう水着になっていて、大竹の方を伺っている。すぐ隣で美智が恥ずかしそうにパーカーの裾を握りしめ、モジモジと設楽に何か話しかけた。その様子を、大竹は複雑な気持ちで見つめていた。


 設楽がゲイだというのは本当なのだろう。元々山中のストーカーで、今は自分に発情するのだから。だがその前は女子と付き合っていたのだから、また女子と付き合う可能性もあるだろう。


 こうして2人で並んでいる姿を見ていると、設楽と美智はよく似合っていた。

 年回りも、背格好も丁度良い。甘いマスクで整った顔をした設楽と、そこいらのアイドルより可愛いくらいの美智が並んでいると、あぁ、設楽が一緒にいるべきは、俺みたいなクソジジィじゃなくてああいう子なんだろうなと、素直に思える。


 今、設楽はまだ結ばれない俺との関係に夢中になっているが、あんな可愛い子と一緒にいれば、あいつの目は醒めてしまうのではないだろうか。やっぱり若くて可愛い子と付き合う方が良いと思い直すのではないだろうか。

 その時、俺はどういう顔をしてやるべきなのか。大人らしく、教師らしく、最大公約数の幸せって奴をあいつに勧めて身を引くべきなのか。


 そうだ。まだ間に合う。

 今ならばまだ。

 例えどんなにあいつとのキスが俺の体を突き抜けるほど昂揚させるとしても、俺はまだあいつの全てを俺のものにしてはいないのだから。

 今ならまだ俺はあいつを送り出してやれるのではないか。

 あいつの肌の熱さを知らない今ならば、まだ。


 そう自分に言い聞かせながら、それでも心の中が大きな叫び声を上げている。


 いいや、大丈夫なんかじゃない。

 俺はもうあいつを手放すことなんか出来ないのだ、と。


 こんな年になって、一回りも年下の男子生徒を相手に、自分はどうしてこんな気持ちになってしまうのだろうか。もうずっと恋なんてしてこなかった。自分の中に、こんな気持ちが残っているとは知らなかったのに。


 頭がグラグラと沸いているように、正常な判断が出来ない。

 どうすべきかを知っているのに、それを選ぶことが出来ない。

 このどうしようもない激流が、恋か。


 設楽が不機嫌な顔で、それでもチラチラと自分を見ているは分かっていたが、大竹は設楽を見返すことができなかった。

 だって、設楽の隣には美智がいる。


 美智は相変わらず設楽にまとわりつき、設楽が苛々しているのが見て取れた。それでも年下の従妹を無下に突き放さないのが設楽らしい。


「おい、どこから飛び込むんだ?」

 2人の姿を意識から閉め出すように、大竹が水に入った子供達に声を掛けると、子供達は笑って大竹に水を掛けてきた。

「やりやがったな」

 大竹がわざと大きな声で威嚇しながら水に入ると、子供達はキャーキャー喜んで更に水を掛けてきた。


「冷てぇ!」

「あはは、気持ち良いでしょ?」


 淵のへりは水深も60cm位しかないようだが、少し離れた所にいる子は立ち泳ぎをしている。岩の積み重なった地形の淵は、水底の凹凸が激しいらしく、時々抉えぐれるように深くなっているようだった。


「先生、あそこから飛ぶんだよ」

 子供の1人が先程自分達が歩いていた道から少し下がった辺りの石舞台のように広がった場所を指さした。あの石舞台からでも、水面まで2m半はあるだろうか。


「あそこからか……。おい、着水ポイントの水深はどんだけあるんだ?」

「知んない。足つかないくらい深いよ?」

「ちっ、大雑把な……」


 子供達の中でもちびっこいのがさっさと岩をよじ登っていく。まぁ、地元っ子が毎年飛び込んでいるのなら問題はないだろうが、渇水して水位が下がった年などは、誰かきちんと安全を把握しているのだろうか。


「ぃえ~い!一番乗り~!」

 1人がザブンと飛び込むと、次々に子供達が飛び込んでくる。


 大竹はざっと水を掻いて着水ポイントの少し手前まで泳ぐと、とぷんと頭を水の中に入れた。そのまま90°に体を入れ、ジャックナイフで直下潜降する。


 水は澄んでいた。水底までは結構深い。3mは悠にある。いや、もっとか。

 水底の岩は水になららされてつるつるとし、川魚が悠々と泳いでいた。水底から上を見上げると、子供達の足が見えた。時々どぼりと大量の泡とともに飛び込んでくる。


 水の中に漂っているのが、大竹は好きだった。水の中はどれだけ透明度が高くても、光の吸収で青色になる。その青色の世界が好きなのだ。


 だが、淵の底は身を切られるほど水が冷たい。いつまでもそこに漂っているわけにはいかず、大竹は名残惜しい気持ちで底を蹴って水面に浮上した。苔のヌルリとした感触が、いつまでも足の裏に残るようだった。


 水面に顔を出すと、「先生!?」と設楽が心配そうにこちらに向かって泳いできた。

「おう、どうした」

「どうしたじゃないよ!急にいなくなるから心配するだろう!?」

「あぁ、すまん。あの距離から飛び込むんだから、水深がどん位あんのか調べてきた。思ったより深いな。これならお前が飛び込んでも平気そうだ」


 飛込競技用のプールは水深が5m以上あるが、それは10mの高さから飛び降りる為だ。あの高さなら、3mもあれば問題はないだろう。


「おい大竹!お前潜るなら一声かけろよ!急に見えなくなると心配するだろ!?」

 遠山も少し焦ったようにこっちを見ている。さすがに少し申し訳なかったかと思うのだが、大竹は肩を竦めると、「彼女放っといて良いのかよ」と、美智と遠山にも聞こえるように言い放った。


 言ってしまった後で、自分の台詞に胸が痛んだ。

 こんな事が、言いたい訳じゃないのに……。


「おい、あんたがそういうこと言うのかよ」

 設楽がこめかみに筋を立てるが、大竹はそれを切なそうに見返した。


「……先生、そういう顔、反則だろ。気がついてないの?あんた、泣きそうな顔してる」

 設楽が大竹の頬に手を添わそうとするのを、大竹は小さく首を振って止めた。

「戻ってやれ。あの2人が変に思う」

 大竹が小さく促すと、設楽は一瞬2人を睨んだが、すぐに大人しく岸に戻った。

 設楽はさすがに状況を理解している。その位には大人になった。


 ―――だがこれを大人というのなら、大人になどなるものではないと、大竹の気配を背中に感じながら、設楽は苦々しく思った。


「先生ー!先生も飛び込めよー!」

「あぁ?俺がか?」

 突然の子供達の声に、思わず大竹がうるさそうに応えると、子供達はわいわいと囃し立てた。どうやら新入りの大竹を値踏みしているらしい。


「東京モンが飛び込めんのか!?」

「大人のくせに!!」


 なるほど、どうやらここは度胸試しの「男場」のようだ。ここで怖じ気づくと、やいのやいのとからかわれるのだろう。


「お前らな!先生は大人なんだから、そんな事するかよ!」

 設楽が慌てて声を荒げるが、それが余計に子供達を図に乗らせる。

「や~い!怖いんだろー!!」

「だせぇ!」

 見れば遠山もニヤニヤとしているし、美智は口先だけは「やめなよー」と言っているが、この状況を楽しんでいるようだった。


 大竹は無言で水から上がると、ひょいひょいと岩場を登っていった。


「先生!あいつらの言うことなんか気にしなくて良いから!それ、子供の遊びで、大人は普通飛び込んだりしないからね!?」

  1人設楽だけが大竹を心配してくれている。


 だが、大竹は人をからかうのは大好物だが、自分がからかわれるのは大嫌いなのだ。

 第一今は、胸の中がモヤモヤして、どうにかしてこの胸の疼きを押さえ込みたい。あそこから飛び込めば、少しはスカッとするのではないか。


 岩舞台の上から見ると、水面は随分と小さく見える。ちょっと弾みを付けると、反対側の岩場に激突してしまいそうな錯覚に陥るので、高所からの飛び込みは高さだけではなく、距離感との戦いでもあるのだ。


 しかし、大竹はひょいと岩の縁に立つと、躊躇いもせずに両手の指先を岩の縁に軽く当て、子供達が「あっ!」と叫ぶまもなくそのまま腕と脚で岩を蹴り出し、頭から淵の中に吸い込まれるように飛び込んだ。

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