幕間
???
春冲の強い誘いで始まった飲み比べは、朔次郎の勝利に終わった。負けたといっても、随分な酒の量を腹に収めた春冲は、机にうっ伏して寝ている。真っ赤な顔で寝息を立てる春冲を、雁助が呆れ顔で見下ろした。
「ばっかでい。一度も勝てなかった善右衛門さまのご子息に、勝てるわけがねえのに」
「はは。といっても、養父と私は血が繋がっておりません」
「おっと、そうでやしたね」
「それより、すみませんでした。少々飲ませすぎてしまいました。随分と赤くなってしまって……」
「ああ、ほっぺたはね、少し酒が入っただけでも赤くなるようですよ。よくぼやいてますから。それにこれは、昨日夜通しで絵を描いていたツケでもあります。それでも酒の強さだけは自信があるようでしたので、こりゃあ目が覚めたら随分と悔しがるでしょうな」
だから春冲が目覚める前に早く帰った方がいいと、雁助は苦笑しながらすすめた。帰りは虎造に送らせると言う雁助に丁重に断りを入れた朔次郎は、勘定を求めるも断られてしまった。
「言ったでしょう。これはほんの、お礼なんです」
「礼を受ける筋合いはありません。それに、彼女と随分な酒を飲んでしまいましたし……」
「ああ、それはこいつに請求しますんで。今回のことで、随分と儲けたようですし」
儲けた? 首を傾げる朔次郎に、雁助がすまなそうに頭を下げる。
「あっしは毎回止めているんですけどね、モノノケ同心に報酬は望めないから、自分が稼ぐんだって」
そう言えば、春冲はおあしはしっかりもらうと言っていたっけ。
「稼ぐとは?」
「こいつ、モノノケ絡みの騒動が起こると、いつもモノノケの絵を描くんです。それをね、二度と同じ過ちを繰り返さないための戒めとかなんとか言って、後ろ暗い気持ちを抱えているやつに高額で売りつけるんです。今回はそれが大和屋ですね。相手側は、そんな絵受け取りたくもありませんが、受け取らなければ版元に持って行ってばら撒くとかなんとか脅されれば、どんなに金子を積んでも買い取らないわけにはいきませんからね。今回も、それでぼろ儲けしたようですよ」
恐縮しきったように話す雁助に、朔次郎は感心して唸った。まだ御番所の沙汰は下りていないが、どの道大和屋は終わりだ。先のないお店からどれほど金子を搾り取ったところで、誰に迷惑をかけることもないだろう。
苦笑を一つ零した朔次郎は、下駄を履き履き暖簾をくぐろうとする。その背中で、「おい、
「はるな?」
思わず立ち止まった朔次郎に、雁助は目を
「おや、旦那。こいつから聞いてませんか?」
「聞いてませんけど……もしかして、春冲どのの本名は春名というのですか?」
「へい。こいつはまだうまく言葉も喋れない時分に起こった火事の生き残りでしてね。自分の名も言えねえし、第一覚えてねえってんで、あっしとかかあがつけてやったんですよ。でもこいつ、春名って名はかわいらしすぎて厭だと、しょっちゅう文句を垂れてますからね。だからって、旦那にまで内密にするこたあねえのに」
強気な口調に反して、雁助はどこか気まずそうだ。証拠に、ほりほりと首の後ろを搔きながら、「あっしが本名をばらしたことは、旦那の胸一つに収めてくだせえ」と頼んでいる。どうやら、おりんだけではなく、この強面の男も拾い子がかわいくてかわいくて仕方がないらしい。
「もしかして、春冲どのが火が苦手なのは、その火事が原因で?」
「おや、こいつの弱点はばれていやしたか。そのことも、どうか旦那の胸一つに」
笑って頷いた朔次郎に、雁助はほんのりと赤くなる。
「あっしは別に、これを猫かわいがっているわけではありやせん。心配なだけです」
「心配?」
「旦那、こたびの大和屋の一件では、モノノケに肩入れしたくなったでしょう? 大和屋の連中が揃いも揃ってゲスだったもんで、しょうがないことですがね。たまにいるんですよ。モノノケはモノノケでも、妙に情に厚いのが。そんなものを視続けると、こいつも情が移ってしまうらしくてね。いつか、こいつもあっち側にいっちまうんじゃないかと、あっしは心配なんです」
雁助の言うことには、心当たりがあった。春冲の言葉の端々に、モノノケに肩入れする気配を感じ取っていた朔次郎は、ついつい無言になってしまう。流れる微妙な空気を払拭するように、雁助は四角い顔をにこりと綻ばせた。
「旦那。とんでもないやつですが、これからも春名をよろしくお願いします。あっしも、精一杯で協力させてもらうんで」
深々と頭を下げた雁助を止めようと、一歩踏み出した朔次郎を呼ぶ声がかかる。声の主は春冲らしいが、切れ目の瞳は目蓋の下に隠れたままだ。どうやら、寝言らしい。
「旦那」
紅色の唇から零れた言葉に、雁助と顔を見合わせる。ついつい息を詰めてしまった朔次郎に、春冲はむにゃむにゃと尋ねた。
「その刀にくっついている子は、誰です?」
その問いに雁助は首を傾げ、朔次郎を見上げて――――顔を逸らした。朔次郎の顔を見た雁助は、瞬時に悟った。これは、決して踏み込んではいけない領分だ。そう察したからこそ、気の利く岡っ引きは、朔次郎をさりげなく暖簾へと追いやった。
「旦那。夜道には気をつけておくんなせえ。これ、少ないですが土産です。家でゆっくり飲んでくだせえ」
雁助の手渡した竹筒を夢うつつで受け取った朔次郎は、雲の上を歩くような心地でふわふわと夜道を歩き出した。見世物小屋が集まる両国橋一帯は、夜はそれなりに治安が悪い。そこかしこで見かける堅気ではない人々を横目に、朔次郎はふいに霧が晴れた気分になった。
(……なるほど。だからこの刀は、モノノケが斬れるのか)
旧鼠を叩っ斬った時より先、ずっと気になっていた。なぜ、妖刀村正でもないのに、ただの大刀でモノノケが斬れたのか。なぜ、春冲が「旦那なら大丈夫」などと、根拠のない自信を持っていたのか。
春冲には、視えていたのだ。かつて朔次郎が、この刀で斬り捨てた者の姿が。その者がモノノケとなり大刀に憑き、モノノケが憑いた刀でならモノノケが斬れることを、わかっていたのだ。
「……ふふ、はははっ」
ふいに、笑いたくなった。提灯片手に笑う朔次郎を、やくざ者らしき姿の男が、ぎょっとしたように振り返る。そそくさと逃げていく男に気づくことなく、朔次郎は笑い続ける。
「まだ、傍にいてくれるのですね」
ぽつりと漏れ出た言の葉は、誰とも聞かれることなく、夜陰に紛れて消えた。
大江戸モノノケ捕物帖 朝木モコ @bokke
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