旧鼠とこぼれ梅酒(四)



 すっかり腰を抜かしてしまった大和屋の面々を残し、亀戸を出た朔次郎はその足で御番所へと向かった。事の次第をすっかり報告し終えると、大きな欠伸が零れた。大和屋には、御番所がしかるべき罰を下してくれるだろう。モノノケ同心と異名をとる朔次郎の仕事はここまでだ。そう思うと、妙に後味の悪い疲労感に襲われた。

 その夜は早めに床についたのだが、夢見が悪くて夜中に目覚めてしまった。お蔭で昼間だというのに身体が怠い。縁側に座り込んだまま、ぼうっと荒れ果てた庭を眺めることしかしない主に唯一の中間が気を揉み始めた頃、夕暮れ時の御影邸に来客があった。


「お春ちゃんが旦那にせひ来て欲しいところがあるそうっす」


 例によってぶすりと不機嫌な虎造だ。年老いた中間の運んだ番茶をがぶりと飲み干す虎造を見て、朔次郎はゆるりと首を傾げた。


「来て欲しいところ? 大和屋には御番所から役人が手配されたはずですよ」

「大和屋じゃねえっすよ。まあ、俺について来ればわかります。支度が済んだら、声をかけてくだせえ」


 どうやら、朔次郎に選択権はないらしい。だからといって、とりわけ断る理由も持っていなかった朔次郎は、言われた通り支度をすることにした。私用だと言い聞かせて、十手は懐に入れなかった。大刀と脇差については迷ったが、朔次郎とて武士の端くれだ。諦めて腰に二刀を差すと、その重みにぐらりと身体が傾いだ。

 せかせかと歩く虎造に歩調を合わせてついていくこと数刻。辿り着いたのは、回向院裏にある小さな蕎麦屋だ。店の暖簾には「すずや」と書かれている。江戸屈指の盛り場である両国橋りょうこくばしの近くでもあるせいか、暖簾の奥はなかなかの賑わいをみせていた。


「いらっしゃいませ、旦那」


 板場に馴染みの顔を見つけた朔次郎は、驚くと共にははあと唸ってみせた。なるほど。ここは雁助の店なのだ。岡っ引き稼業だけではなかなか食っていけないため、ほとんどの者が女房や子供に別の副業を持たせている。雁助の場合、それが蕎麦屋ということらしい。床几と小あがりがそれぞれ二つずつあるだけの狭い店内は、席に空きがないほど繁盛している。

 そして、朔次郎を呼びつけた張本人は、一番奥の小あがりで小鉢をつついていた。


「虎、ありがとう。もう帰っていいよ」

「お春ちゃん、つれないことを言わないでおくれよ。俺も一緒に一杯いいかい?」


 すり寄る虎造にぴしりと平手を打ったのは、前掛けを締めた恰幅のよい女子だった。


「野暮なこと言ってんじゃないよ。飲んだくれる暇があったら、お運びでも手伝っとくれ」

「げえ、おかみさん!」


 おかみ、ということは、雁助の女房か。ずんぐりとした腰回りに両手を当てて仁王立ちになる姿は、肝っ玉母ちゃんの見本だ。慌てる虎造を板場に追いやったおかみは、朔次郎にあつあつの番茶を出すと、深々と頭を下げた。


「御影の旦那。お初にお目にかかります。アタシ、名をりんといいます。いつも主人と娘がお世話になって」

「いえ……お世話になっているのは私の方です」

「おかみさん、頭を上げておくれよ。旦那が困ってる。こういうのは苦手な人なんだ」


 ね、と春冲に微笑まれたので、苦く笑って返した。それでようやく頭を上げたおりんに、春冲は酒を注文する。


「で、旦那は何を食べます?」

「何をといっても、ここは蕎麦屋なのでしょう?」


 先程からよい出汁の匂いが漂っている。ようやっと空腹感を思い出した朔次郎は、昨日から何も食べていないことを思い出した。


「ま、表向きは蕎麦屋ですけどね。蕎麦を頼む客は誰もいないんです」

「なぜ?」

「ここの蕎麦は、びっくりするほどまずい」


 べっ、と赤い舌を覗かせる春冲に、思わず小さな笑いが漏れた。蕎麦屋なのに、蕎麦がまずいとはどういう了見だろう。だからなのかはわからないが、ここは蕎麦の他にも季節に合わせた膳も用意しているようだ。


「まずいってなんなの。あの人はあの人なりに、一生懸命こさえているんだ。面と向かって、そんなことは言っちゃあいけないよ」

「雁助だって、自分の作る蕎麦がまずいってわかってるよ」

「雁助なんて、名で呼ぶのはよしとくれよ。あんたのことは実の娘のように思ってるんだ。だから――」

「おっとうとでも呼べって? はっ! 死んでも厭だね!」


 大仰に厭がってみせる春冲を、おりんが腰に手を当てて叱りつける。言葉は厳しくても、その声色は思いの他柔らかかった。おそらく、おりんにとって呼び名などどうでもいいのだろう。どちらかというならば、呼び名にかこつけて春冲に絡みたいだけのように見える。

 しばらく言い合いを続けたおりんは、はっとしたように朔次郎へ向き直った。


「失礼しました。それで、旦那は何にします?」

「蕎麦はやめた方がいいですからね」


 それでも、漂う出汁の香りに負けた朔次郎は、かけ蕎麦を一杯頼んだ。ほかほかと立ちのぼる湯気の下には、焼き海苔、葱、焼き鳥が盛りつけられた蕎麦が沈んでいる。ごくり、と喉を鳴らした朔次郎は、一口蕎麦を口に含み――――首を傾げた。


「……あれ?」


 今度は汁を啜ってみて、首を傾げる。醤油と昆布出汁がよく混じった汁はおいしい。麺はだって茹ですぎなんてことはない。具材だって、それぞれ出汁が染みて良い味が出ているはずなのに。

 蕎麦として完成されたものをいっぺんに食べると、何とも珍妙な違和感があった。


「だからまずいって言ったでしょう」


 向かいでくすくすと笑う春冲は、湯呑に入った白い飲み物をがぶりと飲んだ。見た目は夏に良く飲まれている甘酒に似ている。湯呑からは、仄かに酒の香りがした。


「それは?」

「こぼれ梅酒。旦那はこぼれ梅がお好きだと教えてやったら、雁助が張り切ってこしらえたんですよ」


 その時、目の前に春冲のものと同じ湯呑が置かれた。盆を下げ持つ雁助が、朔次郎に向き合うと厳つい顔をにこりと綻ばせて笑う。


「旦那。こたびの一件では、随分とお世話になりました。ささやかですが、今夜は思う存分飲み食いして行ってください」

「いえ、私は……」

「旦那。人ってもんはね、うまいもんを食べると自然と笑顔になる、至極単純な生き物なんです」


 それ以上は何も言ってくれるな、という風情の雁助が、目線で湯呑を促す。ほかほかと湯気を立てるこぼれ梅酒を口に含むと、素朴な甘みが口いっぱいに広がった。


「……おいしい」

「ありがとうございます。あっしの作る蕎麦はいけませんが、その他は何とか食べられる代物ですので、遠慮せずに頼んでくださいね」


 何とかなどという言葉はもちろん謙遜だ。雁助が考えたというこぼれ梅酒も、初春の色どりが眩しい小鉢の数々も、そのどれもに舌鼓を打った。これほどうまい料理をこしらえるのに、どうして蕎麦だけはああもいけないのか。思う朔次郎は、気がつけば声を立てて笑っていた。


「へへっ。旦那、ようやくちゃんと笑ってくれましたね」


 酒が入ってにわかに頬を赤らめる春冲があまりにも楽しそうなので、朔次郎はごく自然な流れで切り出していた。


「例え浪々の身に落ちても、お役目を返上しようと考えていました」

「へえ」

「でも、もう少し続けてみようと思います。お役目の後にこんなにもうまい酒が飲めるなら、悪くはない」


 からからと声を上げて笑う春冲が、「蕎麦以外の料理もうまいですよ」と付け足す。


「旦那」

「はい?」

「たかだか十六年ぽっちしか生きていないアタシに、どうこう言えた義理はありませんがね」

「はい」

「アタシは人生に、うまい酒と筆一本あればじゅうぶん幸せです。だから、酒の味も知らずに死んだ赤子は本当にもったいないことをしたと思いますよ。そして、人を好いて人を祟り殺した旧鼠も、至極もったいない人生でした」


 にっこりと紅い唇を弓なりに引いて微笑む春冲は、やはり年齢不相応で、大人びていた。

 人には決して視えないものを映す双眸に見つめられて、朔次郎は薄く微笑み返す。そうなのだ。旧鼠は、赤子を通して人を好きになり、赤子を死に追いやった者たちによって、人を嫌いになった。それでも、一度好きになった人を恨み続けたくなどなく、だからといってたった一人の味方もいない赤子を忘れることもできない旧鼠は、苦悩していた。朔次郎は、大刀に旧鼠の重みを感じた瞬間、記憶と共にその苦悩を見抜いた。モノノケが視えるというこの娘も、旧鼠の苦悩を見抜いていたことだろう。

 朔次郎は、娘の目が恐ろしい。恐ろしいけれど、この出逢いをなかったことにはしたくなかった。


「では、乾杯をしましょう」

「何に?」

「そうですね……花の下に集った私たちに、というのはどうでしょう?」


 「こいつは風流だ」と笑う春冲が、湯呑をささげ持つ。チン、と軽やかな音が、賑々しい店内に響き、消えた。


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