旧鼠とこぼれ梅酒(三)
「竹籠……?」
あまりにも予想外の言葉に、虎造が腕組みをしたまま首を傾げている。対する朔次郎は、最悪の可能性に背筋がぞわりを粟立つようだった。
「春冲どの。それはあまりにも突飛な考えです」
思わず否定するような物言いになってしまったのは、一重に信じたくなかったからだ。佐吉の竹籠は、悪癖が顔を出した時に、殺す畜生を入れておくもの。その中に、人の子をいれておくなんて。
「旦那はお疑いのようですが、どうですか佐吉さん?」
「……っ」
「佐吉。よけいなことを言うんじゃないよ」
ぴしゃりと諌めたのは、一人だけ素知らぬ顔を貫き通すお内儀。
「春冲、と言いましたね。あなた、何の証立てがあって赤子だとか竹籠だなんて言っているんです?」
「証立てなんてありませんよ。全部、そこにいる旧鼠が教えてくれたことだ」
春冲のほっそりとした指が差す先には、ひらひらと紅い花弁の散る庭があるだけ。舞い散る梅の花弁を目で追ったお内儀が、呆れたように鼻を鳴らす。
「旦那さまから聞きました。あなた、化物の絵しか描かない、騙りの絵師だそうですね。うちを引っ掻き回して、何がしたいのです? 目的は
「そうですね……こんな絵でも売り物になるなら、大枚をはたいてもらってもいいですよ?」
くすくすと挑発的に笑う春冲の手には、あの梅の花木と旧鼠の絵があった。だが、朔次郎が目にしたものと明らかに違うそれに、思わず口をぽかんと開いて驚く。それは、目を見張るほど鮮やかに着色されていた。下書きの段階でも十分うまい絵だと思っていたが、完成したそれは、まるで見たものをそのまま絵に閉じ込めたように精巧。ぐねぐねと、まるで生き物のようにうねる梅の木を黒一色で荒々しく描いたと思ったら、枝には息を呑むほど鮮やかな赤と白の花弁がついている。一重に紅白の花弁といっても、一つとして同じ色はなく、微妙な明度差をつけることで、本物に近い質感を出していた。よくよく目を凝らせば、紅白の花には緑青や石黄も使われているらしい。芸術に疎い朔次郎は、もはやどのような手を施せばこの絵がなせるのか、皆目わからない。
そんな鮮やかで華々しい紅白の梅の花のたもとには、今にも絵から飛び出してきそうなモノノケがこちらを睨んでいた。
「なんです? その獣は」
「おや、ご存知ありませんか。あなた方が赤子と一緒に
春冲の核心にも似た声に、朔次郎は人知れず息を止める。やはり、と思う心のどこかで、まだ抗っていたくなる。人が、人の子を殺せるはずがないと、信じていたくなる。
藁にも縋る思いの朔次郎に、しかし真実は優しくない。
「お内儀さん、嘘はもうやめましょう。あなた方は、お梅さんの赤子を持て余していた。そんな時に、悲しいながらも折も良く、佐吉さんの悪癖が始まったんだ。だからあんたらは、竹籠の中に捕まえた鼠と一緒に、赤子を入れて殺した!」
「莫迦なことを言わないでちょうだい! 佐吉、あなたも何か言ってやりなさい!」
理性の仮面が剥がれつつあるお内儀に怒鳴られて、佐吉がびくりと委縮する。ぶるぶると震える顔は、真夏の空のように真っ青だ。
震える唇を何とか動かして、佐吉が言葉を紡ごうとした――――その時。
頭の裏側で、鼠の鳴き声が聞こえた気がした。
「……始まった」
「え?」
囁くような春冲の声にかぶさったのは、耳をつんざくような盛大な悲鳴。声の主は、真っ青な顔をした佐吉。ぶるぶると震える身体を二つ折りにして、梅の木の根元に蹲っている。
「旦那! 旧鼠だ!」
咄嗟に駆け出した朔次郎は、手早く佐吉の具合を検分する。骨も浮かばんばかりの力で押さえる左腕からは、真っ赤な鮮血が滴っていた。
「厭だ! 厭だ……っ! 殺さないでくれ……っ!」
負傷した佐吉は混乱している。何があったのか尋ねる朔次郎にしがみついては、呂律の合わない言葉を叫び、半狂乱になっている。死に物狂いでしがみつく佐吉を何とか引き離し、怪我の検分をする朔次郎は驚いた。佐吉の左腕は、まるで獣に噛みつかれた時のような傷跡があった。
「旦那! 右だ!」
切羽詰まった春冲の声に身を引けば、右肩に熱が走った。じわりと広がる痛みと血の赤に、まじまじと目を凝らす。右側の空間にはなにもない。けれど、春冲の目には、旧鼠の姿が映っているのだろう。咄嗟に避けなければ、それは朔次郎の喉を狙っていたかもしれない。
「旦那! 大丈夫ですかい!?」
「雁助どの! 危険です! 離れてください!」
「危険を恐れて岡っ引きが務まりますかい! おい、虎! 久兵衛さんとお内儀を守れ!」
「旦那、今度は左だ! 違う、もうちょっと下で……ああ、違う!」
もどかしげに声を上げる春冲は、どうやら旧鼠の動きを教えてくれているらしい。大和屋を祟っているというモノノケは、佐吉の――――そして、久兵衛とお内儀の命を狙っている。三人を守ろうと、反射的に抜刀する朔次郎だったが、目に視えない相手ではどうしても分が悪い。庇っているうちに、身体には無数の噛み傷を作ってしまった。
「旦那! 首だよ!」
悲鳴のような春冲の声に、咄嗟に首元で大刀を構えれば、確かな感触が刀身から伝わった。
これが、モノノケ・旧鼠の重み。
その瞬間、溢れた想いの鱗片が、奔流のように朔次郎の頭を貫いた。
(これは――――……)
記憶だ。
その記憶は、痛みから始まる。それでようやく、朔次郎は鼠捕りにかかった旧鼠の、生前の記憶だということを理解した。
痛みの次に感じたのは戸惑いだった。放り投げられた竹籠には、先客がいたのだ。自身の末路を悟っていた旧鼠は、随分と毛色の違う先客に戸惑いを覚えた。今まで目にしたどの動物よりも身体が大きい。身体の一部しか毛に覆われていなくて、肌がすべすべしている。新顔に気づくなり、きゃっきゃっと喜びの声を上げる生き物を、旧鼠は人の子だと理解した。
旧鼠と人の子は、竹籠に入れられたその日から、一切の飲食を与えられなかった。それでも、人の子は旧鼠が動くたびに楽しそうに笑った。やがて、笑う力すらも失い、浅い息を上げるだけになった人の子の元に、人間の男と女が一匹ずつきた。女の方は、「泥棒猫の子が、図々しくもまだ生きてんのかい」と言ったが、旧鼠には「泥棒猫」という言葉が理解できなかった。男の方は終始痛ましい顔をしていたが、結局一言も言葉を発さずに、背を向けてしまった。
人の子は、まもなく息をしているのかいないのかも、わからない状態になった。旧鼠は思う。もし、一緒に竹籠に入ったのが脆弱な人の子ではなく、他の獣だったら。自らが生き残るために、旧鼠は食べられていたかもしれない。だから、か弱い人の子と一緒に竹籠に入れられたことは、旧鼠にとって不幸中の幸いであったのだが、旧鼠はなんだかやりきれない気分になった。
竹籠に入って月が五回上り下りしたその日、竹籠に若い男の人間が一匹きた。それまでにも何度も顔を出しては、竹籠の中のものを見て嬉しげに笑っていた男だ。男はやはり嬉しげな表情のままで、「人を殺すのは初めてだ」と言った。
そして、旧鼠と人の子は順番に火鉢にくべられた。当然、火鉢の炎だけでは十分に燃えるはずがないので、売り物の菜種油をたっぷりと頭からかけられた。最初に火鉢にくべられたのは、人の子の方だった。もう泣く気力など残っていないくせに、それでも人の子は燃え死ぬ瞬間にか弱い泣き声を上げた。やがて、ゆるゆると消えていく泣き声を、旧鼠は混濁した意識の中で聞いていた。そうして、心にどす黒い染みが広がっていくのを感じていた。
――――許さない。
――――許さない。
――――絶対に、許してはならない。
泣くことも、笑うことも許されなかった人の子のために、自分だけは許してはならないのだ――――……。
「――――哀れで悲しいモノノケよ。そなたの想い、しかと聞き届けました」
不思議なことに、構えた刀身には旧鼠の姿がくっきりと映っていた。春冲は猫ほどの大きさの鼠だと話していたが、今その図体は朔次郎よりも大きい。それでもそれが旧鼠とわかったのは、春冲の描いた絵の生き写しだったからだ。朔次郎など簡単に噛み千切れそうな怜悧な口からは、まるで泣き声のような鳴き声が漏れていた。
――――姿が、かたちがわかったところで、自分にしてやれることは何もない。
唇を噛む朔次郎へ、春冲の鋭い声が飛ぶ。
「旦那! 斬ってくだせえ!」
「え?」
「モノノケの無念を、断ち切ってくだせえ! 大丈夫! 旦那ならできる! アタシを信じて!」
わけもわからず、大上段に構える朔次郎に、旧鼠が突っ込んでくる。まるで、この時を待っていたと言わんばかりに、突進する旧鼠は隙だらけだ。それで、朔次郎の迷いは完全に断ち切れた。
一刀の元に振り下ろした大刀は、旧鼠の脳天をやすやすと貫いた。目を見張る朔次郎の足元に、旧鼠の死骸が横たわる。今となっては猫ほどの大きさしかないそれは、誰もが言葉を失っているうちに、ゆっくりとかたちを消してしまった。
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