第20話 夜明け
佐間の郡を一望できる高台。この景色を目にするのはおそらく最後になるだろう。
「本当に変わったわね」
隣にいた勇に言うでもなく、浅海はそう呟いた。
懐かしさはもちろんある。林や丘陵、そして川の位置は同じままなのだ。けれど確実にあった変化を受け入れることは容易ではない。
離れていたのはたった数年だというのに、その町並みから昔の面影は見るからに失せている。見慣れない屋形、幾重にも築かれた砦、至る所を流れる水路。これを提案し、造作の指揮を執ったのは海里らしい。海を渡ってもたらされた知識をこの国に合うように作り変え、そして最大限に生かしているそうだ。
彼が行った画期的な取り組みは見事に的中し、佐間は莫大な利と権力を得た。が、同時に国府からの干渉の度合いも格段に上がった。その証拠に智をはじめに佐間の面々は高位の官職を得たが、納める貢も遥かに増えたのである。
これを聞いたのはつい先頃。教えてくれたのは、風見だった。
智からちらと耳にしたこともあったが、彼は国府を持ち上げるばかりで中身を話してはくれなかった。もっとも彼とて知らぬ部分は多々あって、語れるほどの知識はなかったのかもしれない。
風見とまともに会話をしたのは、あの出来事から数日経った後である。結局、彼は浅海をそのまま捨て置くことにしたらしい。
気を失ったままの浅海は、海里の手で陣中に運び込まれ、そのまま翌日中監禁された。屈強な兵を何人も見張りに置かれ、抜け出せないでいるうちに、皆の最期を知らされた。それも単なる報告形式の簡単なものだった。
誰がどうこうと、詳しい話を望んでいたわけではないが、事務処理のように告げられただけでは現実感がなく、未だに事実として受け止められていない。
単なる現実逃避かもしれないが、辰国の皆が処刑されたことも、星涙が自身で命を断ったことも信じられないのだ。だが、全てを知らないでいるからこそ、こんなに冷静でいられるのだろう。でなければ、とっくに壊れているに違いない。
少し冷たい風に髪をなびかせながら、浅海はしゃがみ込んだ。
「私は佐間を、いいえ、東国を捨てたわ。そんな私を救ってくれた辰国を滅ぼした。どこに生きる道があるのかしら」
乾いた土に模様を描きながら、寂しそうにそう話す浅海に、勇はそっと話しかける。
「ご安心なさい。あなた様には海里様がついておられます。あの方を信じれば大丈夫、何も案ずることはございますまい」
浅海は土に目を落としたまま、静かに首を振った。
「目を閉じるとね、みんなの笑顔が思い浮かぶの。海里とそしてこの佐間とも切り離された私を救ってくれたのは彼らだった。それなのに私はこうして生きている。海里がそばにいてくれる。幸せなことなのかもしれないけれど、そう思えない自分がいるの」
浅海の思慮の浅さと心根の弱さは、この世に二つと無い凶器になった。その犠牲となったのは自分じゃない。
浅海は膝を抱えて蹲ると、目を閉じた。
「過ぎた時は元通りには出来ないわ。ううん、仮に戻せたとしても私はまた同じことを繰り返すでしょうね」
「浅海様」
「私はね、罰を受けなければならないの」
勇が怪訝そうな顔を向けてくる。浅海はそれに寂しく笑い返した。
「龍神は、最期に私に未来を見せた。とても恐ろしいものだった。でも、それは私への罰であって、絶対に避けては通れない」
「…一体、何が?」
怖々問う勇に浅海は、海里には言わないで、と前置きしてこう続けた。
「私は海里の子を授かる。けれど、その子の命は海里自身の手で絶たれるの」
割れる瑠璃杯。飛び散る酒。その横で白い喉を掻きむしりながら、床に伏して苦しげに呻くのは、浅海と海里の息子である。そして彼に氷よりも冷たい視線を突き刺さしているのは間違いなく、年を重ねた海里だ。
浅海の姿はどこにもない。唯一はっきりしている音である海里の言葉から察するに、既に生きてはいないらしい。
『お前の、お前の所為で浅海は死んだ』
そう告げる彼は無表情で、浅海の知っている海里ではなかった。彼に似た灰色がかった瞳を見開き、床をのたうちまわる息子に、彼は容赦なく憎しみの視線を投げつけている。そのどこにも愛情は見られない。それどころか、人としての感情すら見いだせない。
「そんな不幸が見えているのに、私はそれに向かって進んでいるわ。避ける術なんて、いくらでもあるのに、それを選ばないの。どうしてなのかしらね」
「未来は、幾らでも変わる。違いますか?」
弱弱しく笑む浅海に、勇は力強くそう言い切った。
「第一、そんなものはあなた様の想像に過ぎない。海里様はいつまでも海里様です。浅海様があの方を信じられなくてどうするのですか」
「…そうね。つまらない話をしたわ。ごめんなさい」
浅海はすくっと立ち上がると、勇に向かって手を差し出した。
「今まで本当にありがとう。あなたと葉那がいたから、私はこうして海里と共に行ける。別れは寂しいけれど…今度こそ、新たな土地で彼との暮らしを始めるわ」.
「幸せを祈っていますよ」
手を握り返しながら、彼もまた泣き笑いのような顔をして見せる。
「共に西へ行こう」
全てが片付くのを待たずに、海里は浅海を抱きしめながらそう告げた。
「かの地で、全てをやり直そう」
ついに来るべき時がきたのである。浅海はどす黒い感情に支配されそうになるのを必死に堪えた。彼と生きて行けば、確実に未来での惨劇が生まれる。そうわかっているのに、浅海は早鐘を打つ胸の中でこう即答していた。
「ええ。もちろん」
彼の灰色がかった瞳には何の迷いもない自分が映っている。浅海は彼の背に回した腕に力を込めた。
「あなたと生きていく。ずっと前からそう決めているわ」
天境線 @mukumimihana
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