第3章 黒船来航
ホースで水を沢山入れて、足で踏みしめることでローラーが閉じて、挟んでおいたモップを絞れるという機械がある。正式な名前が何かあるはずだけれど、私たちは気にせず「モップ」とか「モップの」とか言った。それ自体はモップではないのに、誰も気にしないから習慣が正体を踏み倒してしまった例だ。
私の職場であるスーパーおかむらには、その他にも、実際には業務用リフトというらしい「ビービー」とか、習慣の名前がつけられてしまった道具が結構あった。習慣が沢山揃っていること自体は、人間の棲む環境として良いものだと思う。
「食べる」とか「寝る」とか「着る」とか、他人と競うものでもなく、毎日続けても死ぬほど疲れない行為で、生活を埋めていけたらどんなにいいだろう。時間割みたいなものがあると何だか、その繰り返しが永遠に続くような気持ちになれるのだ。中学を出て一切の時間割を手放してもなお、いまだに。
私がいつも通り「モップ」を踏みしめて、汚れた水が排水溝へ流れ落ちるのを見送っていると、
「薫子ちゃん、薫子ちゃん」
と言いながら、実花ちゃんが慌ただしく入って来た。
「店長来た、」
大人しい、いい子という評判と裏腹に、彼女は結構他人の好き嫌いが激しいということを私は知っている。この咄嗟の叫びにも、彼女があまり店長を評価していないところが滲み出ていて、私は彼女の正直さに好感を持った。
「今行く、」
そう言って私は立ち上がった。モップを蹴ってしまい灰色の水がざああとこぼれた。
「全員揃ったのかな、」
と、開店前の薄暗い店のなかで、店長が周りを見回しつつ言った。誰も何も言わなかったが、実花ちゃんが目が合った時に彼に向かって頷いた。
店長は四十代初めの、少し頭髪の薄い、どこか青白い瓜を思わせるおじさんだ。名称を前代の「岡村乾物店」から「おかむら」に変えたこと以外、別にこれといった功績もない。店にも月に二、三度しか顔を出さない。来れば何というわけでもなく「ミーティング」というものをやる。店の経営にはさほど関心はない。パチンコと若い女が何より好き。
私の面接の時も、私が年齢を言うとすぐ、履歴書も見ずに
「何だ女子高生かあ」
と言った。
「高校行ってないです」
と言うと、彼は履歴書ではなく私の髪の色を見て、
「じゃあ何、きみは、不良少女なの?」
と言った。フリョウショウジョ、というのを彼はジョシコウセイ、というのと同じような発音の仕方で言った。私はそう呼ばれただけで、髪にヤニ臭い唾をつけられたような気分になったけれど、我慢しつつ
「別に。ただの、実花ちゃんの友達です」
と自分を定義し直した。実のところ、私には当時、世間で通りそうな肩書が他になかった。彼は私の返答には関心がないようで、履歴書の写真ばかりをじろじろと見て、ふうんそうね、と女言葉で呟いた。それで私は合格したらしかった。
私が来てからも度々、アルバイトの女の子が来た。それで、私は来た当初、パートのおばさんたちにどう見られていたのかを知った。金髪で中卒で態度も悪かったから、多分彼女らと同類だと思われたのだろう。要するに度々店長が連れて来る、どこかで引っかけた家出少女の一人だと。
「ほどほどにしておきなよ、どうせすぐいなくなるんだし」
どうやら私がただの金髪で、援助交際不良少女でないと分かったパートのおばさんが、彼女たちについて忠告するようになった。そして実際、いつの間にか彼女たちは来なくなった。私は店のなかで彼女たちよりマシで、そして実花ちゃんのようないい子ではない若者、という位置づけらしかった。
「はい、じゃあ馬瀬さん言えるかな」
と、店長が隣に立たせた金髪美女に向かって言った。
「エリーです、」
十八、九ぐらいに見えるその美女は、派手な顔立ちの割には、案外滑らかな日本語の発音で話した。
「馬瀬・エリーです、みなさんよろしくお願いします」
彼女は隣にいる店長と殆ど背が変わらず、多分身長が百七十センチぐらいありそうだった。肌の色がチョークみたいに白く、鼻が尖って高く、ガラス玉のようにぴかぴかした青い瞳をしていた。このアメリカの国旗みたいに派手な容貌のどこから「よろしくお願いします」という曖昧な日本語が漏れてくる余地があるのか、そのことが不自然に感じられた。
「金髪が増えちゃうわね」
と、パートのおばさんが私の近くで囁く声が聴こえた。気圧されてんじゃん、と私は内心思った。
ええと、と店長がぐるりと見回して群れのなかにいる私を見つけた。
「今井さん、今井さんねえちょっと」
彼が手招きするのを、私は不審に感じた。時々パートのおばさんが、気に入らない新人の女の子に、私を世話係につけることがあった。半ばは毒を持って毒に当たらせるという感じで。しかし店長自ら指名してくる意味は、ちょっと分かりかねた。まさか本当にただ金髪だからか。金髪同士仲良くしろとでも。
「あのね、日本語は分かるって。お父さん、が、日本人なんだよね? エリーちゃん、それでお母さんがアメリカ人、だったかな? ねえ、日本来てもう何か月? あっちでも何かやってたんだよねえ。だから、日本語は分かるっつうんだけど勉強中、だから。
ねえエリーちゃん、このひとが今井さん。今井さんにいろいろ聞いて、お勉強してください、分かるかな、ね」
彼は私の側を離れる時、小声で「虐めないでね」と囁いた。世話係などをさせる割に、まだ私のことを不良少女という印象でしか見ていないのか。実花ちゃんに脱色しろと言われたんだけどなあと思いつつ、私はとりあえず、彼に対しハイと返事をした。
「水」という漢字を、エリーは小学生が使う濃い緑色の表紙のノートにびっしりと書き綴っていた。ただ鉛筆で書くだけでなく、水色のマジックで書いたり、ピンクのマジックで周りにハートを飛ばしたり、単に模様として見ているみたいだった。
それがいかにも楽しそうだった。よく私も店のポップを書かされるけど、単に「水」と書くだけでも、遊びと思えばこれほどバリエーションがあるんだな、と感じた。店長の話から、多少日本の血が入ってるアメリカ人、と私は認識したけれど、こんな明るいガイジン、確かに今までいなかったタイプだと思った。――みんなと合わないかもな、とも。
黙ってノートを覗き込んでいたら、彼女が「自分に興味を持ってくれて嬉しい」というような視線を上げて来た。そういえばちゃんと名乗ってなかったなこのガイジンの子に、と私は思い直し、
「今井薫子です、よろしくお願いします」
と言って手を差し出した。別に特段の意味はなく、ただ外国の人だからお辞儀するより握手かな、と思って手を出しただけのことだった。エリーは私の手を見て一瞬、何か思案し、それから私を真似るみたいに手を出した。彼女の手は大きく、感触といい雨合羽みたいだった。
「イマイ、カオルコさん」
と、彼女は私の名前を面白そうに繰り返した。一度目はただの響きとして、それから幼児が飴玉をしゃぶるように、口のなかで数度繰り返していた。それからふと、
「漢字、これに書いてくださいよ」
と言った。
後に分かることなのだが、この「~してくださいよ」というのは、エリーが相手に依頼したい時に使う微妙な日本語の一つだった。パートはおろか、お客さんにも平気で「ドアを閉めてくださいよ」「袋を取ってくださいよ」とかハッキリした口調で言うから、私は多少咎めた。エリーは咎められると好奇心で喜ぶたちで、その後も私は彼女に微妙なことを教えるのにすごく苦労した。
「今井 薫子」
とノートに大きく書いてみせると、彼女は虫眼鏡を当てて虫を観察するみたいに、大きな青い瞳でしげしげと見た。
「漢字、分かる? 『今』って、ナウのこと」
と私は外国人に伝えるのにそれでいいのかと思いつつ、たどたどしい説明をした。
「あと井戸、井戸って何て言うんだろう、ポンプ、あの水道の、古いやつ。池みたいなもの。あと薫、これが難しいかも、匂いするっていうこと。あとは子供の子、これはチャイルド、オーケー?」
「わたし、分かります」
とエリーは先生に当てられて答えを言う生徒みたいな顔つきで言った。顔つきから、今や私を漢字の先生として尊敬している節が見えておかしかった。
「じゃあ、いまの、むかしの、古い水道で、匂いがする子供が、カオルコさんですね」
そう言われると、私は何だか自分が井戸に落とされて殺された女幽霊のような気がした。「実花ちゃんの友達」「あのキンパツの子」と言われる以外に、私にはそんな呼び方もあったのか。
カオルコさん、カオルコさん……という言いにくいらしい名前の方を、彼女は喜んでいた。これがアンナだったら多分それほど喜ばなかっただろう。ママは名前をつける時、アンナの時は外国人でも呼び易い名前に拘ったらしく、次の私の時は逆に古めかしい名前にしたという話を聞いたことがあった。
エリーは「薫子」という漢字も気に入ったらしく、猫の背を撫でるようにノートの上でその字に触った後、弾けるような笑みを含んだ目で
「ふさふさしています」
と言った。
私は笑って、
「嘘つけよ、鉛筆で書いただけじゃん」
「いいえ、触れば分かりますよ。まるで羽根がついてる鳥みたい」
「画数多いんだよねその字……」
そう言いながら、私は隣に、画数の少ない方のカオル、つまり「香」という字を書いた。キュキュッというマジックの音が、私たちに醸されつつある親しさのしるしのように辺りに響いた。
「これも同じ。ホラ芳香剤、とかあるじゃん。洗剤の棚の近くに並んでるやつ。あれの匂いはこう。こっちもいい匂いっていう意味だから、私別にこっちでも良かったな、その方が書くのラクだし」
ふと、頭のなかに「幻想即興曲」という文字面が蘇った。元のタイトルが何だか私は知らなかったけれど、いかめしい漢字を当てられるに足る、複雑な曲だったなと脳裏に散らばった印象を纏めて感じた。名は体を表す、と言うけれど、ショパンはもっと単純な名前の曲を作ってくれていたら良かったのにと思う。「子犬のワルツ」も十分大変だったけれど、せいぜい「今井杏奈」ぐらいの曲があったら良かった。
私の名前になった「薫」は、「薫風」だとか、難しい表現に使われる場合が多い。店にある商品だと、お線香の商品名にあるのが「薫」で、トイレの芳香剤に使われているのが「香」だ。名は体を表すというけれど、私は辺りをごまかす芳香剤の香子で構わないのに、わざわざ難しい漢字を当てられたのは、それ以上の何か複雑なものを期待されていたのだろうか。薫、子。お線香の匂いのような、違う世界の空気のようなもの……。
気づくとエリーが何を思ったのか、白いシャツの袖をまくってシャーペンで何か書きつけていた。かりかり、と窓ガラスを引っ掻くような音がした。
「何してんの、」
私は彼女の自傷行為を見たように小さく叫んだ。
「他の女性たちが、手に書いておくと忘れないって言っていました」
「いいよ別に、忘れたって。ここでは水とか、特売とか書ければいいんだから、薫子なんて字い使うことないし」
「でも美しい漢字です。わたし感動しました。だから覚えておきたいんですよ。刺青に彫りたいな。この『薫』という字は本当に素晴らしいから、友達にも教えてあげたいです」
私は傷を、勲章のように明るく太陽の下で見せる、アメリカの人々の姿を思い浮かべた。日本だと不良のしるしのように見られるのに、ハリウッドのセレブなんか平気で恋人や子供の名前を刺青に彫ったりする。また全裸で日光浴もする。自分の身体に対する認識が、このフラッシュみたいな笑顔を浮かべる国の人々と、この薄暗い日本の人々とでは違うんだろうな、と私は漠然と思った。
私は彼女の薄赤い傷を見つめる自分を、井戸に落ちた女幽霊のように薄暗いものに感じながら、
「いくらあんたがアメリカ人でも、刺青とか、怒られると思うよ、よしなよ」
と何やら恨み言のように言った。小言を言うとか、ふいに先輩らしくなった感じがして、嫌だった。
その後、エリーに私は先輩として「刺青を入れてはいけない」「お客さんに~してくださいよと言ってはいけない」の他、モップの使い方、ポップの書き方、商品陳列の仕方などを仕方なく教えた。見た目のせいで、パートのおばさんたちには相変わらず陰口を叩かれていたけれど、彼女自身は何でも面白そうによく学んだ。
言われたことを常に携帯しているメモに書きつけていて、「特売日」「三割引き」と書かれた文字の踊るような明るさは、とても私の日々やっている仕事の内容と思われず、日本語だけど彼女のアメリカ語に翻訳されているかのように感じた。
「エリー語だ」
と私が彼女の独特な調子を言い出し、周りがそれを見て、私たちが打ち解けたと理解したようだった。実花ちゃんは明らかに歓迎していない様子だったが、エリーは薫子さん、薫子さんと言って私によく懐いた。
ある時シフトが終わると、武田さんに「ちょっといい?」と話しかけられた。私はバックヤードと呼ばれている店の裏に連れて行かれた。
バックヤードの電気も点いていない一隅で、じっと蹲っているエリーがいた。こちらには背を向けていたが、ちょろちょろと水を溢れさせたバケツのなかで、何やら懸命に手を擦っている様子だった。
「もうね、三、四時間ぐらいになる」
そう言った武田さんの口調に、エリーに対する全面的な諦めが滲んでいるのを、私は自分自身驚いたことだが――多少の痛みとともに聴いた。エリーは確かに日本に慣れていないらしく、ガイジンさんで風変わりだったけれど、仕事を覚えることには熱心だったはずだ。彼がこれほどの諦めを募らせるまでに、私の知らないところで何かが起こっていたのだろうか。彼は明らかに声を潜めていた。恐らく、数メートル先にいるエリーに聴こえたら彼女を傷つけるかもしれない、と配慮の上で。
「俺、英語分かんないんだけどさ、火傷って英語で何ていうの?」
「私も分かんないです」
彼は私がエリーとよく話しているから、英語が分かる、と思っているらしかった。実際にはエリーは懸命に日本語で話し、私に英語で話しかけたことは一度もなかった。
「そっか。いや昼間ね、カノジョに試食やってもらったんだけど、コーヒーこぼしちゃったらしいんだ。それで福山さんが裏に連れてって、火傷するから手冷やしなって。それからずっと水流しっぱなしで、あのままなの。別に痛がる様子もないから、病院連れてったりしないでも平気だとは思うんだけど……」
一応、声掛けておいてもらえると助かる、と言って武田さんは私の肩を叩いた。すぐに離れた手の重さが、溜息のようにじわりと肩に残った。
私はエリーの方に近寄った。バックヤードの電球は随分前から切れていて、接続部分の金具が壊れているとかで、業者に来てもらわないと交換出来ないからみんな放置していた。開店時間中の明るい時間帯しか使わないし、強いて通る時は懐中電灯を使っていた。
「エリー、おつかれ」
私は本格的に彼女に近づく前に、懐中電灯の光の輪を投げた。おかむらの深緑色のエプロン、白いシャツ、彼女のチョークのように白い腕が順番に露わになった。顔に光を当てると、高くて尖った鼻、青い瞳が、一点に釘付けになっているのがはっきりと分かった。
視線の先には、自分の左手の人差し指があった。それは細い水に包まれて光っていたが、第二関節の辺りに、懐中電灯の光を反射するような異色の輝きが感じられた。
水道の蛇口の下で、透明なガラスの筒が水を浴びて輝いていた。その筒のなかには青と赤の細い管が見え、その部分だけがまるで機械の一部らしく見えた。武田さんの話では、エリーは皮膚を火傷したはずだったが、流水で冷やしているそこには肝心の皮膚が見当たらなかった。
私は驚くより先に、咄嗟に「ガイジンさんだから」と思った。自分が見たものを理解するより、既にある偏見の匂いを嗅ぐことで自分の思考を遮りたかった。あれはきっと刺青か何か――アメリカの人は平気でするような類のものなのだ。ピアスだって、刺青だって、彼らにとっては明るくて楽しい肉体改造の遊びなのだ。肉の指を切り取って、ガラスの指に変えることぐらいが何だというのだろう? 何だか漫画みたいで格好いいじゃないか――きっと彼女は私に自慢気に見せてくる――そして私は先輩として言うのだ。
「エリー、それ、お客さんがびっくりするから止めた方がいいよ」
そして彼女は不満そうに言うのに違いない。いつもそうだけれど、
「これはとても美しいのに、どうして薫子さんもしないんですか?」
と――。
「エリー、」
と私は自分の想像を遮って、彼女に声を掛けた。
「大丈夫? もし病院とか行くんなら、連れてくけど……」
エリーは一瞬、目の覚めるような反射で振り向き、それからゆっくりと白い歯を見せて笑った。私が手にしていた懐中電灯の光の輪が、彼女の頬や歯の辺りを茫然と濡らした。私は自分がその時、何らかの衝撃に貫かれていることを、私が反応するまで硬直している彼女の明るい歯を見て知った。
翌日、私は内心多少の恐れを抱きながら休憩室を覗いた。エリーは何事もなかったかのように出勤していた。ロッカーに何かをぶつけながら、慌ただしく着替えているところだった。女たちが私服から着替える光景は、ここの習慣の滑車が滞りなく回っているしるしだった。いつも見る平和な光景のはずだけれど、昨日のことが思い出されて、私はエリーのシャツの間から素肌がちらつく度、刃物の輝きを見るような心地がした。
エリーは白いシャツを着終わった後、黒いカーディガンを着る前に、慣れた手つきでホッカイロを腰に貼っていた。スーパーは巨大な冷蔵庫みたいなものだから、そこで働く人々はみんな、夏でも厳重に下着を重ねたり、ホッカイロを貼ったりして工夫している。エリーはホッカイロも日本で初めて知ったらしく、それが熱を帯びる上、シャツに貼れるということを喜んでいた。彼女が貼り終わってパン、と背中を叩いた時、いかにもここでの振る舞いに慣れたという感じがした。
武田さんがあそこまで絶望的な調子で話したのは、やはり仕事の失敗以上に、彼女の身体を見てしまったせいじゃないかと思われた。着替えるところまでいかなくとも、例えば指の先ぐらいを。
「エリー、」
と私は多少、私らしからぬ勇気の傾斜をもって彼女に話しかけた。ブラインドの方を見ていた彼女が、その時初めて気づいたように、また翻るような鋭さで振り向いた。
「病院行かないで、大丈夫だった? 指、痛くならなかった?」
「ゆび?」
エリーは一瞬何のことだろうという顔をし、それから何の抵抗もなく左手を持ち上げた。私は一瞬ひやりとしたが、左手の人差し指全体に厳重に包帯が巻かれていた。外側からは、彼女の指は昨日と同じ物かどうか分からなかった。
「そうそう、ゆび」
私はそう言い、彼女の手を取ろうとした。それからふと、自分の手の大きさとの違いを感じた。
なぜか分からないけれど、ふとそうしてみたくなり、自分の手のひらを彼女の大きな手のひらを重ねてみた。ピアノを弾くのに向いていると言われた私の大きな手は、彼女の手と重ねると随分と頼りなく見えた。私の全ての指先が、彼女の指の第一関節にようやく届く程度だった。
まるで子供の手みたいだと、私は内心ひやりとすることを感じつつ、少し彼女の手に向かって背伸びをした。その間も、エリーはブラインドから来る日差しを浴びながら、それを何か、日本式のまじないだと思って受け入れているらしいことが、神妙な眼差しから伺えておかしかった。
「うわあ、エリーちゃん手え大きいね」
と、いつの間にか休憩室に来ていた伊東さんが背後からよく透る声で言った。
「ねえ私のとも比べてみて、うわやだねえ本当に大きい」
彼女のネイルをした爪の先も、やはりエリーの第一関節を超えることが出来なかった。私は他人の身体的特徴の噂が好きな伊東さんが、これ以上エリーに触れることが何やら危険に思えて、エリーに目で合図して離れるように伝えようとした。そんな合図をしたことはなかったのに、エリーは音もなく自然に彼女から離れた。
「ねえイトー、ちょっと」
と、福山さんが来て伊東さんを手招いた。伊東さんはエリーにまだ執着があったらしく、私に何やら目配せをしてきたけれど、私は気づかない振りをした。
彼女たちが去った後、私たちの間には、何やら残された人間同士らしい不思議な親しさが埃のように漂った。私はブラインドの隙間から日差しを浴びながら、ふいに身体の奥に湧いてきた温かい水に浸かるような気分で、漠然と、
「エリーってさ、アメリカで、水泳選手とかやってた?」
と尋ねた。
「水泳選手? いいえ、水泳は得意ではありませんよ。高校時代、テニスならやっていましたが。どうしてそう思うのですか」
「大きいじゃん、ココんとこ」
そう言って私は自分の手首を掴むみたいに、彼女の右の手首を取って手を開かせた。雨合羽のように大きな手は、開いているだけで指や皮膚が滴っているかのようだった。長い指と指の間には、私よりもさらに大きな、パンジーの花弁のような柔らかくて派手な水かきがついている。
「英語だと、何て言うんだろう……この、」
ウォーター、と言った後、私は口をつぐんだ。昨日の彼女の手が、蛇口から滴る水にしとどに濡れていた光景を思い出した。三、四時間はそうしてると武田さんが潜めた声で言っていた、あの間、この広い水かきは一体何を果たしていたのだろう。
私が黙ったまま、彼女のその部分を指先でなぞるのを、エリーは息を詰めて見守っていた。私と違って彼女の沈黙は明るく、相変わらず何かの儀式を見守るために、笑いを潜めるように黙っているということが、あまり隠さない肩の震えで分かった。
その日の終わりに、ゴミ捨て場にまとめたゴミを捨てに行った時、ふと背後から首を絞められて伊東さんに話しかけられた。彼女の息と一緒に、彼女が手にしていた煙草の煙が私の肩や耳に掛かった。
「ねえ薫子、あいつんち行くんだって」
あいつ、と言われて私はすぐにエリーだと分かった。またどうして私たちが休憩室でした会話を知っているんだろう、とも。
「うん、そうです。なんか家来るかって言われたから、じゃあ行くって」
「あいつさ、見た、見たの、サルテ」
そう言って彼女は煙草の火を危うく落としながら、肘と肘を内側でつけて見せた。どうやら伊東さんはその日ずっと、エリーの様子を伺っていたらしく、また彼女の腕が特殊な形であることを知って、その嬉しさを是非とも分かち合うために、わざわざ喫煙所で私が通るのを待っていたらしかった。
エリーの家の最寄り駅は、大学の名前がついた駅で、おしゃれなカフェや古着屋が集まっていて、いわゆる若者に人気のエリアと言われるところだった。家賃相場が高いことでも有名で、果たしておかむらのバイト代だけで部屋を借りられるものだろうかと私は思った。
あるいは家族と住んでいるのかもしれなかったが、親しくなっても彼女が肉親の話を自発的にすることはなく、私たちも、彼女が金髪碧眼というだけで彼女の正体には満足してしまった気分があり、招かれるまで私も彼女がどこで誰と暮らしているのかを知らないままだった。店長が最初に話していたことが事実なら、彼女は父親が日本人、母親がアメリカ人で、三か月前にパパの故郷である日本に来た、ということであるはずだった。
「でもハーフって言う割には、断然あっちの人って感じよね」
と福山さんなどは露骨に言ったし、私もその辺りは何か事実と違うのではないか、という匂いを感じていた。別に店長にもエリーにも問いただす気にならなかったが。
実際にはハーフであれアメリカ人であれ、エリーが日本の暮らしや作法を積極的に学ぼうとし、私たちがやるように暮らしてみよう、という熱意に溢れていることは確かだった。私はその情熱に何だか観光客らしい昂奮というか、他所から来た人らしさを感じ、そういう意味では好意的にガイジンさんらしいと見ていた。
エリーからメールで送られていた地図の画像を見ながらふと、
(もしかしたら、家族がいないのかもしれない)
と感じた。そう思うと、何だか符合することが多くあるようにも思った。あの懸命さ、何が何でもここに生活の根を下ろしてやるんだという気合、あれは彼女が独力で自分を支えようと奮闘している最中であるしるしなのではないか。
(でも一人で外国で暮らしてるから、友達とかいなくて、寂しいのかな)
私は「寂しい」という気配が、一度もエリーから漂ったことがないのに気づいた。彼女は星条旗のような明るさに満ち、大声で歌うように行動し、拍手喝采を浴びるように失敗していた。ただの生活にも夢中になれる彼女はきっとまだ「寂しい」という日本語があること自体知らないだろう――。
ふと、目の前にペンキで塗られた虹色の看板が表れた。アルファベットで家の名前らしいものと矢印が描かれており、どうやら外国人向けのシェアハウスであるらしかった。
(そうか……シェアハウスとかなのかな)
私は漠然と、エリーと似た風貌の、明るく野蛮で繊細で聡明そうな外国人の若者が、この辺りの少し古びた家屋のなかでひしめき合って暮らしている風景を想像した。誰かの娘であるより、どこから来たかも分からない雑多な若者の一人である風景の方が、何だかエリーに似合っている気がした。
お土産のシュークリームの箱を揺らして、携帯の画面を見て行きつ戻りつしながら、どうやらそこらしいという場所に着いた。
シェアハウスの看板はなく、青い瓦屋根の、軒から楔形の鎖樋が垂れ下がっている、多少古めかしい頑丈そうな一軒家だった。白い壁には「馬瀬」という字が刻まれた表札が掛かっていて、内側の敷地には枯れかけた鉢植えが累々と転がっていた。新しく使い始めた家ではなく、随分長くその姿で根を下ろしている住宅らしく見えた。
呼び鈴を押すより先に、臙脂色の重そうなドアがゆらりと開いた。微かにドアベルの音がして、内側からエリーが白い顔を覗かせた。
「おー、」
そう言ってサンダルを突っかけて半歩出た彼女は、もう十一月だというのに、ノースリーブにショートパンツに素足だった。ガイジンさんは寒さを感じないかのように軽装の人が多いようだが、とても下着に厳重にホッカイロを貼っていた人には見えなかった。
「てかごめん、駅まで迎え行けばよかったね。ここ路地入るから分かりにくいでしょ、迷わなかった?」
そこまでを衣擦れの音のようにさらりと言い、手にしていた携帯の画面に触れつつ、壁にもたれて、
「入って」
とこちらを見ずに言った。
ごわごわするラグの表面を指先でなぞりながら、私はテレビの画面を眺めて歓声を上げた。
「すごい懐かしい、小学校の時友達んちでやったわ」
「やったっしょ、スマブラ(大乱闘スマッシュブラザーズ)」
「ていうかエリー上手いね、アメリカで流行ってたの?」
「まあ全世界で流行ってたでしょ、日本のゲームって、別にうちに限らず」
アメリカ、という国のことを彼女は「うち」と言った。それからテレビゲームの縺れたコードを直そうとして、膝を立ててよいしょ、と呟いて立ち上がった。
銅色の壁時計がボーン、ボーンと辺りに響く音で、二時ぴったりになったことを告げた。
「三時になったら、食べるか、おやつ」
どさりと座り込みつつ、彼女は知らなかった慣習に取り掛かる時のいつもの神妙な顔つきで、私が持ってきたシュークリームのことを言った。私はどう考えてもおかしいと思いながら、ようやくいつもの彼女らしいところを見つけて内心安堵した。
「つうかエリーぺらぺらじゃん、言えよそれならそうと最初から」
漢字練習に付き合った時間返せてめー、と言うと、エリーはテレビゲームの点滅する画面から目を逸らさず、
「リーディングとスピーキングは出来んだけど、ライティングが苦手なの。あるでしょ、学校で英語やっててもそういう分野って」
「喋れるけど漢字は苦手ってこと?」
「うん、あんま練習しないうちにこっち来ちゃったから」
とすらりと言った。それまで教科書の例文のような口調で話していたエリーが、言葉を抜かしながら喋るのを初めて聴いたように感じた。
「こっち来る前、ちゃんと練習してたら良かったのかもだけど、まあ着いてから頑張ればいいかって」
「じゃあこれから練習して、それで覚えてくの、漢字とか」
「えーもういい。どうせもう殆ど時間ないから。この先どこでも使わないことにあんま労力かけたくないし。もうすぐなくなるからって今必死に記録取ってる研究者もいるけど、わたしそこまで物好きじゃないし」
私は黙って聞いていたが、とうとう縋るように「アメリカではさ、」と言った。彼女を私の知っている、ただのアメリカから来た風変わりなガイジンの女の子、に戻したかった。
「誰に日本語教わってたの、日本人の、お父さんだっけ――、馬瀬さん?」
「わたし、馬瀬じゃないよ」
と言いながら彼女は慣れた手つきでコントローラーのボタンを押して、画面のなかのカービイを蹴落とした。流れ星が沸き上がって消えた。
「それ電話番号みたいなもんだから。役所で申請して貰うやつ。別に愛着とかもないなあ……『馬瀬』ってわたし、いまだに書けないしね」
そう言って彼女はふざけるように、左手の人差し指で空中に雑な模様を描いた。その指にはもう包帯は巻かれておらず、ただの肌色の指でしかなかった。
ふいに玄関のドアベルが揺れた音がした。
「おお、アレックス、」
と、彼女は入って来た外国人の青年に向かって言った。彼は長身で、栗毛色の短い髪をしていて、どことなく北欧の人らしく見えた。手には大きく膨らんだスーパーの袋を提げ、私を見てちょっと怪訝そうな顔をし、日本人だと見たのかちょっと会釈をした。それから簾を鳴らして台所の奥へと消えた。エリーが外国語らしい言葉で何か怒鳴ったが、彼からの返事はなく、台所からはスーパーの袋の擦れる音がするだけだった。
エリーは何か呟きながら荒々しい手つきで
「これ変えるね、」
と言って次はゾンビを撃ち殺すゲームのディスクを入れた。ふいに画面に温かそうな暗闇が漲った。起動されるまでの間、私はそれもまた、私が小学生の頃に流行したものだったことを思い出した。きっとアメリカでも流行っていたのだ――アメリカではないらしいどこか、多分エリーの国でも。
私たちはしばらく沈黙した。アレックス氏はどうやら、台所の方でテレビを見ているらしかった。時折流れてくる音声から日本の番組らしいことは分かった。そして彼がカップ麺を咀嚼する音も。
エリーが選択したキャラクターは、日本のとある寒村に迷い込んだ中学生男子だった。彼は東京からやって来て事件に巻き込まれた少年で、他のキャラクターと比べても実にひ弱そうな外見をしていた。エリーとは似ても似つかないと思ったけど、彼女の意志が浸透した手足が鮮やかにゾンビを撃ち殺す動きを見ていると、暗闇のなかで時々少年が金髪に見える気がした。
「いやだって家賃高いもん、無理だよ流石に一人では」
エリーが敵から目を離さずに言った。私は半ば諦めたように彼女の方を見た。
「ガイジンていうと、あんまり雇ってもらえないしね。エンジニアとか、そういうものになれたらいい方。でも労働時間長すぎるじゃん? 短期滞在なのに、そこまでしたくないからって、一番多いのは英会話講師かな。わたしみたいに風俗で働いたりするのは凄く稀」
「風俗で知り合ったの、店長」
と私は軽い驚きをもってエリーを見つめた。
「そうそう、ヘルス、でわたしの馴染みだった人」
彼女はバン、と音を立ててゾンビの頭を砕いた。ナジミ、という言葉を取り立てて使うのも、彼女にとっては狙ってゾンビの頭を砕く遊びと近いのかと感じた。
「『ここは環境が悪いから、バイトしてお金が必要なんだったら、ウチへ来て働かないか、ビザなくてもウチは自営業だから大丈夫』って言われて。ヘルス気に入ってたけどな、働く時間も自由に選べたし、給料いいし、日本人の身体、見放題なのも良かった、でも流石にこれ不衛生だなあーって危険を感じて」
「そりゃそうでしょ、フーゾクって……」
私は実のところ、エリーが何をしていたのかは分からなかった。ただ漠然と不衛生らしいことは想像が出来た。
「絶滅寸前の種の雄に、素手で触るわけじゃん。星の友達にはレポートにしてくれとか、サンプルくれとか凄い頼まれたけど、そんなに友達のために身体張ってやる必要ないなと思い、辞めて。スーパーで働くことにした。雌ばっかりなのが逆に新鮮だった。日本のスーパーって魚多いじゃん? あれも面白くて。安いスーパーの情報自体みんな欲しがってるから、あの辺に住んでる友達にも宣伝しといたよ。夕方来れば惣菜三割引だよって。みんなそんなにお金使いたくないと思ってるんだよね、ここに一生いるわけじゃないから」
私はコントローラーを微かに傾けた。私が操作を引き上げた少女の身体が、一瞬のうちにゾンビに噛みつかれた。首から血が噴き出し、骨が砕けるところが鮮やかなグラフィックで描かれた。
「エリーってさ、何人?」
「え、宇宙人?」
私はやっぱり、と思った。
「そうか……おばさんたちが、あの子宇宙人じゃないかって噂してるの、あれってあながち嘘でもなかったんだ、みんな知ってたってことか」
エリーは全身を震わせて爆笑した。
「はははは薫子さん、それ違うよ。言葉のアヤというやつだよ、通じないんだね……」
彼女は長身の背中を丸めて、しばらく笑っていた。
「そうだそれから、あなたがさんざん庇ってくれた伊東さんにも、わたしの正体ばれてないから安心して、色々と気遣わせて悪かったね」
エリーはコントローラーを握り直した弾みで村人を撃った。後頭部から短く血飛沫が上がってその中年男は倒れた。
三時の時計の音が響いた。私は既に骨までをゾンビに食われて再起不能となっていて、エリーは左足をゾンビ犬に噛まれて引きずりながらも、兄と合流しようとして小学校の校舎のなかを彷徨っているところだった。
「食べようよ、シュークリーム」
エリーはセーブもせずにスイッチを切って立ち上がった。台所から、アレックス氏と何か話したり、お湯を沸かしたり冷蔵庫を開けたり、皿を取り出したりする音が聞こえてきた。まるで淀みのない生活音は、ふいに流暢になったエリーの日本語のようだった。私が見てきた、スーパーの休憩室で漢字の練習をし、丁寧で不自然な言葉を話し、ホットプレートを壊したりしていた宇宙人のエリーは、一体どこへ消えてしまったのか。
宇宙人、と彼女はすらりと名乗ったが、それも先ほどから私が気になっていた、私の言うことを先回りして言う反応に過ぎないのではないか。あたかも私がナニジンて訊くから、ガイジンじゃなく、ウチュウジン、と言ったような気もした。ウチュウジンというのも私に合わせた言い方なら、エリーは本当は一体何なのだろう。
私はテレビ番組を見るモードに切り替えようとリモコンを触った。バチッと静電気が走るような音がして、映像の画面に切り替わった。海外のニュース番組らしく、巨大な竜巻の映像が流れていた。低い女性の声で外国語のナレーションが流れていて、家や車が蟻のように暴風のなかに吸い込まれて塵となっていた。アメリカのハリケーンの映像ではないかと思い、私は彼女がアメリカ人じゃないらしいことも忘れて
「ねえエリー、」
と台所に向かって叫んだ。
「来て、これあんたん家とかあるところじゃないの」
彼女は簾をくぐってちょっと台所から出てきて、画面を見るや顔色を変えた。
「切っとけって言ったのに……」
そう呟いて、私には何も言わずに再び台所に戻っていった。私は何となく気まずくなり、テレビの主電源のボタンを長く押して消した。
シュー生地の半ばを覆ってしまうほどの、雨傘のような手を見て、私は意を決して言った。
「エリー、そっちの人はみんなそうなの?」
「そっちってどっち?」
左手についたクリームを、エリーは赤い舌を出して舐めた。
「だから星? さっきからちょいちょい言うじゃん、アメリカじゃない、なんかアメリカ星みたいな、エリーの実家みたいなとこ」
ああー、と舌なめずりしつつ彼女は煩げに言った。
「星が同じというよりは、生まれた年代かな。わたしが生まれた年の前後百年ぐらいの人は、共通してこう。水ばっかだったから、泳げるように。わたしの生まれた時代って、前の時代にやってた戦争で溜った毒素流すために、人工的に洪水起こしまくってた時代なんだよね、だからこれついてるのスゲーださい、いかにも前時代の遺物って感じで」
と言って彼女は左手の水かきを広げて見せた。唾液で濡れているだけなのに、何やら蛙の手のひらのように見えた。
頭がついていかなかったけれど、エリーが生まれた頃のことを、まるで俯瞰して言う言い方が気になった。それも前時代的だとか、こんなに若い人が言うものだろうか。そもそも彼女は見た目通り「若い女」なのだろうか? 私は動転しつつ、縋るように「アメリカではそういう言い回しがあるのかな」などと考えたりした。
「まあ行こうと思えば行けるからね、未来にも過去にも」
つうか今も過去に来てる、と言いつつ彼女はまたクリームのついた指を舐めた。エリー、と私は彼女が仕事でミスをした時、咎める前に呼ぶ声音で言った。
「悪いけど何か……さっきから言ってることがおかしいよ。いきなり宇宙人とか言われてもさ、意味分かんないし、何だよ『過去に来てる』って。何、ゲームの話してんの?」
「別に、東西南北の方角に移動するみたいに、未来と過去にも行けるっていうだけだよ。騒ぐことでもいちいち考えることでもなくない? これはゲームじゃなくて現実の話だけど、地球も相当前に滅んでて、最後どうなったかもみんな知ってるよ、あっちの人、まあ未来にいる宇宙人? ドラマとか映画にもなってるし。であっちの旅行会社が売るの。『アナタも体験してみませんか?』ってね。『滅亡した青い星地球、水の都で過ごす最後の一週間』て」
彼女はそう言いつつ「これ見ちゃったかあ、じゃあこれも見る? 他の星の映像なんだけど」とリモコンのボタンを押した。画面右端に、ハリケーンや洪水らしい天災の映像がずらりと並んだ。
「まあ、当事者には悪いんだけど、」
画面のなかで動くカーソルを茫然と見つめている私に、彼女は多少低めた声で言った。
「実際、当事者以外が見たいのってこういうもんだから」
そう言ってエリーは私の肩を抱き、シュークリームごちそうさま、すごい美味しかったよ、と言って台所へと消えた。
エリーの大きな手が離れた瞬間、私はエリーが彼女の過去のなかに私を置き捨てたのを感じた。台所から低い水音とエリーの鼻歌が漂ってきた。
部屋のなかに西日が浸透し、外から鐘の音が響いてきた。
「あっ区役所の鐘、もう五時だ」
とはっきりとエリーが叫んだ。彼女は五時に役所の時計が鳴る、ということが嬉しいらしかった。
「私帰るよ、もう夕方だし」
「あ、ちょっと待って」
とエリーが言い、唐突に着ていたタンクトップを脱ぎ出した。私が茫然と眺めていると、順番間違えた、と言って掴んでいた裾をストンと落とした。
「何、とつぜん」
「あのさ、スーパー辞める時間ある?」
私は胸に痛みを感じ、その感覚によってそれが今まで通りの現実であることを確信した。情熱が現実に先立って起こるとしたら、私はいつもその遥か後方にいる。嵐が起こり終わった後、その爪痕に立って仕方なく残骸を拾う羽目になる。傍観は抵抗にさえならなかったことを痛感しつつ、私はいつも遅れて災いの一部になる。
それは紛れもなく、私の日常によくある光景だった。
「地球が滅ぶ、とか言ってた話?」
「そうだよ、このままあそこにいたんじゃ死ぬから」
エリーは明日の天気の話でもするようにけろりと言い、多少打ちのめされている私を慰めるように、
「まあでも、まだ一週間ある」
一週間、と私は心のなかで叫んだ。半ば永遠に続くような気がしていた、家族の食卓の風景さえ、あと七回しか起こらない。しかもエリーが私に見せた映像が、彼女たち観光客の宇宙人の目当てなのだとしたら、地球が滅ぶとかいうのも、ただ穏便に滅ぶというようなわけではなさそうだった。私たちの平穏のすぐ先には一体どれぐらいの嵐が約束され、予定され、取引されてしまっているのだろうか……。
私は尋常でない重さに感じる舌を動かした。ようやく静電気のようなものが口の先から転がり出た。
「いいよ、私は」
それが私に出来た精一杯の抵抗で、他方、私はその瞬間から、自分がその未来に向かって転落し出したことを実感した。
「滅ぶとかいきなり言われても……実感湧かないよ。私まだ、心のどっかで、エリーは頭のおかしいアメリカ人で、ゲームの話を現実と混同してるんじゃないか、とか思ってるし。地球滅ぶとか、勤め先辞めろとか言われても、信じる気になれない。
私さ、悪いけど何もしないよ。起こるはずないことなんかのために、ジタバタしたりしない。あんたが泥舟だって言っても私はここから降りたりしない、それでも滅ぶって言うんなら別にいいよ、私は私のまま滅ぶ」
エリーは青い瞳を動かさず、間髪入れずに言った。
「あんたの意志がどうとか、そういうことじゃないんだよね。わたしはあんたに世話になった恩義があるし、受けたものを返す義務がある。それを受け取る機会があるのにどうして拒むの? それに『滅ぶ』って言うけど、あんたそのひょろひょろの身体じゃ、今まで滅んでみたこともないでしょう」
そう言い、彼女は魚のように全身をくねらせてタンクトップを脱いだ。長い髪がさらりと音を立ててチョークのように白い肌の上を滑った。彼女はくるりと背中を向けた。腰の辺りに点々と赤くダニに食われたような痕があった。よく見ればそれは生き物の口のように小さく息をしているらしく、穴の縁がわずかに濡れていた。
「ここからね、口や鼻でするみたいに呼吸が出来る。なぜだか分かる? 肺呼吸してそこに含まれた毒で呼吸器全部やられて滅んだ時代があったからだよ、その時に肺を一度捨てたの」
それからこっち、と言い、エリーはくるりと前を向き直った。尖って見える腰骨から上の辺りに、等間隔の深い切れ目があり、わずかに反れ返っている。彼女はいかにも頼もし気に、自分のその切れ目をパンと明るく叩いた。
「鰓もあります、どうです万全でしょう。冷房と暖房がついてるみたいに、呼吸器の切り替えが出来る。腰には浮袋も入ってて水没してもちゃんと浮上出来るようになってるの、この身体にいる限りは隙間なく安全なんだよ、それから」
そう言い、彼女は左手の指先を口に入れ、音を立てて強くしゃぶると口から取り出した。唾液にまみれた指は、私が見た時と同様に透明なガラスの筒に変わっていた。
「皮膚は弱いの、カスタードクリームみたいに柔らかい。土台を覆っているだけっていう感じかな。実際に中身をガードしてるのは透明な外殻で、これは熱にすごく強い。今地球から見えてる太陽、あれぐらいなら放り込まれても溶けないよ。もっと熱くてヤバい太陽を経験してるから。ただ衝撃にはすごく弱く出来てて、物理的な攻撃を受けるとすぐに関節ごとに分かれてバラバラになるの。ソレ知らない地球の人なんか、わたしたちのこと殺してしまったと誤解したりしてね。まあその脆さも、ある時期の環境に適応した立派な成果だから。衝撃を堪えて外傷を負いながら身体をそのまま保つよりはすぐリセット、パーツごとに分けて衝撃を分散させて、後で再構築する方がダメージは残らないんだよね。その仕様にしてからは、まだ決定的な難問にぶつからないから変更がない」
彼女はそう言ってサルテと言われた自分の肘を持ち上げ、それを回して外そうとするような仕草をして、私が顔色を失っているのを見て、笑って腕を下げた。それから何かを誇るように、自分の胸を叩いた。
「何驚いてるの薫子さん、これ、全部『他人の願い事』じゃないか」
私は咄嗟に、エリーは私がここで何をしてきたか、全て見通した上で話していると感じた。私が実花ちゃんの紹介で来たこと、七夕の笹飾りに何を書いたらいいか分からなかったこと、去年の短冊を全て真似して書いたこと、ここに書くことが欲しいと書いたことなどもみんな知っていて、私に「何をしたらいいか」と尋ねていたらしかった。
エリーは別に顔色も変えずに、私に向かって喋り続けた。
「願い事があるのって、別にフツーでしょ。みんな何かしら不足しているから。それに、どんなに欲のない生き物でも、最期は願い事をする羽目になる、『死にたくない』ってね。『もう二度と死にたくない』っていう叫びが、断末魔が遺伝子のなかに書き込まれて生き物って進化するわけ。……魚に貝に牛に豚も、チキュウジンもウチュウジンも同じ。敗北する度、生き物の身体はカイゼンが積み重ねられ、未来に行くほど強くなる。過去の犠牲の上に、それより良い未来が積み上がる。
戦争ってのも色んな利害関係で起こされるから、見かけの当事者間じゃ止められないことが殆どだけど、勝者も敗者も甚大な犠牲の上に『前のバージョンより強い身体』を手に入れるところは同じ。戦争でさえ活用される、それが生物の進化の歴史だよ。崩れない平和なんてものはきっとないけど、身体は進化して今やこんな風に、時々崩れることで永遠の平和を体現しつつある……。ねえ薫子さんはさ、」
エリーは鳥が舞い降りるように私の両手を握りしめた。
「教えてくれたじゃん、わたしに、」
「何を、」
「あれすごい嬉しかった、友達に教えたいって言ったのも本当だよ」
「分かんないよ、何」
「薫っていう字」
茫然としている私を見て、エリーは声を殺してくっくと笑い、それから左手の指先で空中に乱雑に線を描いた。
「ね、薫って字さ、左右対称じゃん。点が少し横を向いてるけど、羽を広げた蝶々みたいでさ、素敵。左右のバランスが整っている身体は、衝撃に強くて頑丈だよ。薫子さんもこんな、『薫』みたいな均整の取れた身体だったら良かったのに。そしたらどこかに生き延びる見込みがあったかもしれないのに。でもいつもホッカイロ貼ったり絆創膏使ったり、汚染された肉だの魚だの食べてる身体じゃ未来はないよ。この度のことで壊れて、それでおしまい。
短い間だったけれど、お世話になりました。『薫』っていう、美しい漢字を教えてくれたこと、感謝しています。これ、星へ帰ったら刺青にして眺めるんだ。旅の記念に。この星の文字を知る人もみんな消えてしまうからね。泥のなかから掘り出した宝石だよ――素晴らしいお土産になった。
もしあなたが『薫』みたいな姿の昆虫だったら、有無を言わさず捕獲して船に積んだと思うけど、あなたは井戸のなかの不思議な匂いのする子供だから。井戸のなかで滅ぶかどうか、自分の意志で選ばせてあげます――わたしからの感謝の気持ち」
そう言い、エリーはまるで溺れる人のように私にしがみついた。そして赤ん坊をあやすみたいに私の身体を軽く揺さぶった。エリーは何も言わなかったが、私は彼女が、もうすぐ消えてなくなる私の脆い身体を惜しんでいるのだと気づいた。
ふと見ると、彼女が青い瞳を見開いて私を見ていた。西日が差して彼女の瞳のなかにどっと入った。
「それ、」
と彼女は言い、私の薄い色の前髪をくしゃりと手で掴み、もう片方の手で私の顎を掴んだ。
「いいなあ……見たかったの」
と彼女は謎のようなことを言った。
「ここに来たのも誘われてだったし、それほど期待してなかったんだけど、スーパーにいる薫子さんの顔見ててなるほどそうか、と思った。ごめんね、見に来ちゃって。ごめんね、わたしたちいっぱいで。ごめんね、もうとっくに過去なのに未来みたいに話しちゃって。動揺するよね、でも、動揺してたでしょうずっと……」
でもその顔は本当惜しいなあ、と呟き、エリーは長い腕を折り曲げて、私の上に蹲るかのように、西日を背中いっぱいに浴びながら私の首を抱きしめた。
家に着いてテレビを点けると、別にいつもと変わらない番組が映っていた。世界大戦が始まったわけでも、大災害が起こったわけでもなさそうで、私はしばらくチャンネルを回した後にスイッチを消した。
財布を開けたら、シュークリームを買ったレシートが出て来た。やっぱりゲームをしているわけでも、今日一日寝ていたわけでもないんだと思った。またバッグのなかに、ゲームのディスクらしい物が入っていた。帰り支度をしていた時、間違ってエリーの家から持ってきてしまったものらしかった。
私は布団を被ったまま、そっとそのディスクをパソコンに入れた。どうやらゲームではなくDVDであるらしかった。
私は映像を眺めながら、溢れてくる自分の嗚咽を聴いた。混乱しすぎて自分を抑制できなくなった結果にも思えたけれど、自然と身体が震えて来るのを感じて、私は恐れているのかとも思った。
それはエリーがリモコンを操作して見せた、どこかの天災の映像の記録だった。大木を押し流している洪水、画面を真っ赤に染める大火事の映像、突然砂のように崩れる巨大な建物――。
それらの映像は不自然にズームになったり、避難して生き残ったらしい人々の顔ばかり映したりして、ニュースで流れる災害の映像としてはどこか違和感があった。
映像は勝手に切り替わった。ある場面では、地面が割けたような大穴と、その縁に不安そうな表情を浮かべて並んでいる人々の群れが映った。私は運よく助かった人々がそこにいるものだと思った。それから程なくして、彼らの右端に鋭く飛び出してきた男が、抵抗する少年の頭を掴んで二度殴り、大穴のなかへと蹴落とした。それから残りの人々は、小雨のような淡い音を立てて落ちていった。
私はそれらの映像がどうやら天災ではなく、人間が創造した悲劇のコレクションらしいことを咄嗟に感じた。大穴を開けたのは自然でも、人間を並ばせたり落としたり、その様子を記録しているのは人間であるはずだった。人間による虐殺、私はそれを歴史の教科書で見たことがあった。また外国のニュースで、それが起こったことを知る機会はあった。でもこんな風に始まりから終わりまでを、体験するように見せられたことなどなかった。そしてその映像は、明らかに、惨劇を追体験する楽しみを与えるために編集されている気配があった――あのゾンビを撃ち殺すゲームの画面とどこかが似ている感じがした。
私は人間が木の葉のように落ちるのを見ながら、気づくと妙なことを心のなかで懇願していた。
(せめてこれが地球のどこかであってくれますように――)
エリーが言うように、他の星にも人間がいる、というのは仕方がない。でも、他の星でもこんな風に、やはり人間が人間を虐殺しているのだろうか。私は別に慈悲深いわけでもなく、誰かが苦しむのを見ても、情熱の篝火を見送るように傍観してきた。それが起こるのは仕方がないことなのだと。
でも、現実に立ち入らずにいる間、隣接する世界では、私は希望や救いが手つかずの状態で輝いているような気がしていた。他人はきっとそれを見ているのだろうと漠然と想像していた。私は救済を願う当事者になるとは思っていなかったが、救済の存在自体はむしろ疑わずにいたのだった。私の目の前にはそれに掴みかかる情熱家がいた。私は、彼女たちはなかなか到達できないが、それにしても希望は地平線の向こう側に隠されているのだろうと思っていた。悲劇のどこかには縁があり、地平線の向こうまで行けば希望がある。私たちの生活圏はむしろ、救済から隔てられた狭い区域であるかのような妄想を抱きつつ、私は自分のいる村から出るまいと宣言していた。どうせ私の足では希望まで辿り着かないだろうからと。
しかし今、目の前で流れている映像は、人間が人間を殺し、またそれを眺めることを楽しむ人間もいることを証明していた。私はこの惨劇を、地上だけのことに留めたかった。悲劇に縁があると信じるからこそ、私は動揺しつつも傍観してきた。こんなことは地上のなかだけで、仕方がなく起こることなのだ。杏奈が自分の身体を壊してまで飛び移ろうとしている、輝く星々のどこでも、こんな悲劇は存在してはいけないはずだった。
私は意を決して、穴に落とされるまで並んでいる人々の顔を仔細に見た。それは一見中東の人々のようにも見えた。浅黒い肌に黒い瞳で、比較的少年や少女が多いような気がした。アジア人らしい顔つきもあった。エリーや彼女の家で見た青年のような、欧米人らしい風貌の人々は一人もいなかった。国でいえばどこの辺りなのか、周囲は砂漠らしい地面の上にやや紫がかった夕焼けが広がるばかりで、自然も人工物も見当たらなくて想像しようがなかった。
ママ、という声がふと入った。カメラが私の目のように動いて、行き過ぎたところで一時静止し、また少し右へ移動した。五歳ぐらいの少女が母親らしい女性の足に纏わりついていた。この母子は日本人だと思った。このぐらいの親子連れは、いつもスーパーで見慣れていてすぐ分かる。この子は幼稚園ぐらいだ。どうしてこんな所に来ているんだろう。彼らは元々の住民じゃないとしたら――。
そこで映像が切り替わり、画面に緑色の線が多く入って消えた。帽子を被ってゴーグルのようなものをつけた、金髪の少女が現れた。年は十代半ばぐらいに見えた。
カーキ色のタンクトップを着ていて、左腕には銃みたいなものを持っていた。カメラに向かって何か喋りながら、裾をめくって臍の下のついた傷を笑いながら見せていた。裾をめくる時の仕草、笑う時の鼻に掛かったような声、また腰骨の上の鰓の線、青い目はゴーグルに隠れていて見えなかったし、年齢は少し若いようだったけれど、
(エリーだ、……)
と思った。
私は強制終了のボタンを押して、それ以上映像を見るのを止した。携帯電話のランプが点滅していて、いつの間にかエリーからメールが来ていた。
返信を打って最後に「また明日ね」と付け加えて送信した。
翌日、公園のベンチに座っていたら、実花ちゃんが怒った顔つきで寄って来た。
「今日仕事来なかったね」
「うん、」
と分かり切ったことを私は答えた。
「そうだよ、今日何か行きたくなくなってさ、行かなかったの。何かあった?」
「馬瀬さん、辞めたよ」
その言い方に、私が察していた以上に彼女がエリーを嫌っていたらしいことが滲んでいた。
「そう、」
と私は風が吹き通るのを見送るような気分で言った。
「実花ちゃんも辞めたら?」
どかっと音がして、私の足元に落ちたスーパーのビニール袋から、レモン味の炭酸のペットボトルが二本転がり出た。実花ちゃんは火の出るような勢いで背中を向け、私からどんどん離れていった。
「……妊婦が炭酸とか飲んでいいのかよ」
そう呟いたものの、別に根拠とかはなかった。ただ去っていく彼女の着ているコートやワンピースが風を孕んでふんわりしているのが目についただけだった。
エリーに言われた話を教えようかと思ったけど、他人に伝えるにはあまりにも荒唐無稽な内容だし、もし馬瀬さんがそう言ったのだと私が言ったら
「薫子ちゃん、あの人の言うこと信じるの」
(とでも言いそうだし、)
と思って止めた。
家に戻ったら、朝から病院に行っていた杏奈とママが帰ってきていて、ママのハイヒールと杏奈の小さな靴が並んでいた。
台所にママがいたので「おかえり」と言うと「あんたもおかえり」と言われた。今度の病院では、杏奈の精神状態に関する問題について、多少の進展があったらしいことが、ママの肩や背中の線から滲み出ていた。炊飯器が甘い匂いを漂わせてピーッと鳴った。
「炊き込みご飯、杏奈ちゃんに、夕飯出来たから降りて来てって言って」
私は鼻の奥がつんとして涙ぐむのを自分で感じ、その痛みを殺したくて俯いて階段を上がった。
部屋のなかで、杏奈は電気も点けずにパソコンに向かっていた。イヤホンをして音が漏れないようにしていたが、どうやら動画投稿サイトでピアノのコンクールの動画を見ているらしかった。画面のなかでは杏奈が着られないような長い丈の青いドレスを着た女性が、少し前屈みになり激しく鍵盤を叩いていた。拍手する人々が映った時、イヤホンをしたままの杏奈は手をそっと打ち合わせた。滅多に外出しなくなってから少し丸くなった頬を、画面から滲み出るドレスの青い光、会場の照明の白い光が点滅して濡らした。
「もう間に合わない」とは、杏奈には絶対に言えなかった。
私はたとえ人類に次の未来がなくとも、杏奈にはあと少しだけの時間が残されていてほしかった。また杏奈が弾きたいと思えるまで。また不断の情熱に耐えられるぐらいに身体が回復するまで。
私は願い事をしようとして、そしてエリーの言葉に意識を遮られた。
「ごめんね、見に来ちゃって」と言い、エリーは最後に私の首を抱いた。「惜しいなあ……」とも、私の髪をめくり、硬直している顎を持ち上げ、唇や耳までをじろじろと見ながら言った。
惜しむものなどなさそうな宇宙人のエリーが、最後まで私の顔を見ることには執着していた。別に杏奈のように整っているわけでもない、どこか眠たそうな、薄い瞼と唇を持つ、安い薬品で脱色した金髪の顔を。
私は今までろくに鏡も見ず、無造作に脱色し、顧みなかった自分の姿がどんなものだったのか、最後にエリーに教えられた気がした。私は多分、願い事をしないと言っておきながら――不充足の結晶なのだ。
エリーは恐らく滅ばない方の、完璧なものは見飽きているはずだった。他人の滅亡を娯楽として鑑賞し、己の身体は完璧に近いと誇っている。自らを破壊して再生できる身体にしか未来はないと信じている。彼女から見たら私は――生き残れない種に見えただろう。あらゆる試練をやり過ごし、目の前の災厄を見守り、残骸を拾うだけで反省もしない。一度滅んだら二度と浮上しない種の標本のようなものだっただろう。
心のどこかで想像していたことだったが、彼女は偶然に私に出会ったのではなく、恐らくどこかの過程で私に目をつけ、私に接触することにしたのではないか。私を救済するためではなく、明らかに滅ぶ種が、途切れると分かった瞬間に橋の上でどんな表情をするのか――。
しかし、ただの絶望の顔のコレクションだったら、エリーは既に夥しく持っていた。手に入れたかったのは違うものであるはずだ。彼女はあの時、まだ生きている私の顔を、いかにも惜しそうに持ち上げた。私はエリーのする滅亡の話を半ば信じ、半ばはまだどこかに救済があるような気がしていた。
「それ、」
と言ったのは、彼女がずっと見てきた私の表情のことだろう。恐らくスーパーで働きながら、明るい子供連れを見たり、活発に働く女性たちを見たり、制服の高校生を見たりしている時も、私はそんな風に、彼女たちの躍動する身体という地平線の向こう側に、私のための救済があるように願望していたのではないか。
恐らくエリーが私に発見し、そして宝石を拾ったように惜しんでいたのは、私のそういう顔ではなかったか。地平線の向こうに救済があるのを想像しつつ、そこへ越境していく勇気のない、滅ぶ種特有の煙るような顔つき。この不充足の表情は、火のなかで身体を壊し、作り変えてからもう随分経つという、エリーの周囲ではもう見られないものなのだろう。実際のところ、彼女が泥のなかから掬いたかった宝石は、左右均等の強靭な漢字ではなく、彼女たちがとうの昔に失った縋るような目、半ば開いた口と、色褪せた髪や濡れた舌、そんなものだったのではないか。
私は何も口にしていないつもりだったが、眼差しや顔つきに、充足したいという願望が滴るほどに表れていたらしかった。それも宇宙人に、『お前のあの顔は貴重だから助けてやってもいい、その気になったら』と誘われるほどに……。
「杏奈、あのさ」
叫ぶように私は話しかけた。声が大きかったために、杏奈のイヤホンを貫通して声が届いたらしく、杏奈は肩を震わせて小さな手でイヤホンを外した。暗闇のなかで小さな顔が私をじっと見返した。
「ママに、」
私は自分の悲痛な声音で、私がもう真実を打ち明ける勇気を失っていることを知った。後はママを驚かせないように話して、この場を離れるだけだ。杏奈を驚かせずに助けるには、何かまだ別の方法が要るような気がした。
「ママに、私が夕飯要らないって言ってたって伝えて、」
そう言い、私はバッグのなかに携帯電話と充電器を突っ込み、パーカーのフードを被って飛ぶように階段を下りてそのまま外に出た。
エリーは約束した公園にいて、一人でベンチに座っていた。夜で寒いというのに、相変わらずTシャツにジーンズで軽装だった。暗闇のなかで手にしている携帯電話の画面が光っていて、誰かに連絡しているところらしかった。
「エリー、」
と私が声をかけると、ただの人間みたいにちらと目を上げて
「おー、」
と言った。彼女の口調は崩れたまま、もう二度と元には戻らないらしかった。
「良かった、間に合ったんだ」
「エリー、バイト辞めたんだって? 実花ちゃんが怒ってた」
「え、薫子さんも辞めたんじゃないの?」
「あ、言うヒマなかった。実花ちゃんにでも言っておけばよかったな」
エリーはもはや実花ちゃんの名前には反応せず、黙って携帯電話の画面に目を落とした。
「日本のでしょ、それ」
「うんそう」
「宇宙に持って帰って使えるの?」
「つうか宇宙ではあんまり携帯自体使わない……以心伝心、でやるから」
あとまあこれ噛んでて、安全のためと言って、彼女はポケットから平べったいものを出した。少し身構えて手に取ると、どう見てもただのチューインガムだった。まだこのガイジン女が嘘をついてるんじゃないかと思いつつ、私は黙って包装紙を剥がし、二枚いっぺんに口のなかに入れた。
口のなかにミントの味が広がりだした頃、真っ暗な夜空から彼女の言っていた「船」が近づいてきた。ワゴン車ぐらいの大きさの小さな飛行機で、駐車場に車が止まるのを見ているような気分だった。
エリーはベンチから立ち上がって手を振った。そしてその手をちょっと手招きしたり、押すような仕草をしてみせた。すると小型の飛行機は実に彼女の動きに忠実に、ほんの数センチの向きまでも変えてみせた。私が驚いているのを見て得意気に、エリーは私に見せるようにして「ワン、ワン」と言って手招きをした。すると小型機は忠実な犬がするように、尾を振るような仕草を見せた。これから私たちを載せて飛んでくれるという、操縦士はきっとエリーと親しいんだろうなと感じた。
口のなかに入れたガムを噛みつつ、とりあえず「こんばんは、」と言いながら機内に入ると、操縦席には金髪の北欧系に見える男の人がいて「はい、こんばんは」と返してきた。エリーを見て慣れたけれど、どう見てもただの外国人にしか見えなかった。不自然なことと言えば、見た目の割に日本語が流暢なことぐらいだった。
「まだ時間かかるよね、」
私を押しのけるようにエリーが来て言い、それから何か英語でない言葉で男の人に向かって喋りかけた。彼は時折手ぶりを交えつつ話し、また彼らの遣り取りが理解できないでいる私に、時に労わるような視線さえ向けてきた。やがてエリーの方が会話を打ち切って「くそっ」と呟いて慌ただしく出て行った。
彼女に置いていかれたような私に、操縦士は笑いを低めたような声で
「そこ寒いんじゃない? 奥に入って待っていたら」
と言った。彼が悪戯っぽく指さした機内は、真っ白な座席が左右対称に並んでいた。普通の飛行機と同様、上に荷物を入れるところがあったり、また座席の背もたれにはテレビ画面のようなモニターがあったりして、見た目には普通の飛行機と変わらないように思えた。
私はふと、携帯電話の充電率が十分でなかったことを思い出し、操縦士に向かって充電器を見せつつ尋ねた。
「あの、携帯充電したいんですけど、充電器ってどこかに差せますか」
彼は私の手から充電器を取り上げ、しばらく不思議そうに眺めた後、ちょっと指先で触った。それから彼がプラグに触ると、紫色の小さな稲妻が出た。私は感電したんじゃないかと慌てたけど、彼は首を竦めて何だか分からないというような顔をするだけだった。
エリーがどこかから急いで戻って来て、白い息を吐きながら入って来た。操縦士はエリーに向かって何か言い、それから気づいてやれとばかりに大きな身振りで私を指さした。携帯電話を使うのに、充電器が何だか分からないというのは不思議な気もしたが、
「あのさエリー、ここってコンセントとかある?」
「コンセント?」
彼女は何か苛立っている様子だった。操縦士はエリーの反応が可笑しかったらしく、顔を手で覆いながら笑っていた。エリーは大股でなかに入って来て、背もたれにあるテレビ画面を叩くように触れた。すると画面のなかに、コンセントの穴の絵が浮かび上がってきた。私が画面に向かってプラグを向けると、そのまま画面のなかに先端が入り込み、柔らかい感触のなかで止まった。
充電率が十パーセントぐらいになって画面が表示されると、杏奈から届いていたラインのメッセージが表れた。
『ママ怒ってるよ』
『早く帰って来て』
杏奈の携帯電話で、このメッセージが既読になったことを想像した。私はそれに対して返信するつもりがないことを分かりながら、生温かい画面に何度も触れた。
また外に出ていたエリーが、携帯電話で何やら忙しく喋りながら戻って来た。
「薫子さん、あのね、今から二、三人ここに来るけど、ちょっと今までのと違うから。最初見たらびっくりしちゃうと思う。でも全然平気って顔しといてね。あ、ガムってまだある? もしなくなってたら次のあげるから、まだ噛んどいてね。あと見ても悲鳴上げたり、あと警察呼んだりしないって約束して。いきなり警察来られても何も説明できるもの持ってないしね、こっちは」
「あのさエリー、」
と私は言った。彼女に最後に質問をする前に、その数字は間違えてはいけないものだと思って、私は暗くなりがちな自分の携帯電話の画面に再度触れた。
「何、」
「この船って、何キロまで載せて平気?」
「え、あんたせいぜい五十キロぐらいでしょ、あんたの一人や二人積んでも落ちないから心配しないで」
「二百キロとか、そのぐらい積んでも落ちない?」
二百キロ、という数字を聞いて彼女は可笑しそうに笑い出した。
「はあ、それってあれでしょ、お相撲さんとかそのぐらいでしょ。大丈夫、あんたそんなに体重ないから、ちゃんと飛べるから安心して」
私が周りの席を見回すようにしていると、彼女は私の様子がおかしいことに気づき、
「え、何、忘れ物? 本当に何か忘れて来た?」
と尋ねた。彼女は実に真剣だった。もう二度と戻れないのだ、という実感が、彼女のかつてない真剣な優しさによって感じられた。彼女にとってはここは既に、とうの昔に滅んだ遺跡なのだ。
「うん、」
と私は多少の意地悪さを込めて言った。
「え、何」
「でもすごく重いから載せられないかも、手で持てないし、一人じゃ絶対取りに行けない」
「必要な物? すごく必要なんだったら載せてあげるし――取りに行くんだったら本当今のうちだよ、どうする、今から行く?」
ピアノ、と私は言った。
「ピアノって、積んでもこの船って落ちない?」
私はガムを噛みながら息を殺して尋ねた。もし彼女が私の言う通りにしてくれて、そして杏奈を見れば、きっと杏奈を捨ててはおかないだろうと思った。杏奈は情熱家で、自分の身体を壊してでも次の生に自分を繋げようとする。エリーの言う身体が完璧に近い身体なら、杏奈の方が私よりよほど生物として進化した姿であるはずだ。私はエリーに虚ろな顔を見飽きられたら捨てられ、大穴にでも放り込まれるのだろうが、杏奈はあの資質があればあるいは、別の星で生き延びられるかもしれない。
私はエリーが、二百キロのピアノに関心を示してくれるのを待った。
「弾きたいの?」
彼女は意外なほど即座に反応し、それから再び素早く画面に触れた。ピアノ、という言葉を彼女は聞き返しもせず、しかもどことなく不機嫌になった。
もしかすると、彼女もまた身体が変形するほど楽器を訓練したことがあるのかもしれなかった。彼女のこの不機嫌さは、スーパーの仕事の時には見たことがないもので、何か彼女の切実な生存競争に、ピアノが直接関わっていたかのようでもあった。
エリーの大きな手が離れると、画面のなかから今度はピアノの鍵盤がふわりと浮かび上がった。彼女はどこか目を背けるようにその場を去り、電話で何か怒りながら操縦席の方へと向かった。
『ピアノがほしい』という私の願い事は、エリーによって簡単に叶えられた。夢ではなく確かに実現したしるしを得たいと思い、私は手に入れたピアノの画面に触れた。
持っていてもとうとう役に立つことのなかった、水かきのついた大きな手で触れると、小指がはみ出てしまった。しかし親指、人差し指、中指と触れたところからはふあん、という音が流れ出た。電子音らしいものの、確かにピアノの音だった。
(これなら杏奈の手でも一オクターブ届くだろうな)
と、私は今や叶わなかった願い事の方を思った。
浮舟 merongree @merongree
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