洞貝 渉

×××


 かなり、長い時間が経ったように思う。

 頭がぼぅっとしていた。


 何かよくないこと……恐ろしいことがあったような気がする。

 ボクはそれが何だったのか思い出そうと、つらつら考えてみたけれど、ぽっかり浮かぶまんまるを見つけた途端にどうでもよくなってしまった。


 ボクはあまり賢い方ではないけれど、まんまるが月という名前で呼ばれていることだけは知っている。


 月は好きだ。

 まんまるで、優しく光っていて、きれいだから。

 じいっと見つめ続けていると、なんだか触れそうな気がしてきて、ボクはついつい手を伸ばしてしまう。もちろん、手は月に届かない。絶対に届かない。

 なぜなら、ボクと月の間に見えない壁があるからだ。

 壁があるのについつい手を伸ばしてしまうのは、そこに壁があるということをうっかり忘れてしまうせいだ。


 ボクはあまり賢い方ではない。

 壁に触れると、しばらくの間、触ったところがビリリとして、体中がだるくなって、重たくなって、気持ちが悪くなって、ひどく悲しい気分になる。

 それでもうっかり壁の存在を忘れてしまうのは、あんまり月が優しげだから。

 月は、壁に触れてしまったボクを慰めるようにゆらめいてくれる。

 まんまるの月も好きだけど、ぐにゃりとゆらめく月も、細くなった月も、みんな好きだ。


 月を眺めていると、ぼぅっとした頭がますますぼんやりしていって、なんだかとても、眠たくなる。


×××


 ふと、目が覚めた感じがした。

 今まで眠っていたわけでもないのに。

 うたたねをする寸前のような、いつものぼんやりとしたものとは違う、妙にはっきりとした意識のせいで落ち着かない気持ちになる。

 月が見たかった。

 月を見て、ぼぅっと靄のかかった意識に戻って、何を考えることもなくひたすら安心しきっていたかった。

 なのに、こんな時に限って月の姿が見当たらない。

 ボクはいつも月が見える方に手を伸ばしてみる。手は何にも触れない。

 ややためらった後、思い切っていつも壁に当たる辺りまで手を伸ばしてみたけれど、別段何も起こらない。

 ボクは一つの予感を持って、もっともっと手を伸ばしてみる。

 手は、ちゃぽりと何処かに突き抜けた。


 ひんやりと冷たい風が、しらじらとボクの手を撫でる。その途端、今ボクがいるトコロがとんでもなく窮屈で、暗く、つまらない場所であるということに気が付いた。気が付いた、というよりも、思い出した、といった方がいい。

 ボクは急いでそこから外へ這い出る。出ると、そこは森の中だった。

 

 久しぶりの森は、とても気持ちが良い。

 信じられないことに、ボクは今までずっと、小さな池の中に体を沈ませて、幾日もうたたね気分で水の中から月を眺めていたのだ。

 ボクは外の世界に放たれた解放感に身を任せて、ひと声雄叫びを上げる。

 ボクの声に答えるように森が震えたような気がした。


 凄まじい数の星が夜空に輝いていた。

 でも、月の姿はどこにもない。

 

 森は好きだ。どこにおいしい木の実があるか、どこに行けばきれいなものがあるのか、ボクはこの森のことを隅から隅まで知っている。

 昼間の森もいいけれど、夜の森は雰囲気がガラリと変わり、また格別好きだ。


 でも、ボクは今、素直に森を満喫することができない。

 久しぶりに戻った森は、どことなくよそよそしくて変だった。


 何が原因でこうなっているのか、ボクは知っている。知っているのに、それが何だったのか思い出せない。

 よくないこと……とんでもなく恐ろしいことがあったのは確かだ。そして、それからだいぶ長い時間が経って、今の状態になってしまった、というのも。


 一体、何があったんだっけ?

 ボクは鼻先を上に向けて、ふむふむと森のことを探ってみる。

 大好きな森のにおいの他に嗅ぎ慣れない、不思議な……不快なにおいを感じて、おなかのあたりがきゅうっと鳴った。


 においを辿ると奇妙な物体が立ち並ぶ、不自然に開けた場所に出た。

 開けた場所、といっても、もともとは木が生い茂っていたはずの場所だった。

 あんなにたくさんあった木は、どこにいってしまったんだろうと首を捻る。

 木の行方を探ろうと、ボクはもう一度鼻先を上に向けて調べてみた。

 すると驚いたことに、目の前に並ぶ不可解な物体から木のにおいがしてくる。


 最初は胸の内でかすかに、でもあっという間に全身がぶるぶると大きく震え出した。



ボクノモリガコワサレテシマウ。



 勝手に森の木を伐り、それを使って不快な物体を組み上げた何者かに対して強い憤りを感じた。

 だからそれを表現するため、このわけのわからない物を片っ端から壊してやろうと、ボクは腕を振り上げる。

 次の瞬間、何かが体にチクリと刺さった。それと共に、


ビイイイン。


 不思議な……不愉快な音がした。


 ひらひらと動くそれは、鮮やかな色をしていた。

 ひらひらは薄っぺらく、あっちへ行ったと思えばひらりと反対に翻り、鮮烈な色を振りまく。

 ボクは思わずそのひらひらに見入ってしまった。

 ひらひらは細い月に糸を付けたような物を持っていて、糸を引くたびにビイイインと音を出す。

 

ビイイイン。

ビイイイン。


 ひらひらはとてもきれいだった。

 でも、ひらひらの出す音はとても嫌な感じがする。見えない壁をうっかり触ってしまった時に、少し似ている感じがするのだ。

 あの細い月に似た何かさえ奪ってしまえば、とボクは考える。

 そうすれば、この嫌な音はおさまるのではないだろうか。

 ひらひらが、流れるような動きでまた細い月の糸を張る。

 ボクはとっさに腕を振るった。


 それが、いけなかった。


 細い月は、ひらひらの一部をくっつけたままひょうと宙を舞う。

 残った方のひらひらは、欠けた部分からびしゃばちゃと赤い液を吹き出した。

 むっとした、濃いにおいが辺りに満ちる。


 ひどく気持ちが悪い。

 さっきまであんなにきれいだった物が、いきなり生臭く、薄汚い、気色の悪い物へと変わってしまった。

 あんなに華麗に動き回っていたひらひらが、今ではもう見るも無残に、薄気味悪く蠢く。

 ボクはますます気持ちが悪くなり、ひらひらを叩き潰した。

 ひらひらは、ぐちゃり、と気味の悪い音を立て潰れ、動かなくなる。

 潰れた体からは、ぬちゃぬちゃとした体液がとめどなく漏れ出し、あんなに清々しかった森の雰囲気を塗り潰していく。


 ボクは怖くなった。

 とんでもないことが起こってしまった、と思った。

 ボクの森が、ボクの知らない物へと変わっていってしまう。


 なんとかこの不気味なひらひらを、元のきれいなひらひらに戻せないだろうかと、ボクは怪我をした時にいつもするように、ひらひらの、特にひどく潰れた部分をなめてみる。

 ぬるりとした感触のすぐ後、喉に詰まるくらいむっとするきな臭い空気が体中に充満した。

 おなかのあたりがきゅうっと鳴って、いきなりボクの中で何かが弾ける。


 ボクは、ひらひらに牙を立てた。

 ぐちゅりと、耳の内側から音が溢れる。

 さっきまで、あんなに生臭く感じていたのに、ひらひらの体液は、ほのかに甘みがありおいしかった。


 ボクはひらひらの抜け殻を前にして、呆然と立ち尽くしていた。

 空を見上げると、すっかり星の姿が見えなくなっていて、白んでいる。

 すっと、木々の隙間から、真っ赤な朝日が鋭く差し込んできた。

 朝日がひらひらの抜け殻を照らすと、抜け殻はきらりと光りを反射する。

 ボクはひらひらの何がこんなに強く光っているのか気になって、拾い上げてみる。


 

 丸く、薄く、つるつるしたそれは、動かすとそれに応じて面に映し出す風景も変化した。

 それが何なのかよくわからなかったボクは、じろりと面を覗き込んでみる。







真っ赤な光に包まれて、ひらひらの体液に染まったボクが、そこにいた。



 体が、自分のものではなくなってしまったかのように、ひどく禍々しいものに感じた。

 怖かった。

 怖くて、恐ろしくて、とにかくこの汚れた体をきれいにしたかった。

 ボクは必死になって、森の真ん中にある小さな池に飛び込んで、沈み込んだ。

 まるで、そうしていればなにもかもなかったことになるかのように。



 ボクは叫びだしてしまいたくなるのを堪え、池の中でただひたすらじっとしていた。

 ボクの体中にべったりと張り付いたひらひらの体液は、ゆっくりゆっくり池の水に溶け、水面に浮かび、見えない膜を張っていく。



 そうして、どのくらいの時間が経ったのか分からなくなった頃。



×××


 ボクは、ぼぅっとしていた。

 何かよくないこと……恐ろしいことがあったような気がするけれど、よく思い出せない。

 何があったんだか思い出そうと、つらつら考えてみるけれど、ぽっかり浮かぶまんまるを見つけた途端にどうでもよくなってしまった。

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洞貝 渉 @horagai

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