第2話


去年の誕生日に三日遅れて柚葉から贈られた時計で今日の半分が過ぎた事を確認する。『約束の時間』は過ぎているはずなのに、彼女は壁にもたれたまま動こうとしない。きっと、いつもの様にどうでもいいような、下らない事を考えているのだろう。このままではいつまでたっても、あのままでいそうなので声をかけることにした。倉庫の陰から移し、彼女との距離を詰める。殆ど手が届きそうな距離に近づいても、まだこちらには気付かない。肩を叩こうとすると、ぶつぶつと独り言が聞こえてきた。

「……もしかして……」

『何が「もしかして」なの?』

「ひゃあ!」 

 可愛らしい悲鳴と共に、跳ねるように柚葉が振り返る。警戒心が強く、神経質な柚葉だが、しばしば今のように周囲に気付かない程に、考えに耽っている時がある。

 そういう時に何を考えているのかははっきりとはわからないが、三年の歳月を費やして、一つだけ確信めいた予想を得るに至っていた。きっと、その沈思の部屋は、柚葉にとっての『本物』だけが存在を許される聖域なのだ。

「おーい。大丈夫? ……つーか、こんな所で何やってるの? 風邪ひくよ?」

「あれ……?」

 白々しい響きに聞こえていないか、と肝を冷やしたが、彼女の方もそれに気づく余裕はないようだった。

「早く教室戻ろう? マジでここ寒い」

「夕香……何でここに?」

 柚葉まだ私がここに現れた事が腑に落ちない様だ。

「姿が見えないから探しに来た」

「用があるから待ってて、って言ったのに」

 彼女の声には、とこか哀願めいた響きがあった。反故にされた約束(・・・・・・・・)を、まだ待つつもりでいたのだろうか。

「柚葉が言ったのは『用があるから「昼まで」待ってて』だよ。時間過ぎても来ないから探しに来たんだけど」

「えっ!?」

 二の腕を抱いていた私の右手が強引に引っ張られる。右手に引きずられるように、身体全体が柚葉に近づく。私のほうが、頭ひとつ分背が高いので、柚葉を抱き寄せているような体制になる。


 ほんの、一瞬の思考空白。



「……なっ、何、するの!?」

 視線を、柚葉に戻すと、彼女は私の腕時計を見つめて固まっていた。その目には、私のような動揺の色は伺えない。

 こんな風に、不意に存在が匂い立つほど近くに寄られる時、体内に閃光が走るような錯覚を感じるのは、やはり私だけなのだろう。柚葉が熱心に見つめる時計にしても、私の趣味からはかけ離れている、そんな代物を後生大事に使っているのも、ひとえに彼女からの贈り物である、という――彼女が、私のために選んでくれたという、ただそれだけの理由なのに、彼女は、私に時計を贈ったことさえ、覚えているかどうか……

「…………」

「柚葉?」反応がない。

「早く行こう? もう用は済んだでしょ?」

「あぁ、うん……」

 彼女は見てわかる程ひどく消沈していた。

 もしかしたら、と一つの考えが浮かぶ。『私の手紙』は、想像以上に柚葉の虚勢を穿っているのかもしれない。柚葉は半歩遅れつつも、ついて来てはいたが、その意識は未だに校庭の片隅に捕らわれたままの様に見えた。

「――ところで、用事って何だったの?」

 確かめたい。と逸る気持ちが口を動かす。

「夕香は、ラブレターとか貰った事ある?」

 ……欲しかったはずのその言葉を聞いても、思った以上の感慨はなく、絶対値の小さい卑しい安堵が湧き上がるだけだった。

「なにさ、唐突に……あぁ用事ってそういう事だったのね」

 適当に会話を合わせる。今度は私が上の空になる番だった。

 馴れないパソコンに半分振り回されながら打ち込んだ文章。私、大船夕香が一人で生み出し、確かにこの手で柚葉の鞄に押し込んだ。どうして、こんな事をしたのか。いや、自分のした事なので当然理由は分かりきっていて、それでもどうしてか、違和感が拭えない。手紙を出した理由はつまらない独占欲からだ。唯一の親友と過ごす、高校生活最後の一時を、下らない些事に浪費されたくなかった。些事とは、言うまでも無い事だが、柚葉に好意を伝えようとする輩だ。……つい昨日も、半開きになっていた柚葉の靴箱から、私はゴミを一つ片付けていた。柚葉はひどく優しい人間だ。心身共に醜い相手であっても、向けられた好意を無下にしたりは、決してしない。礼を尽くし、非常に心苦しそうに断るのだ。そんな風だから、誰も柚葉を好きになることに抵抗がない。それだけなら、私の親友は人気者というだけの話なのだが、勿論そうは問屋が下ろさない。

私が『それ』に気付いたのは、いつだったか。はっきりと根拠になるような出来事があるわけではない。しかし、曲がりなりにも三年間、柚葉と一緒にいて、これだけは確信を持って断言できる。柚葉に無遠慮に好意をぶつける人々が、優しさや、奥ゆかしさの現れだと誤解している柚葉の在り方は、単に恐怖と無知に由来する当惑でしかないのだ。

 しかし、周囲の誤解も無理もないことだとは思う。佇まい、雰囲気、オーラ、いくらでも言い様はあるが、柚葉を構成する『部分ではない何か』は柚葉の本質である臆病さを覆い隠し、凪に包まれたお姫様であるかのように錯覚させる。風雨に晒されながら生きるしかない有象無象に、その魅力は抗し難いものがあるのだろう。しかし、その想いは、どれも一方的な物で、結局彼らは自分の卑小さに耐えかねて、拠り所を求めているに過ぎないのだ。誰よりも弱く、誰よりも孤独なのは彼女なのに。誰よりも小さく、誰よりも愛に飢えているのは彼女なのに。彼女の本当から目を背け、強さと慈愛を求めてばかりで、彼女の弱さと愚かさを誰も認めようとしない。


 だから、せめて私だけは。


 あの手紙は、私の考え得る限り、最も柚葉の興味を引く内容にした。彼女の求めてやまない理解者が書いたかのように捏造した。そうすれば、柚葉は何があっても――例え他の呼び出しがあったとしても――必ずやって来る。私と彼女しか知らないはずの秘密の場所に。そう、あくまで捏造、偽物なのだ。私は柚葉の求める存在にはなれないから。哲学と性別という聳え立つ双璧が乗り越えられることなど、ありえない。

「夕香、待って」

 遅れていた柚葉が小走りで距離を詰めてきた。

「ねえ、夕香」

「んー?」

「今さっきさ、もらったことはないって言ったよね。ラブレター」

「それが?」

「夕香から、誰かにあげたことは、ないの?」

「ないよ」

私の書いた手紙は決して恋文ではない。

恋文とは――相手に、自分の好意を伝えるための物なのだから。初めから伝えない事が、伝わらないことが前提にある恋文などあるはずがない。

「そっか……」

「……」

「でもさ、いつかはある、よね。そういうこと」

「……かもね」

柚葉の声は、今まで聞いたことのないような、不思議な響きを孕んでいた。私はその真意を理解できず、相槌を打つしかできない。

 もしも、私が本当に、心からあの手紙を書けていたら、この世のどこにも存在しないあの手紙の真の差出人だったなら、何か違う言葉を掛けることができたのだろうか。

「夕香……」

 左腕に、重さと共に曖昧な熱が浸み出し、私と柚葉の境界を不明瞭にしていく。

「……うん」

 私は、この時間が永遠に続けばいい、と思う。火傷しそうな程の熱が欲しい。柚葉の隣で、柚葉自身以上に『柚葉』に近づきたい。彼女を理解して、望むことを何でもしてあげたい。しかし、果たして、柚葉はそれを望むだろうか。こんな風な溶け合うほどの熱伝導が、この先もずっと続くこと望むだろうか? 柚葉の本質は安物の蝋燭の様に、 朧で脆い存在だ。例え、温もりを求めるとしても、それはあくまで孤独の寒さに耐えかねた一時的な衝動にすぎないのだろう。

――――人の気も知らないで。


「……」

 また、歩くこと数分。

心拍と、衣擦れの音だけが響く静寂が、もうすぐ終わる。クラスメイト達が、もうすぐそこで待っている。左腕から全身に広がった熱は、この静寂(しじま)の外には持ち出せない。

クラスメイトの一人がこちらに気づき手を振って呼びかける、ほんの数秒前――脳内に終(つい)ぞ解かれなかった暗号文(ステガノグラフィ)の断末魔が幽(かす)かに響く。

手書きなら、きっとどんなに誤魔化しても、貴女は気がついてしまうから。

待ち合わせのあの場所を知っているのは、私と貴女の二人だけ。

貴女のことを、ずっと見ていたのは――私だけ

名前を書けなかったのは、怖かったから。ずっと側に居て、たった一つだけわかった、貴女のささやかな願いを、私には叶えられなくなってしまったから。

側にいる内、親友という分をわきまえた、行儀の良い関係では満足できなくなってしまった。そんな不躾な私に、想いを伝える資格など、名乗る名前など、あるはずもない。




ここでも、今でもない、どこかのいつかに生きる誰かへ。

柚葉を幸せにできる、あの手紙の差出人になり得る誰かへ。


柚葉が、望んでやまない、暖かさを彼女に。

柚葉が、望むことすら忘れかけている、鋭い熱を、彼女に。


そして、願わくは、あなたが、未来の私であらんことを――



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臆病者のステガノグラフィ @kagaribi

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