臆病者のステガノグラフィ
@kagaribi
第1話
折角の門出の日だというのに、桜はまだ衣替えの準備すら出来ていないようで、枝の先は無骨な蕾に閉ざされたままだ。もう三月なのに、校庭から見慣れた冬の色が抜けていない。その上、昨日から寒の戻りが酷いにもかかわらず、式があるせいで防寒着を着込めていない。そんな私の間の悪さをからかうように、一際冷たい風が足元を過ぎていく。女子高生らしく短めに詰めたスカートが僅かに揺れ、外気に触れていた肌を寒気が襲う。
「うっ……寒っ……」
体が震え、思わず肩を抱いて縮こまってしまう。もう式は終わり、級友との別れも十分惜しんだ。視界の端に映る校舎の影から、僅かに顔を出している時計に目をやる。 もう少ししたら部活の送別会、クラスでの打ち上げ、と卒業の定番とも呼べるイベントが始まるはずだ。今は催しの濁流が始まるまでの、僅かの空白の時間だ。ほぼ全ての生徒が、各々の教室で写真を撮り、談笑し、高校生活最後の一日を謳歌しているのだろう。浅薄な言葉遊びで塗り固められた将来を不安に思いながらも、それを無意識に押し殺し、吹き抜けるように、駆け抜けるように過ぎていった、風の矢のような日々を惜しんでいるのだろう。
私には、とてもではないが理解できない感情だった。何かしらの感動や興奮を覚えても、それはどこか懐古的で、未知の発見というよりは既知の再確認と呼ぶほうが適当に思えてしまう。いささか抽象的な言い方だが、私という人間は、いっそ生まれた時から老人であったかのようにすら思える。そんな私であるから、生まれてこの方、生きる上での方針はただひたすらに、沈まないように、しかし決して浮きもしないように、無理は絶対にせず、ただただ、保身と生存を第一に。普通に考えれば、露骨にこんな生き方をしていれば、周囲の人がいなくなってもおかしくはない。そんな私に、友人と呼べる人が多少なりとも在ることは、私自身の努力や幸運の結果というよりは、お節介な、『ある人』のおかげであって……
――びゅう、と今日一番に冷たい風が吹いた。余りの寒さに身体が震える。それだけでは薄着の代償は払いきれず、思わず背を丸めてその場にしゃがみ込んでしまう。その拍子に、一枚の紙片がポケットから零れ落ちる。寒風に攫われそうになるのを、慌てて拾い上げる。真ん中が折られただけで、白い無地のそれを裏返すと、私を寒空の下に縛りつけている元凶が現れた。
――今日、式が終わった後、体育倉庫の裏に来て下さい――
俗に恋文、というものだ。……実を言うと、こういう類の物を貰うのは、初めてではない。以前に、一度だけ。話は少し逸れるが、私は二通の恋文の他に、面と向かってこちらも二回ほど、好意を伝えられた事がある。幸い、という言葉が適切なのかどうかはわからないが、そういう場面では相手もひどく緊張していて、私の狼狽が悟られない内に有耶無耶に流してしまうことができたのだが……今、手元にあるこの紙のように、若々しい情動を、はっきりと具象化して突きつけられると、心が老けきった私は、泡を食って右往左往、返事どころではなくなってしまう。その時は、まさか自分がそんな物をもらうことになるとはつゆほどにも思っていなかったので、ひどく動転してしまい、件のお節介な友人に助けられ、何とか穏便に済ませた、という経緯がある。この手紙は知らない間に鞄の中に入れられていたようで、気付いたのはつい先程のことだった。そのせいで、例の世話焼きの力も借りられず、かと いって無視できるほどの度胸はなく……そうして、今に至る、というわけである。たかが半日を振り返る為だけに、人生観から恋愛事情までひどく話が逸れてしまったが、私の置かれている状況を簡潔に述べるなら、単に馴れない恋文にあたふたしているだけの青臭いだけの高校生だ。出来る事といえば塗装の剥げかけた倉庫の壁にもたれかかり溜息をつきながら周囲を見渡すことくらいで、しかし、二度三度と繰り返しても衣擦れ一つ聞こえず、全くの無駄骨になってしまうと、いよいよ所在なくなってしまい、半ば仕方なしに手元の紙に視線を下ろす。
「うーん……」
しかしながら、見れば見るほどおかしな手紙だ。と今更ながらに思った。普通、恋文が――溢れるほどの想いを押し込めた宝石ともいえる重要なものが、このような形になるものなのだろうか。第一に、紙そのものだ。目につきやすい色や装飾のあるような便箋ではなく……いや、多少地味な程度ならむしろ煌びやかなデザインが苦手な私にはかえってありがたいくらいなのだが……
「それでも、いくらなんでもこれは……」
どうみてもそれは単なるコピー紙なのだ。罫線すら入っていない、白いだけの紙だ。更に言えば、紙の真ん中辺りに、無造作に付けられた折り跡は、私が付けたものではない。私が鞄の中にこれを認めた時には、既にこの状態だった。角と角とが合うように丁寧に畳まれたわけでもなくかなり斜めに折れている、目測で適当に折ったのだろう。まるで、興味のない書類を畳むかのようなぞんざいさだ。……そういえば封筒もなかったな、と今更に気づく。そして、この手紙の最も不自然な点は、手書きではない、ということ。特に装飾や、字体の工夫が行われているでもなく、明朝体というのだろうか、普段からよく見かけるあの印刷機の無機質な筆跡だ。
悪戯、なのではないか。既に何度も否定した疑問が再び鎌首をもたげる。誰かが、私をからかおうと、戯れに作ったものなのではないか。粗末な紙に適当な扱い、およそ恋文には程遠く、偽物である可能性は高い、というより本物である可能性の方が低いように思える。
「……だから、違うってば。そんなはずない」
私は頭を振ってその考えを振り払う。きっと、自分の字に自信がなかったのだろう。
「うん。そう、そうに、違いない」
私があくまで、この手紙が誠実であるのを信じようとしているのには、理由がある。
――きっと、貴女が僕の事を知らない様に、僕も貴女の事を知らないのだと思います
――どうしても一度、直接会ってお話ししたい事があります
はっきり言ってしまえば、私は会う前からこの手紙の主に惚れ込んでしまっていたのだ。いやもちろん容姿はおろか、名前すらもわからないのだから、まだ彼の告げるであろう好意を受け入れるかどうかは決まっていない。そういうなら惚れる、という言葉は多少語弊があるかもしれないが、それでも他に適切な言葉が見つからないのだ。陳腐な言葉を避けつつも、決して気取らない言葉選び、また、私に気を遣わせたくない、という配慮も、文章の端々から伝わってくる。きっと、 彼は私に近い性質を持っている。本質的に臆病者なのだ。だから自分の想いすら、言葉で浸して、煙に巻かなければ表現できないのだろう。その婉曲は、私に対する羞恥というよりは、きっと彼自身に対する不信によるものなのだ。少なくとも、私が彼の立場ならそういう理由になるだろう。
私は確かめたいのだ。本当に、彼は私の写し身なのか、はたまた私の解釈はてんで間違っていて、私が読み取った文脈は全く違う表情を見せるのか、何にせよ彼に会えば、全てわかる。……その筈なのだが。
「……」
再び時計に目を遣る。この益体(やくたい)のない思索に耽(ふけ)りだしてから、それ程時間が経っているわけではない。しかし、卒業式が終わってからはそれなりの時間が経過している。在校生、卒業生の区別なく、とうに自由に動けるようになっているはずである。手紙に記された待ち合わせの刻限をどう曲解しても、今より遅い時間を指定しているとは思えない……。雲行きが、怪しくなってきた。本当に、この手紙は偽物で……いや、そうじゃない。
「もしかして……」
『何が「もしかして」なの?』
「ひゃあ!」
突然の声に驚いて、思わず悲鳴をあげて飛びのいてしまう。自分をこのような言葉で表すのは滑稽かもしれないが、私はこんな『可愛い』悲鳴をあげるような人種ではない。私の本質でも、『私が偽っている性質』でもない。いうなれば、誤作動だ。だから、早く伝えなければ。ようやく現れた手紙の主に、私は貴方の思った通りの人間だと。私も、貴方のように、普通の人間が当たり前に持っている哲学を喪失しているのだと。それが具体的に何かもわからない故、分厚い仮面を被らなければまるで裸で出歩くような心持ちがしてしまうということ。そして……一つの事を尋ねなければならない。
――どうして、私に会おう思ったのか。
「おーい。大丈夫? ……つーか、こんな所で何やってるの? 風邪ひくよ?」
耳をなぞるのは、想像していたような低い声ではなく、どこか聞き慣れたソプラノ気味の明るい声だ。
「あれ……?」
おそるおそる後ろを振り返る。
声と同じ様に明るい髪と、どこか間の抜けた柔和な顔が視界に映る。
「早く教室戻ろう? ここ、マジで寒い」
そこにいたのは私の数少ない、いや、心を許せる唯一の友人。よく考えれば、この場所を知っているのは彼女くらいのものだった。
「夕香……何でここに?」
「姿が見えないから探しに来た」
「用があるから待っていて、って言ったのに」
「柚葉が言ったのは『用があるから「昼まで」待っていて』だよ。時間過ぎても来ないから探しに来たんだけど」
「えっ!?」
自らの二の腕を抱いている夕香の右手を取る。
「わっ! 何するの!?」
困惑する夕香に構わず袖を少しだけ捲ると、見慣れた腕時計が現れる。確かに、短針が右側に頭を垂れ始めていた。
「…………」
「柚葉?」
落胆して、声も出ない私の肩が、無遠慮に揺すられる。
「早く行こう? もう用は済んだでしょ?」
「あぁ、うん……」
殆ど上の空で返事をし、黙って夕香の後ろをついて行く。無駄話に適当に相槌を打ちながらも、頭からはあの奇妙な手紙の事が離れない。あれは悪戯などではない。あの文章は軽薄な悪意を幾ら費やした所で、到底書けるものではない。手紙は本物だとすれば……呼びつけた本人が現れなかった理由に説明がつかない。…………いや、違う。
理由は、既にわかっているのだろう。と心の声が指摘する。何の根拠もない、こじつけにも思える程度のものだが、確かに、一つだけ、妥当といえる考えがあった。もし彼が、私と同じような人間だとして、彼自身もそのことに気付いていて、しかし一方で、私はそのことはおろか、彼の存在さえ認認識していない。そこで彼が私に存在を示し、より深く知り合うためにこの手紙をしたためた。と仮定する。おそらくここまでは事実と相違ないだろう。しかし、いざ、顔を晒すとなった時、そう簡単に事が運ぶだろうか? 彼は、『私と同じ』人種だというのに。 私なら、どうするか。きっと、同種たる人間を見つければ、舞い上がってしまうだろう。抜けだそうとすら思わなかった、孤独と疎外の沼を、共に這い出るための同志が見つかった、と。他の誰にも理解できなかった、私だけの言語(ステガノグラフィ)を理解できる存在が現れたことに浮足立って、そのまま勢い余って、手紙なども出すかもしれない。しかし、いざ会うとなった時、恐らく、本当の私である、冷笑主義の捻くれた老婆が顔を出す。
そして、こんな風に言うのだろう。
(お前と同じ人間など、いるはずがない)
(会っても無駄だ。彼が理解者たり得るはずがない。この独りよがりめ)
私は、その言葉に頷くしかないのだろう。名前すら知ることの出来なかった彼の様に。
「――ところで、用事って何だったの?」
手を引かれるように夕香についていくこと数分、思い出したように夕香が尋ねてきた。
「……夕香は、ラブレターとか貰った事ある?」
別に、隠していた、というわけでもないのだが、間の悪さと気恥ずかしさから今日の件は夕香には伝えそびれていた。そのことが妙に後ろめたく、婉曲的な言い方になってしまう。
「なにさ、唐突に……あぁ用事ってそういう事だったのね」
「うるさい。余計な事まで察しなくていいからね」
「自分から遠回しな言い方しといてそりゃないよ」
「うっ……」
もっともな反論に言葉が詰まってしまう。
「そ、それはともかく、実際の所どうなの?」
「私? あるわけないじゃん。どっかの可愛い人気者とは違うんですよー」
「……そういうの、止めてよ」
夕香の軽口すら笑って聞き流せずに、不機嫌で冷たい声が漏れてしまう。
「柚葉……?」
「ご、ごめん! そんなつもりじゃなくて、その……ごめん」
「……柚葉、何かあったの?」
私の挙動不審からか、夕香の声が気遣わしげなものに変わる。
「大丈夫、だよ。何でもないから」
「……ふーん。ならいいけど」
ほらいくよ、と言って、夕香はすたすたと歩き出す。
私は、夕香のこういう所を心地よく感じている。私の愚かさや浅はかさを許容してくれながらも、決してべたつかない距離感を守ってくれる。私の踏み込んでほしくない領域を何となく察知して、それとなく避けてくれる。彼女のもたらす、中庸な温度のお陰で、私は 普通の人間を繕っているといってもいいだろう。
「夕香、待って」
少し歩幅を広くして、彼女に追いつく。
「ねえ、夕香」
「んー?」
「今さっきさ、もらったことはないって言ったよね。ラブレター」
「それが?」
「夕香から、誰かにあげたり、好きだって言ったりしたことは、ないの?」
「ないよ」
「そっか……」
「……」
即答だった。よほど興味がないのか。口数の多い夕香にしては珍しく、続く言葉もない。
「でもさ、いつかはある、よね。そういうこと」
「かもね」
相変わらず夕香の返事はおざなりだ。夕香に限って私に怒っている、ということはないだろうが。彼女も疲れているのだろうか。
頭一つ高い夕香の横顏を見る。珍しく何か考え込んでいるようにも見えた。性格を表すように明るい茶髪。溌剌としており、意識せずとも人を惹きつける魅力がある。
……夕香はどんな人を好きになるのだろうか。ふと、そんなことが気になった。彼女と同じ様に、求心力と活力に溢れる人か、それとも、彼女の助けを真摯に求める清廉な人か。……いずれにせよ確かなことは……その人は、私が装っている、ちぐはぐに着込んでいるだけの言葉を――誠実だとか、慈愛だとかを、自己の一部として当然のように所有している、私とは構造からして違うかのような、想像もつかない高潔な人間なのだろう。
私は、彼女の存在にもたれかかりながらも、自らの愚鈍脆弱を曝け出すことが出来ない。いや、きっと夕香なら、笑ってそれを受け入れてくれるのだろう。私が望みさえすれば、何かどうしようもない事情でもない限りずっと側で、今のような適度な距離感を守ってくれるのだろう。しかしいくら夕香が優しくても、私は溢れそうになっているこの思いの、ほんの一雫さえ、夕香に伝えることは出来ないだろう。どれだけ夕香を信頼しても、私は自分自身を最後には信用出来なくなってしまうから。どれだけ他人を愛そうとしても、自己嫌悪の濁流とそれに必死に抗する自己愛の狭間で、孤独に震えるので精一杯なのだ。
「……んっ」
風など吹いていないのに、不意に、今日一番の寒さを感じて、夕香の左腕にしがみつく。
「夕香……」
「……」
今ひとつ反応が薄いのが気になり、より近くで夕香の顔を見つめる。
物憂げに考え込んでいる姿は、年不相応に大人びてみえて、さっきまで手紙の主を待っていた時のような、心臓が痺れるような、肺が震えるような錯覚に襲われる。心地よさなんてどこにもないはずなのに、酸味と苦味に混じって、時折ゆるい甘さが染み出してくる。
……この感覚は、『私』が失った、いや、『今も失い続けている何か』なのかもしれない。寒風に混じって、どこからかそんな考えが頭をよぎる。
ちぐはぐな寒さと、奇妙な手紙の温度差は私の思った以上に『私』を揺さぶっていた。
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